• ~旅と日々の出会い~
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静寂に秘められし情念の町、津和野(四話) 共生 異質を受け入れ、共に(出会い)

― remember 青春、revolver 創造 ―

四話 共生 異質を受け入れ、共に(出会い)

― 思い出は永遠に、そして再び花ひらく ―

【主な紹介場所】乙女峠マリア聖堂、カトリック教会、永明寺

若さゆえ

津和野駅で田吾作君に会った帰り、後をつけて来た純子にこっぴどく叱られた。出発前に四人で交わした約束、男の人と一緒にならない「契り」を破ったことではなく、単独行動をとったことに。
「どうして話してくれなかったの」 (話せるわけがないでしょう)
「どうするつもりよ」 (分からない)
「どこがいいのよ」 (それが分からないから会いに行ったのよ)
「女子高出の京女には免疫がないからね」と古都子のお尻を叩き、「でも、分かるわ。京の女子(おなご)はあの手の東京人に弱いのよ」 (ごめんなさい)

田吾作君から駅裏にある『乙女峠の聖堂』に行こうと誘われた。
「どうする」行きたい 「みんなにどう説明するの」正直に話す 「バカ」。
きつい。あほねって言ってください。バカではないのだから。
「純子はどう思う」「いい男よ」「純子も」「親友の好きな人なんかとらないよ」

津和野駅の裏側になる乙女峠
乙女峠マリア聖堂への小径

お土産を探す美保と智子と別れた純子と古都子は、田吾作君を先頭に乙女峠マリア聖堂に向かいました。津和野の峠というより津和野駅の裏山のような位置と高さで、散歩に出かける気分です。それでも田吾作君に誘われた嬉しさでうきうきしていました。小さな谷川に沿って登る小径は、セミの鳴き声とともにひんやりとした空気につつまれています。今は岩肌に手すりが付き安心ですが、朝露に滑りやすい小径をへっぴり腰で歩きます。そんな格好も出会いの喜びでした。すべてが新鮮で、明日へと繋がる一歩だったのです。田吾作君から乙女峠にまつわるお話を聞くまでは。

知らなかった、乙女峠やマリア聖堂について。舞い上がっていました。観光地というのは旅行会社と旅行者だけでの言葉で、訪ねた先には人々の生活と歴史があるように、津和野にも日々に織りなされた生活といろいろな歴史があることに。

乙女峠への小径「手づくりの郷土賞」

坂道を十分ほど上ると整備された小さな公園があります。小さなチャペルは木漏れ日に揺れているようでした。思わず出た、「可愛い」。

ところが静寂な景色や可愛いチャペルからは遠くかけ離れた厳しい歴史がある「峠」だったのです。言葉から勝手に描いたイメージと史実との乖離という距離感ではなく、田吾作君が誘ってくれた喜びとは相いれない異質の世界でした。

乙女峠マリア聖堂
乙女峠、殉教者の道

マリア聖堂を前に、田吾作君が話してくれた歴史に耐えられなかった。「乙女峠」「マリア聖堂」のロマンチックな言葉を勝手にふくらました浅はかな知識と想像に恥じ、誘いを安易に受け入れたことに深く後悔したのです。純子も同じ。笑みを失くした蒼白な頬と赤みを失くした唇は微かに震えていた。古都子も同じだったでしょう。

「知らなかったのか」
無言の二人に田吾作君は変わらぬ笑みで「これから学べばいい。なにごとも気づきだよ。それが大切だ」とまるで神父様のように諭したのです。

聖堂のなかの美しいステンドグラスにも拷問の様子が描かれています。 

公園にはキリシタン拷問のために使用された、立つこともできない「三尺牢」の碑や「氷責め」に使用された池(復元)、収容されていたキリシタンが使用した井戸と水洗い場(復元)、マリアが信者を励ます場面の像や聖母と殉教者碑などもあります。

「大切なことは、知らないことがあることに気づくことだよ」と田吾作君は話し、「僕も知らないことが沢山ある。それに気づかず傲慢になる自分がいる。今もそうだが偉そうなことは言えないよ。だから旅に出るのかもしれないな。知らないことがあるということを確認する為に」
『旅』という言葉が重く心に落ちた。軽い気持ちで旅をしてもいいのに、あの時の古都子には警告のように響いたのです。今思うと、田吾作君の話を素直に受け入れて反省したのも、憧れという恋心だったのでしょうか。

三尺牢とマリア 

石に座り、あの日の旅を振り返ります。友達との共通体験として青春の日々、いろんなところを見て、地元の珍しくて美味しいものを食べ、写真を撮って記念の品とともに貴重な思い出にする。ぬけがけしないと約束したのですが、旅先で素敵な人に出会い、恋に落ちることでした。皆もおなじです。彼氏や婚約者がいても、旅先でめぐりあい、素晴らしい旅路にしたかった。
実際、田吾作君に会えたのです。坂道の偶然な出会いから山城巡りでかけられた優しい言葉や振舞に好きになりました。このチャンスを逃したくないと、翌朝早くおにぎりを持って田吾作君が野宿する津和野駅にでかけたのです。離れたくないからここまで来たのでしょう。

静かな公園です。木漏れ日がまるで薄れゆく後悔のように網膜に残る青春の残像を優しく刺激する。

あれからいろんなことがあり、還暦を数年後に迎える古都子。振り返って考えてみると、乙女峠で深く沈んだのは、残酷な歴史にショックを受けたことよりも、自分のことしか考えない旅をしていたことへの反省でしょうか。田吾作君は軽蔑しているのだろうなと思ったのです。

今は分かっています。訪ね行くところは京都の『太秦映画村』のような造られたアミューズメント施設ではなく、そこには人々の暮らしがある社会だと。人びとは生活を営み、歴史を積み重ね、文化を築き、喜怒哀楽の時が繰り返し流れている世界だと。旅とはそこに暮らす人と旅する人の出会いであることを。『観光』気分をあらためなくてはならないと思っています。

だからこそあの日、古都子は次の行動に移すことが出来なかった。どうしたらいいのだろうかと立ち尽くしたのです。
心に残る出会いでした。それが津和野の旅を切ない思い出に完結させたのでしょう。

マリア聖堂と記念碑
改宗と拷問の歴史

・旧光琳寺(異宗徒御預所)

キリスト教が禁止されたのは江戸時代だけでなく、明治の初期も厳禁でした。
『乙女峠マリア聖堂』がある山は枕流軒(ちんりゅうけん)と呼ばれ、津和野藩城主の娘が埋葬されたことから「乙女山」と呼ばれています。

明治元年、明治新政府は長崎の浦上で改宗を拒むキリシタン計三千人を西日本の藩を中心に護送したのです。松江藩や鳥取藩にも150名のキリシタンが連行されました。津和野藩に連行されたのは153名で、それも不屈の信仰を持つ指導的立場の信者と家族でした。既に廃寺の光琳寺に異宗徒御預所を置き、津和野藩は過酷な拷問を行い、37人の殉教者をだしたのです。その地が今の「乙女峠マリア聖堂」です。

小さな町の津和野。このことを知らない人はいなかったことでしょう。養老館の関係者も関わったでしょう。

1873年(明治6年)の禁教解除により釈放され、浦上へと帰されました。

公衆電話ボックス

・なぜ津和野藩に

なぜ弱小藩の津和野藩にこれほどの数のキリシタンが連行され、多くの殉教者を出したのでしょうか。ここに津和野藩の思想と新政府での立場、そして養老館の存在があります。

津和野藩の国学者大国隆正が唱えた『津和野本学』の継承者福羽美静は、当初、極刑ではなく説得「改宗」を試みた。改宗する者もいましたが、指導者的立場の信者の意思は固く、信仰について意見を述べ抗したのです。やがて懐柔・説得から吟味にも行き詰まり、過酷な拷問へとすすんだ。「三尺牢」「水責め」です。

キリシタンの改宗の背景には、新政府のなかで祭政一致政策を支持・推進する津和野藩と他藩との権力闘争があります。津和野藩の思想や施策が立派なものならば改宗させてみろというような意見があったでしょう。藩の生き残りと存在意義をかけた弱小津和野藩は、最悪の道を選択することになった。

『殉教の記憶・記録・伝承』(晃洋書房)
永井隆著『乙女峠』

黙り込んだ古都子と純子に気づいた田吾作君は、このあとの津和野の人たちとキリシタンたちとの心温まる出会いと交流を話し、自分でも調べることが大切だと慰めるように教えてくれました。

津和野の駅は次の目的地に向かう人、津和野を訪れた人、そして二人乗りの自転車を待つアンノン族で溢れていました。合流した美保と智子は、田吾作君を見つけるとじゃれつく仔犬のように傍から離れようとはしません。純子は問うような眼差しを注ぐのですが、次の言葉も、明日に繋がるアクションもとることができなかった。

長崎に向かう田吾作君は、萩で下車する古都子たちに、お礼だといってよれよれの文庫本を差し出した。永井隆著『乙女峠』。純子が代表して受け取ったのですが、田吾作君がくれた本は二度とみることはなかったのです。おぼろげな記憶を頼りに大学の図書館でこの本を見つけたのが、東山の山々が紅葉に燃える晩秋のことでした。

今回の旅で読み直しました。旅の終わりは雲南市の三刀屋にある「永井隆記念館」(※)を訪ねようと思っています。

  ※当サイト 『鐘は響き渡る、永井隆記念館(雲南市)』

・永井隆著『乙女峠』

津和野でのキリシタン弾圧を描いた『乙女峠』。島根県の松江市に生まれ長崎医大で勤務中に被爆、死の間際まで被爆者への治療と『長崎の鐘』など数々の執筆に務めた永井隆の作品です。完成した1951年に永井隆も永眠しました。永井隆博士の妻みどり夫人が、津和野に送られたキリシタンの中心人物のひとり守山甚三郎の親戚であることから、乙女峠の事件ついて調べ、執筆したのです。

田吾作君が長崎へと向かったのは、きっと原爆について見て・考える為だったのでしょう。藤山一郎の『長崎の鐘』が、永井隆著作の『長崎の鐘』を歌にしたものであることを知ったのは随分あとになってのことでした。

『鯉(恋)の町・津和野』は、出会いという素晴らしさと知らないということに気づくことを、踏み出せない片思いのかたちで教えてくれたのです。次の萩でも、出雲大社でも、松江でも、古都子にとって出会いはありませんでした。ただ、バンダナが届く日を楽しみにしていたのです。

乙女峠
克明に残ったキリシタンの歴史

今の津和野は町並みや施設が整備されただけでなく、歴史も文化も素人にも理解できるように整理され、展示されています。一つひとつをゆっくり訪ねてお話を聞くと、事件としての出来事という記録だけでなく、ひととひとの出会いと協業を通して織り成された物語を知ることも出来ます。むしろ津和野の人びとは、成果(結果)ではなく営為というプロセスを大切にしていると感じました。

なぜ津和野にはキリシタン迫害の歴史が克明に残ったのでしょうか。山岡浩二著『明治の津和野人たち』(堀之内出版・2018年5月25日)を参考に概要を紹介します。

山岡浩二著『明治の津和野人たち』

・ビリヨン神父

弾圧から20年の明治23年(1890)、津和野を巡礼で訪れたビリヨン神父は地元の信者や人々の協力をえてキリシタン迫害の歴史を調べ、講演会を開きました。迫害や拷問の事実や歴史を津和野の地にて顕在化し公にすることは生半可なことではなかったでしょう。活動は契機となり、人々の中に迫害の歴史を直視し語り継ぐ機運ができたのです。この変化こそが津和野を前に進めようとする風土ではないのでしょうか。ビリヨン神父は追悼に尽力し幾つかの碑を建立しました。

・ネ―ベル新婦

昭和21年(1956)、広島地区の宣教師を経て津和野に着任し、昭和48年まで神父を務めました(帰化後は岡崎祐次郎神父)。津和野の皆様の協力のもとに乙女峠記念館の建設、乙女峠の祭りの実施など、津和野の文化ととともに歩んできました。日本名の岡崎祐次郎は、「拷問によって十四歳で殉教した少年守山祐次郎」からです。

津和野の「ひと」、津和野の「まち」の心の繋がりと交流のために尽力しました。津和野のひとも、汚点でもある迫害の事実を直視し、生活のなかで捉え返したのです。そんな風土に、過去と現在、そして未来へと途切れることなく受け継がれる心に共創の意思を感じます。

 津和野カトリック教会

殿町通りに養老館に隣接してある「津和野カトリック教会」。昭和6年に建てられたゴシック建築の教会で、礼拝堂の中は畳敷きという珍しい教会です。同じ敷地内に「乙女峠展示室」があり、キリシタン弾圧に関する様々な資料が展示していました。

「人口8000人に対してカトリックの家庭は約十軒」の津和野町ですが、毎年5月3日には殉教者を偲ぶ「乙女峠まつり」が行われます。県内外からキリスト教関係者など約2000名が集まる津和野カトリック教会のミサは圧巻です。

 バチカンのローマ教皇に対し、乙女峠の殉教者37人を聖人として許可してもらう活動が行われています。信者だけでなく多くの人々が署名する、津和野の人々の新たな問題意識を感じます。

養老館で教えた西周が、養老館で学んだ森鴎外が、多くの著名な人たちが津和野をでるとなぜ帰ってこなかったか。キリシタン弾圧を黙認したことへの罪の意識があったのでしょうか。一方、弾圧という事実に直視しアクションを起こした津和野の人々も沢山いらっしゃいます。それが辛い歴史を掘り起こし、今に伝える活動へとなったのです。

津和野には前に進もうとする二つの流れを感じます。ひとつは知的階層、もうひとつは津和野に根をおろした階層。二つの生き様と営為が陽炎のように揺れ動き、交じり合っている。

駅前の二つの美術館、そして出会った多くの津和野の人々から津和野は歴史だけでなく、その営為の中に津和野の心意気があるのだと教えられました。

カトリック教会
リメンバー津和野、リメンバー青春

二泊三日の女ひとり旅は終わりを迎えます。

アンノン族で訪ねた頃と変わらないものもあります。変わったものもあります。もちろん新しく出来たものもあります。月日が流れれば当たり前のことです。古都子の心も同じです。でもあらためて思いました。月日を重ねた古都子がどのように変わったのか、青春の頃に訪ねた町に来てあらためて確認できました。

暮らしている生活の場では気づきません。というか今暮らしていることに不満がありつつも、これでいいと思っているのです。知らないことを知ろうとするか、分からないことを考えようとか、もっとチャレンジしたらという自分を見つめることがなくなっていました。

『雁』を読み直しました。「散歩」という時の過ごし方を知らないお玉は、憧れることで囲われの我が身の垣根を越えてみる意識変革が生まれたのです。
箸が転んでも可笑しい頃、恋のことで頭がいっぱいだった頃、別れが永遠につづく苦しみだと思っていた頃、そんな時代の女の子が旅した津和野で出会った大学生。朝靄の中を彼に会いに駅に向かって走ったとき、駆け落ちってこんなことと思いました。

根津神社からいつものコースを取らなかったおかげで、私は津和野を訪れ、ふたたび「女」であることを考える余裕が生まれました。
70歳を過ぎてから喫茶店の経営を始めた婦人、60歳を過ぎてこの町に移住した男性。この町に暮らすことに誇りを持つひとたち、この町に帰って来るよと言い切った高校生、芋煮会に誘ってくれた方、出会った人とのお話しはきりがありません。

今回の津和野の旅は、古都子(きょうこ)に思い出を通していろんなことを教えてくれました。訪ねた町には暮らしている方がいて、生活があります。旅人のために町があるのではなく、暮らす人がいて町がある。だから出会いが楽しいのだと。
初めて訪ねる旅も楽しい出会いがあり、今回のように以前訪ねたところを旅することにも素晴らしい出会いがあることに気づきました。それが一つひとつ積み重ねられて深い思い出になるような気がします。

夜の津和野の通り
その

・バンダナとSNS

田吾作君の本名を思い出した古都子は、旅館で一緒になった大学生の女の子にfacebookを教えてもらい、さっそく登録しました。名前で検索できると聞き、田吾作君を検索しました。もちろん本名で。ヒットしました。あの田吾作君です。

・偶然でなく必然

今日も暑い一日になりそう。洗濯物を干したのが六時半だというのに、出掛ける八時前には乾いている。今日もゲリラ豪雨があるだろう。部屋に取り入れて、いつものように部屋を出た。お隣さんの奥様がエレベータで上がってきました。ご主人を見送るのに合わせてのゴミ出しです。これもいつもと同じ時間。

通りは白く輝いています。
今日は金曜日、仕事の帰りに久しぶりにビヤホールに寄るつもりです。明日から海の日を挟んで三連休。このごろ休出も頼まれなくなった。雇用条件も変わり、休暇のすごし方も大切にされる。私の場合は年齢もあるのだろう。残業もない。若いと思うのは私だけでしょう。周りから見ればお婆さん。昔は離婚が話題だった。この頃は孫の成長になった。孫のランドセルを買ったとか、孫の入学式に行ったとか。

先ほどから同じ革靴の音が付いてきます。少し早めてみたり、信号を早めに止まったりすると、革靴の音も同じ。こんなお婆さんのお尻など見ても楽しくないのにと思いもします。すこし体にフィットしたスカートの下のお尻でも振ってみましょうか。

「末吉古都子さんですね」

私の旧姓を知る人は東京にはいないはず。離婚しても実家に気遣い旧姓に戻さなかった。小学時代の友達ならともかく、結婚を知る友達は皆、ネタにもなる「古藤古都子」が染付いているみたい。

「お久しぶりですね」
白いブラウスの下で心臓が疼いている。

「分かっていましたよ、貴女だと」

作家となった田吾作君に手紙を書いた、出版社宛てに。一緒にバンダナを入れた。
あるのね。こんな再会が。まるで『マディソン郡の橋』みたい。そういえば、『男はつらいよ』で、吉永小百合の歌子さんが寅さんと再会して話すところが「津和野大橋」だったかしら。

津和野大橋

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