― remember青春、revolver創造 ―
― 旅立は偶然、必然、それとも運命 ―
【主な紹介場所】津和野駅とSL、安野光雅美術館、桑原史成写真美術館
朝焼けにオレンジ色に染まる羽田空港沖、穏やかな波間に細かく砕かれた無限の銀紙が光り輝いています。好きです。幾つ歳を重ねても、この風景が穏やかな気持にします。けっして記憶に残り思い起こすことはないのですが、ここを通ると懐かしく感じるのです。初恋の人ではなく、二番目、三番目の片思いの方との出会いに似た、何かの折に心が震えるのです。
iPhoneを取り出し、モノレールの車窓越しに撮影します。遠視が進んだおかげで近視がとまった肉眼に映る景色より、ずっとずっとピンボケで白い光に滲んでしまうのも知っています。でも、思い出とは別に形として留めておきたいのです。
やはり何でもない海の風景でした。これでいいの、美しいと感じた、その瞬間の気持を丁寧に折りたたむことが大切なのだから。
心地好い振動に眠ったようです。シートベルトの着用の音に気づきました。飛行機は萩石見空港に定刻通り着陸するようです。日本海の静かな入り江を小舟が浮かんでいます。やがて飛行機は砂地と柴を眺めつつ降下していきます。
初めて津和野を訪ねたのは、19の夏。「アンノン族」(※)と呼ばれた「ディスカバージャパン」の頃。原色のサイケデリックな服を着て、大きな横長のリュックを担いでいることから「カニ族」とも言われました。
70年代から80年代かけての津和野の町は、鯉と二人乗りの自転車の観光地です。清里が「コーヒー牛乳と二人乗りの自転車」であったように。
※1970年代に創刊された若い女性をターケツトにするファッション雑誌『anan』と『non-no』から生まれた、おしゃれな服を着て旅をする女性。
楽しかった。「箸が転がっても可笑しい年頃」の旅でした。でも、皆との出来事も卒業、結婚、それぞれの日々のなかで薄れていったのです。
ところが突然に。うん十年前の青春の津和野が、夜店の綿菓子のようにふわぁっと現れたのです、実体の薄い美しさだけに包まれ。
初詣はちょっと日をずらして根津の「根津神社」と決めています。参拝のあとは根津美術館か弥生美術館に寄り上野公園まで歩きます。ところが今年、乙女稲荷神社の赤い鳥居に魅かれるままお参りし、反対側からでたのでした。路地裏を靴音も立てずに抜け、目にしたのが「文京区立森鴎外記念館」でした。
『鴨』『舞姫』『山椒大夫』、どの作品が好きというのではありません。どちらかというと、明治という時代性でしょうか、「待つ女」「耐える女」「静かな女」を強調する鷗外の作風はあまり好きにはなれません。文体に馴染んでいるだけです。
展示された『森鴎外年譜』のところで足も視線も止まりました。
『森鴎外 文久2年1月19日(1862年)、石見国津和野、現在の島根津和野町に誕生』
森鴎外は島根の人だった。津和野の町を訪ねたのに忘れていました。それともお友達とのお話しに夢中で気にもかけなかったかもしれません。身体のなかを熱い鉛のような後悔がこみ上げたのでした。もしあの時、もう少し勇気と分別があればと。
ディスカバージャパンのブームに誘われ友達と出掛けた津和野の旅の記憶が、森鴎外の遺品や記念品を見るごとにオレンジ色と銀色となって表れたのです。
津和野に行こう、あの青春の出来事を思いだすために。『remember青春』。数年後に開かれる還暦の記念パーティーのタイトルと同じ『remember青春』。
名前は「古都子」と書いて「きょうこ」。随分凝った名前です。お見合いで結婚した方の苗字が「古藤」さん。「ことうことこ」ってからかわれました。生れは京都市の古いだけの家。東山にある女子高・女子大に通い、卒業すると薦められるままに四条通にある老舗のデパート勤め。窮屈ではありませんが意思の伝えにくい、京都の通りに似た格子窓の形通りの単調な日々をおくっていました。
25を少し過ぎたころ、「クロワッサン症候群」になる前にと、周りのすすめでなんとなく結婚して、「ことうきょうこ」になりました。急に主人が東京に異動。初めての東京暮らし。友達も知り合いもいないまま、団地の中に押し込まれ、ケチな主人のお陰様でどこにも出かけることなく20代が過ぎました。主人の一度の浮気で嫌気がさし、周りの意見に初めて「反逆」して離婚したのが30代の中頃です。子供はいません。
その時知りました、ひとりでいることの自由を。親も、親戚も、世間も気にすることなく背伸びできることの解放感を。派遣会社に登録し、いろんな仕事を経験し、いろんな方と出会い、いろんなことを考えるチャンスをえました。お付き合いもしました。けど、結婚となると気が引けてお断りしました。殿方に不満や欠点があるのではありません。結婚に心ときめくことがなかったのです。それとも面倒だったかもしれません、同じところで二人が息をするのが。
古都子の趣味は読書と散策。年に数回、海外旅行にも出かける女子(おなご)です。能天気なのと独身が長いお陰で、飲み屋さんでは40代とからかって頂いております。これも古都子のヨガとウオーキングのおかけでしょうか。お世辞だとはわかっていますよ。
「こと(古都子)、こっちよ」。京都駅・山陰本線下りゼロ番ホーム。
美保・智子が車窓から手を振り、デッキには腕組みした二つ年上の純子が睨みつけていました。「おそい」。日和っても学生運動の経験者である四国出身の純子は厳しい人です。その点、古都子は美保や智子と同じで穏やかな京女。
初めての夜行列車の「青春の旅立ち」でした。山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』。
旅行の提案者は卒業とともに結婚が決まっていた西陣織の一人娘の美保、山陰地方を提案したのは門限が一番厳しい和菓子屋さんの智子。下宿生活でアルバイトに精を出す純子は、新婚旅行で話題になる北海道を提案しました。優柔不断な古都子にも北海道は遠かった。
三条河原町の喫茶店「六曜社」や高瀬川沿いの「ソアレ」での相談の結果、「山陰・ワイド周遊券」をつかった松江出雲と萩津和野に決まりました。ユースホステルや民宿の予約と移動の計画は旅慣れた純子が担当。京女組の三人は、何を持って行くか洋服は何にするかのおしゃべりとお買い物。服は「BAL」で、小物や消耗品は「長崎屋」でした。
旅の洗礼は夜行列車の中。トランプに興じる私たちに、襟の汚れた長袖のワイシャツをまくり上げたオジサンが、「いつまでさわいじょうが。もう寝え」と怒鳴りつけたのです。立っている人も、通路に座る人もいる満員状態。普通夜行列車は若者の旅行者だけでなく、勤めている人もたくさんのっていて、明け方前には大きな荷物を背負う行商のお婆さんたちも乗ってきました。
松江・出雲市で下車することなく萩・津和野へと向かいます。朝ごはんはみんなで作ったおにぎりと水筒に入れた麦茶。四人の間には誰も入ってこられない密な雰囲気ができています。それは計画の時に決めた、男の人との一緒な行動はしない。もちろん抜け駆けもしない「契り」を結びました。結婚が決まっている美保の提案で、冷コー(アイスコーヒー)を飲み干すまでもなく皆同意しました。一番に賛成と言ったのは古都子でした。
大きく開けた窓からは穏やかな日本海の潮風が入ってきます。
島根県は三つの地域で構成されています。県庁所在地のある「出雲地方」、日本海に浮かぶ「隠岐地方」、そして山口県寄りの「石見地方」。
石見地方には、五つの日本遺産があります。山陰の小京都と言われてもいる津和野町には、「津和野の今昔-百景図を歩く―」と益田や浜田など複数の地名が連なる「神々や鬼たちが躍動する神話の世界―石見地方で伝承される神楽―」に指定されています。
萩津和野空港から直通の乗り合いタクシーでJR津和野駅に着いたのがお昼前。
驚きました。ものすごくビックリしました。奇麗な駅前の道や家並みではありません。若い女の子を見かけないのです。貸自転車屋さんはあるものの自転車に乗る人はいません。もちろんあの頃、我も我もと争った二人乗りの自転車などあろうはずもございません。
どこがどう変わったのでなくて、ディスカバージャパンの頃の津和野の賑わいや覇気が霧散しています。あるのは肌に深く染み入る灼熱の太陽の白い光と、アスファルトの跳ね返りの黒い熱。静寂に浮かんで来る記憶のなかのこと(古都子)だけです。
あの時、旅慣れて、なにごとも計画的な純子はてきぱきとしていました。
事前に予約した駅前の自転車屋さんに飛び込むと、当日の自転車の空きを待つ長い列を一瞥し、二人乗りの自転車一台と一人乗りの自転車二台を借り受けたのです。駅前にも民宿やお店にもレンタル用の自転車があって、数千台あるとも噂されていました。待ち人のブーイングなど「ナンセンス」と切り捨て、私たちにピースサインを示したのです。逞しき京都の女子(おなご)。いえ、土佐の血をひく豪傑女子です。そういえば口にするのが「龍馬はんの恋女房おりょはんどすえ」だった。
タクシーがないことを確認すると日傘を畳みキャリーケースを引きます。
津和野の通りはいたって簡単、二本の大通りと繋ぐ路地さえ注意すれば誰に訪ねることなく目的地に着きます。一度、町の案内地図を俯瞰しましょう。
今日の訪問予定は、津和野駅とSL、安野光雅美術館、桑原史成写真美術館、中村吉蔵記念館(一話)から、津和野城跡出丸、津和野城跡本丸、リフト、鷲原八幡宮、太鼓谷稲荷神社(二話)、などなど。
アンノン族で訪ねてからうん十年、JR津和野駅も駅前もすっかり変わっています。
SLの現物、隣りには、向かい合う形で美術館と写真ギャラリーがあります。ディスカバージャパンの思い出を辿ることしか頭になかった古都子は、あらためて月日の流れに気づき、創意と意思の大切さを諭されました。
・津和野駅とSL
1960年代中葉、全国の蒸気機関車は合理化で廃止され、1970年代前半、山口線からもSLが消えました。京都の山陰本線も蒸気機関車が黒煙をあげ走っていたはず。
その後、SL復活へ願いが高まり、1979年8月、「貴婦人」の愛称で復活しました。 駅舎は、開業100周年の2022年にリニューアルオープンしました。奇麗な建物です。
駅前には、2019年からSLが展示されています。1973年、最後のSL列車「さよならデゴイチ号」をけん引した「D51型194号機」です。
山間を走る汽車がはきだす水蒸気と煙が、脳裏の底に微かに残っています。それが直接見た風景なのか、テレビで見た映像なのかあやふやです。
・安野光雅美術館
2001年、安野光雅75歳の誕生日に「安野光雅美術館」が開館しまし。ディスカバージャパンの頃にはもちろんありません。
安野光雅(あんの・みつまさ)、1926(大正15年)に津和野町に生まれました。生家は宿屋で絵が大好きな少年だったそうです。
戦後、美術教師のかたわら本の装丁などを手がけ、1961年教師を辞めて画家として独立しました。文章がない絵本『ふしぎなえ』で絵本界にデビュー。その後、独創性に富んだ作品を数多く発表しました。代表作は『ABCの本』『天動説の絵本』『繪本 三國志』、また司馬遼太郎の紀行『街道をゆく』の挿画などがあります。
「安野さんによって生みだされた多くの絵本は親子三代にわたっての読者となっていただいています。(略)幼き日に育てた空想力、発想力、芸術的な感性、幅広い視野、たぐいまれな探求心、そういった日々の上に安野作品が育まれてきたと思います」(安野光雅美術館 館長 大矢鞆音)
一番好きなのが、『繪本 仮名手本忠臣蔵』です。
・桑原史成写真美術館
桑原史成(くわばらしせい・本名はふみあき)、1936年生まれ、日本の報道写真家です。水俣病の先駆的な写真家で、団塊の時代の方は多くのエピソードで記憶に残っていらっしゃるのではないのでしょうか。
こんな逸話があります。1960年、大学と東京総合写真専門学校を卒業してもフリーでいた桑原史成は一度郷里に帰ります。見送りに来た友人が渡した週刊誌『週刊朝日』(現在廃刊)。そこに掲載されていた小松恒夫の現地ルポ「水俣病を見よ」に衝撃を受け、水俣病の取材撮影を決意しました。原因は公にされない頃です。
1962年、写真個展「水俣病―工場廃液と沿岸漁民」を開催。開催にまつわる逸話もあります。その後、韓国、南ベトナム、ロシアなども取材されました。
1970年代、価値が大きく変える表現活動や、古い考えや制度に異議を表す運動が至る所で生まれました。
1997年、写真を通じて国内外の出来事を紹介するドキュメンタリー・ギャラリーとして、オープンしました。お邪魔した日も意欲的な写真が展示されていました。
桑原史成の写真や生き方はノンポリだった古都子も知っています。古都子の周りにも一眼レフのカメラを提げカメラマンを目指した友達がいました。純子もカメラを首から下げ、kodakのISO400がどうとかおっしゃっていました。
純子に知らせなくては。きっと見学したら青春を思い出すでしょう。
その純子は、旅行に出かけた年の秋に大学を辞めました。親のたっての願いというより、結婚を強いられたようです。数年後、再会した純子は借金の帳消しだと笑いながら愚痴っていました。
結局、飛べなかった『カモメのジョナサン』(※)は、リベラリストの純子とノンポリの古都子で、封建制度に囚われていた美保と智子は「カモメのジョナサン」になって、最後には飛んで行きました。
※リチャード・バック『jonathan Livingston seagull -a story』(1970年)出版、ベストセラー。1974年、新潮社より五木寛之の訳で『かもめのジョナサン』として出版。
あの頃にはなかった二つの記念館にふれ、とっくの昔に忘れていた青春の一コマが、ひとつひとつシャボン玉のように飛び、風に吹かれて弾け消えます。胸が締め付けせられ、苦しくなります。そして津和野の風土の深み、生み出す創造の意思を強く感じました。
あの時は、『anan』や『non-no』に掲載されるファッションやグッズにしか頭になく、ファッションモデルの真似をして写真を撮ることがいちばん大切でした。ボーイフレンド(あの時代言葉です)もいない古都子は、「きっと素晴らしい人に出会うよ」と美保に慰められ、純子には「男を紹介することなんか簡単よ、でも女は自立しなくては」と叱られていました。
純子と純子の彼と出かけたスーパーの上にあった映画館、「京一会館」のオールナイト。高倉健主演の任侠映画『昭和残侠伝』の四本立て。人情を捨て義理に生きる花田秀次郎(高倉健)に、芸者の幾太郎(藤純子)が呟いた「今度、生まれてくるときは、私の義理に生きて」。男たちが「異議なし―」と叫ぶ中、純子は「ナンセンス―」と彼氏の手を握り叫んでいたわ。
京都大学の西部講堂のイベントにも、同志社大学のイブ祭にもでかけました。女の自立は分かっていました。でも男の人が女の人を求めるように、私も出会いたかった、素敵な彼と。そのひとつが、この津和野の旅でした。
そんな思いが、津和野の駅前で一挙に溢れだしました。涙が出そう。こんな歳になったのに、青春の古都子が隣にいます。
津和野駅で野宿した旅の大学生が、一宿一飯の恩義だと、待合室を、トイレを掃除していました。虫歯の前歯を磨き終わると、長髪の額をバンダナで縛り、洗濯したTシャツをリックに付け、次への目的へと旅立つのでした。また会おうとか言っちゃって。そうだ、彼は九州大学に寄り、長崎に行くと話していました。
津和野も変わりました。バブル期のような『鯉と自転車』の町ではなく、「出会いと創造」を大切にする『文化と自然が共創』する町に。『revolver創造』。
古都子も変わらなくては。年だからって理由にはならない。まだ若いのだから。人はいつでも若く、変われるのだから。
■ 安野光雅美術館 〒699-5605 島根県鹿足郡津和野町後田イ60-1 ■ 桑原史成写真美術館 〒699-5605島根県鹿足郡津和野町後田71-2
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