• ~旅と日々の出会い~
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静寂に秘められし情念の町、津和野(三話) 哲学 営為に織りなされし佇まい(問い)

― remember青春、revolver創造 ―

三話 哲学 営為に織りなされし佇まい(問い)

― 森鴎外も西周も知らない鯉の小川、津和野百景 ―

【主な紹介場所】鯉の米屋、津和野日本遺産センター、藩校養老館、森鴎外旧宅、森鴎外記念館、西周旧居

鯉の町

ディスカバージャパンの頃に比べ旧跡も整備復活され、新しく美術館や写真ギャラリー、さらには日本遺産の紹介施設も作られ、広く津和野の文化や歴史を学び体験することができます。でも変わらないのが鯉の町・津和野。

・お米屋さん

アンノン族で来た時も、津和野駅から数分のお米屋さんの鯉をまず見学した。津和野を鯉の町にした吉永お米屋さんです。

今でも米俵とともに「鯉の米屋」の暖簾があります。懐かしかったのは、お店のなかの右手にあるコカ・コーラの瓶の自動販売機です。あの時は買いそびれましたが、今回は買いました。
店の奥におおきな池があり、色とりどりの錦鯉が泳いでいます。かつては津和野の家々にも鯉を飼う池があり、観賞用として飼っていました。

「食べないのですか」

子供だったご主人が大きく頭を振り、「津和野では食べません」と強くおっしゃった。ただ、料理として出す店もありますが、ここの鯉は食べませんと穏やかにお話しされたのを見て懐かしさがこみあげたのです。

津和野の活性化のために伝統文化の裏方として活躍されるご主人、明るくお話をしてくださった奥さん、歳は取られても綽綽としたあの時のご主人。当時の雑誌をめくりながら時の移りを話していただきました。アンノン族の写真に照れながらも、どこか嬉しい思い出話です。こんな髪形に、丸っこい化粧をしていたのかしら。

津和野の町は変わりました。観光客と生活がどのように共存し、失ってはならない文化や心を保ちながら町の人に出会えるか楽しみです。もちろん観光客の側も共存と共感を考えなくてはいけません。

津和野は日本遺産に登録されています。次に向かうのは津和野町日本遺産センターです。

吉永お米屋さん
コカ・コーラの自販機
津和野町日本遺産センター

津和野の町の散策は、まず津和野町日本遺産センターでの見学と説明をきくことをお薦めします。もちろんアンノン族の頃にはありません。

日本遺産に認定された「津和野今昔~百景図を歩く~」。その物語を、映像やパネル展示などで解説しています。常駐するコンシェルジュ(案内人)の皆様のガイダンスは、それぞれの個性ある博識と工夫でガイドブックにない庶民生活まで伺うことが出来ました。ただひとこと、皆様のお話しはすべて魅力的ですので、初めに時間を設定された方がいいと思います。情熱的な話しぶりについつい聞き入ってしまうのです。

一階の展示室では、百景図(複製)すべてを見ることができます。書籍の販売もあります。百景図を通じた津和野の新しい歩き方をご提示していただけるので、貴方にあった津和野の町の散策が可能です。二階には津和野の町のお祭りが紹介され、四季を通して津和野を楽しむことが出来ます。鮎や里芋についてのお話を拝聴できたのは、時期的に食することはできませんでしたが楽しい思い出になりました。

津和野日本遺産センター

・津和野百景図

津和野藩最後の藩主・亀井茲監の命に栗本里治が、約4年の歳月をかけて藩内をめぐり名所旧跡や風景、文化・風俗から逸話、さらせは食事や生活まで幅広く百枚の絵に描きあげたものです。

今の津和野と百景図の津和野を比較して訪ねてみるのも一興です(コースにあり)。

・栗本里治

百景図を描いた栗本里治は、弘化2(1845)年に生まれ、津和野藩の茶室管理などをする「御数寄屋番」についていました。若いころに狩野派の絵を学び、百景図以外にも「津和野城下町全景図」など残しています。

このような絵が存在し、複写でも公共の場で公開されることは、津和野藩の今昔を伝えるだけでなく、多くの人々と文化を共有する津和野の風土や気質を窺い知ることが出来ます。こんな風土が、駅前にある美術館や写真美術館に共有されていると思いました。

書籍樹『津和野百景図』
津和野カトリック教会

四話にて紹介します。

藩校養老館

・鯉とアヤメ

大通りに沿って行くと、疎水を泳ぐ大量の鯉に出会います。あの頃は二人乗りの自転車を停めて、鯉との撮影に歓喜しました。足音に、手を打つ音に反応します。パンくずを与えた人の景につられ鯉も移ります。ふくよかなお腹をし、滑稽な顔、ぱくぱく開く口。見入ってしまいました。

鯉が泳ぎ花菖蒲が咲く掘割になったのは、明治年間以降のことです。『津和野百景図』の殿町通りには疎水がありません。養老館に通った西周も、森鴎外も、掘割も泳ぐ鯉も見てはいことになります。

掘割の鯉

・藩校養老館

現在ある校舎「武術棟」(槍術教場、剣術教場)と土蔵「御書物蔵」の二棟と敷地は、昭和44年(1969)に『津和野藩校養老館』として島根県指定史跡になりました。

養老館は藩主亀井矩賢が、天明6年(1786)に創設した藩校です。創設当初は儒学を中心に漢学、医学、数学、兵学などを行い、11代茲監によって嘉永2年(1849)に国学や蘭医学を設けられ人材育成に力を入れました。

西周、森鴎外、福羽美静(国学者)、紡績の山辺丈夫、地質学の小藤文次郎(日本地質学の父)など多くの奇才を輩出しました。

嘉永6年(1853)の大火で焼失してし、安政2年(1855)に現在地に再建されました。明治5年(1872)に廃校。

昭和45年(1970)に全面的に修繕工事を行い、民俗資料館と図書館(平成10年頃まで)に活用されました。平成27年から解体・復元工事を行い、平成31年3月に竣工しました。

ディスカバージャパンの頃は図書館でした。『男はつらいよ―寅次郎恋煩い―』でマドンナ役の吉永小百合(歌子)が働いていたところがこの図書館です。

養老館
亀井茲監と福羽美静

津和野は養老館を抜きに考えることはできません。武士階級だけでなく庶民にも少なからず影響を与えたでしょう。直接・間接に学ぶとことではなく、城下町の風土や雰囲気を形成し、人の考え方や生き方に多大な影を落としたのです。

養老館を訪ねたら、少し時間をかけて「津和野町郷土史館」で藩の歴史に触れてください。もちろん日本遺産センターでコンシェルジュの方にお尋ねするのもいいでしょう。

最後の藩主亀井茲監(かんじ)と行動派国学者福羽美静(よししず)、そして国学者の大国隆正について、少しふれておきます。

藩主亀井茲監、行動派国学者福羽美静について、山岡浩二著『明治の津和野人たち』を参考に紹介します。二人に触れるのは、現在の津和野を考える時、二人が行ったことを抜きには考えにくいからです。もちろん、二人を知らなくても津和野の町を観光し、西周にも森鴎外にも触れることはできますが、津和野の文化や風土を考える時、この二人を抜きにはありえません。

・亀井茲監と国学

文政8年(1825年)、筑後久留米藩藩主有馬頼徳の子として江戸に生まれました。天保10年(1839年)に亀井茲方の養子となり、天保13年(1842年)、宿老の多胡丹波を隠居させると藩政改革に乗り出します。

人事刷新・財政緊縮とともに行った大きな柱が文教改革でした。遊学の奨励と蘭学の推進。さらに江戸深川の下屋敷を売却して得た一万両を学問関係に投資、養老館を設立したのです。

文教改革は「箱物造り」ではありません。魂ともいえる理念と指導者が必須です。徳川封建体制の中心的思想であった朱子学から国学へと舵を切り、津和野出身の国学者岡熊臣や大国隆正を養老館に迎え入れます。

岡熊臣によって養老館の学則を「道は天皇の天下を治め給ふ大道にして・・・」と定め、神道を打ち出したのです。幕末の小藩が、どんな目的で、なぜ打ち出したのでしょうか。幕末の津和野藩の置かれた位置と、ありたいと考える方向(理念)があるのでしょう。

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では消極的な立場をとり、明治新政府樹立後は積極的に従い、廃城令発令(1873年)に二年先立って廃藩と居城三本松城の破却(民間払下)を行いました。岡熊臣・大国隆正・福羽美静と藩内に国学を築いたことから神祇事務局判事・議定職神祇事務局輔・神祇官副知事などを歴任し、宗教関係の行政につきます。これが乙女峠の弾圧事件へと繋がることになります(四話)。

・行動派国学者福羽美静

亀井茲監は教育とともに情報収集も積極的に行います。長州征伐やペリー来航など六年間に延べ190人の有能な藩士を江戸・京都・大阪・長州などに派遣します。討幕・佐幕どちらにつくか、開国か鎖国か、そこで暗躍するのが福羽美静でした。

津和野藩福羽美質の長男として嘉永2年(1849年)に生まれ、19歳で養老館に入学。亀井茲監の命を受け、嘉永6年(1853年)京都に上り、大国隆正の「敬本学舎」に入門し国学思想の影響を受けます。安政4年(1857年)に帰藩し、養老館で教授を務めます。文久3年(1863年)、社会の情勢を調べるため京に向かいます。会津薩摩の公武合体派に長州が破れた「八月十八日の政変」では、長州に下る七卿と共に西下し帰藩しました。

情報収集と機敏な判断力と交渉術で、幕末の幕府や長州との一触即発の状態を回避し、弱小藩の津和野を守り続けたのです。

・国学者の大国隆正

津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれました。文化3年(1805年)に平田篤胤の門下となり国学を学び、昌平黌においては古賀精里に儒学を学びます。一方絵画や詩も学び文人墨客と交流を深めました。

本居宣長の門人である村田春門に国学(宣長学)・音韻学を学び、文政元年(1818年)に長崎で蘭学を学びます。文政11年、津和野藩の大納戸武具役となりますが、学志を捨てきれず翌12年に脱藩。各地の藩校で教えました。皇道の復興を主張、江戸や京都、津和野を奔走しました。

嘉永4年、津和野藩主亀井茲監によって藩籍が復活され、養老館国学教師となります。門人には、王政復古の大号令を献じた玉松操や福羽美静ら多数います。

山岡浩二『明治の津和野人たち』表紙
川辺の風に吹かれて

養老館の横の公園ですこし瞑想して森鴎外と西周の旧家に向かいます。その前に、橋のたもとにある『津和野町郷土館』を訪ね、もうすこし津和野の町を学んでおきましょう。

・木造の建物を活用した「津和野町郷土館」

「津和野町郷土館」は、養老館と川を挟んだ反対側にある木造造りの質素な雰囲気を醸している建物です、古めかしい門と塀に、ある種の立ち入り禁止の威圧を感じるかもしれません。

でも、郷土館には、縄文時代から現代までの歴史・文化の貴重な資料が展示されています。

養老館で触れることのできなかった吉見・坂崎・亀井三氏にわたる津和野城主の歴史、人材育成の始まりとなった「養老館」の資料、また西周をはじめ多くの先人の遺品、乙女峠のキリシタン殉教関係資料、文化芸術の作品など、津和野の歴史の中に蓄積された豊かな文化遺産が展示されています。

木造造りの建物に、古都子のような世代は子どもの頃の小学校や役場の建物を思い出します。黒板にチョーク、新聞紙で磨いたガラス窓に白いカーテン、箒に雑巾。バケツをもって廊下に立たされた坊主頭の少年に、憧れの男子の机を丁寧に拭く少女。津和野の歴史とは関係ない事さえ思い起こさせてくれました。

右手に昨日登った城山を眺めながら自転車のペダルを踏みます。心地好い風が古都子の額の汗を拭ってくれます。この路を、西周が、森鴎外が歩いて養老館に通ったのです。森鷗外の作品『ヰタ・セクスアリス』には子どもの頃の日々と風景が描かれています。

津和野町郷土館
森鴎外の記念館と旧家

森鴎外、本名は森林太郎(1862から1922)。今回のひとり旅のひっかけとなった森鴎外。旧家の前でしばらく眺めたのですが、ここの記憶がありません。

高校の感想文に選んだのが森鴎外の『雁』でした。貧しいお玉を愛人にする金貸しの未造を憎悪したのでも、お玉に恋する岡田にイラついたのでもなく、籠の鳥となったお玉と無念坂のある本郷界隈の描写に、定められた碁盤の目の路地を抜けて通学するだけの古都子の行く末を当てはめたのです。

散歩さえ知らないお玉の生活。愛人だからではなく、当時の庶民の女には「散歩」という習慣がないと知った時、結婚した私の生活と変わらないのではと思いました。見送り、そして帰りを待つ。飛べないカモメのジョナサン。もしかするとこれが離婚の背中を押したのかもしれません。

・森鴎外旧居

西周旧居とは津和野川をへだてて建つ平屋の家屋です。森家は代々津和野藩の藩医で、文久2年(1862)にこの家で生まれた森鴎外は養老館で学び、西周の薦めもあって明治5年(1872)に11歳で上京するまで過ごしました。わずか11年のことです。その後再び津和野も、この家も訪れることはありません。

一時は他所に移築されていたましたが、津和野町が買い戻し、現在地に復元しました。昭和44年(1969)に国の史跡に指定されます。しかし老朽化が著しく昭和59年(1984)に解体、修理されました。

養老館で武士階級に混じり学んだ森鴎外に、学問以外になにが伝わり残ったのでしょうか。国学なのか、蘭学なのか、はたまた時代に翻弄されつつも存続するために重ねられていく政策・文化でしょうか。森鴎外の作品からはうかがい知ることはできません。

森鴎外 旧居

・森鴎外記念館

森鴎外旧居に隣接して建つ森鴎外記念館です。アンノン族で来た頃にはありません。多感な時期を過ごした津和野時代と軍医と文学者というふたつの生涯が紹介されています。

物鷗外の遺言碑に刻まれた「森林太郎トシテ死セント欲ス」の口頭で残した遺言。なぜ、森鴎外ではなく。また、なぜ一度も津和野に帰ってこなかったのか。古都子のなかに旅の思い出とは別に、疑問が渦巻いています。

旧居や記念館の周りには草花が植えられています。なんか、いいな~と感じました。こんなところに津和野町の人たちの優しさや心遣いを見ることが出来ました。

森鴎外記念館
西周

・西周旧居

森鴎外記念館を出ると右に折れ、建物の脇を抜けると津和野川の土手にでます。その川向こうに西周の旧居があります。

古都子の記憶はこの川辺のとこから始まります。

ごく普通の農村の景色です。今見ても京都の大原や嵐山の外れの景色に似ています。帰ることがなくなった京都。両親も亡くなり、兄と義姉と時折帰る成人した子供のいる実家には自然と足も遠のきます。還暦の集まりで帰っても実家には寄らずホテルに泊まることでしょう。京都は故郷であっても帰るところではなくなったのです。森鴎外も、西周にとっても同じでしょうか。

綺麗いに掃除された旧居は、今でも誰かが出てきそうな雰囲気です。敷地は土塀で囲まれ、主屋と土蔵のほかにわずかな庭園があります。蔵がなければ歌人の庵にも見えます。記念館と隣接した森鴎外の旧居に比べこじんまりした感が漂っています。

嘉永六年(1853)の大火により焼失し、現在の主屋は大火後に再建された建物です。裏手の土蔵は焼失をまぬがれました。西周の勉強部屋といわれる一階の三畳間は当時のまま残されています。外部と遮断された薄暗い中で勉学に集中したのでしょう。でも、あの翻訳の創造力はいったいどこで培ったのでしょうか。

西周旧居

・西周

文政12年(1829)、津和野藩の御典医(外科)の長男として生まれ、現在の地に4歳の時に移り住みました。

11歳で養老館に入り、19歳の時に養老館の教師となります。翌年から大阪や岡山で二年間学び、津和野に戻ると養老館の寮長になるのです。
24歳の時、江戸勤務を言い渡されとオランダ語や数学など学びます。26歳で脱藩し、30歳で蕃書調所教授手伝並として幕府の洋学校採用されました。
35歳の時、幕府の命令でオランダに留学。法学、経済学、統計学などを学びます。とともに、哲学の研究も行いました。帰国後は、開成所(東京大学の前身)の教授に任命され、徳川慶喜のフランス語の指導も行います。39歳で徳川の設置した沼津の兵学校の校長となります。

明治新政府では、兵部省、文部省、宮内省の官僚を歴任、明治天皇の侍講として講義を行いました。

陸軍省時代には軍人勅諭、軍人訓戒の草案を起草に関わる一方で、福沢諭吉らとともに明六社を結成、西洋の哲学書の翻訳紹介に努めます。「哲学」「芸術」「理性」「科学」「技術」などの言葉は西周による訳語です。
1890年、61歳の時に貴族院議員。後に男爵が授けられました。

西周と森鴎外は叔父と甥の関係で、森鷗外が東京にでるのも、東京大学に入学するのも、役職につき留学も、西周の後押しと引き上げがあってのことです。しかし、どんなに偉業を成しつつも森鴎外は、男爵になることはありませんでした。

津和野に生まれ、養老館で教鞭をとり、また学んだ西周や森鴎外は、どうして東京へと旅立ち、大意を成しても津和野の町に帰ってこなかったのでしょうか。それは二人だけに言えることではありません、大きな業績を残した多くの偉人達も同様に津和野に帰ることはありません。津和野の町に嫁としてはいった歌子(吉永小百合)が、旦那との死別後しばらくして、寅次郎(フーテンの虎)を頼って上京すると二度と津和野に戻らなかったように。

おしまい

津和野の町は無数の帯に織りなされ、その帯によってまた織り成されている世界です。この人が、こんな考えが、この制度が町を織り成すのではなく、いろんな人が、いろんな所で、いろんなやり方で、身の丈に合ったやり方で、あるいは無理をして織り成しているのです。慌ただしく織る人も、悠久の時を彷徨うように織る人もいるように。

細い帯も、幅の広い帯も、厚い帯も、不定形な帯もあれば、何叉にも分かれる帯もあります。時には、帯同士が交わり、別れることもあります。津和野の文化風土はそんな感じがします。同じことをしていても、ひとによって表現も評価も異なっているのです。ところが見た目にはひとつの帯に見える。

なによりも、ほかの町で聞く「好きだから」という常套句をききませんでした(私だけかもしれません)。ここにいるから考え行動を起こす。時に反発する、時にいがみ合う。でも、その先に文化と風土が現れて考え直すのです。

津和野にはいろんな不思議と疑問があります。その謎が、古都子にとって津和野の風土と文化を形成しているのではと感ずるのです。

熱く燃える魂に触れることをしない、ただ静かに情念の高ぶりとしてもち続ける。その静寂と冷静さのなかで寡黙な行動の中にだけ表す。

そこには千姫の事件から始まる中央権力に取り入れようとしつつ取り入れられない氷の刃に似た戦いを思うのです。藩としてというより個としての強い確立を感じます。

森林太郎の墓のある永明寺

※【島根国編集部】 郷土史家・山岡浩二氏に長時間に及ぶ取材をさせて頂きました。もちろん映像にも納めさせていただきました。しかし、私どもの知識と思考力では読みこなし、創意することがなかなかできず、時間がかかっております。もうしばらくお待ちください。本当ならば、もう一度、津和野の町を訪れ、二泊三泊ぐらいしなくては無理かなと思っています。それほど津和野の町の歴史と文化、そして町の人々の思いは、出雲人にとって計り知れないのです。

■ 津和野藩校養老館
〒699-5605 島根県鹿足郡津和野町後田ロ66の甲

お問合せ
TEL 0856-72-0300(津和野町郷土館)
URL: https://tsuwano-bunka.net/museum/津和野藩校養老館/

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