• ~旅と日々の出会い~
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人びとが戦火から守った美保関、佛谷寺の仏像
表裏一体の仏像が教えた美と誠実

はじめに 仏像ってなぁに?

仏像や人々を撮り続けた写真家・土門拳氏、沢山の写真集があります。写真に添えられた土門拳氏の一文に被写体としての仏像や人の「心」、撮影する土門拳氏の「心」を教えられます。

「ぼくにとって仏像の顔を思いかえすのは、恋人の顔を思い浮かべるようなものである。ひとつひとつを頭に浮かべていれば、何時間でも退屈することがない。『土門さんは、ずい分たくさんの恋人がいるんですね。浮気性ですね』といわれても、ぼくは甘んじて受ける。ぼくの撮った全ての仏像が仏像巡拝中に出会った素敵な恋人たちである。何とも幸福なことではないか」(土門拳 『仏像巡拝』。巻頭文、1971年)

仏像の顔は、「恋人」の顔。
愛する人、愛(いと)おしい人、大切な人、そして魅力的な人・・・。カメラマン土門拳氏にとって、「恋人」ってどんな女性(ひと)かしら。

佛谷寺の仏像

仏像鑑賞はまったくの素人の私、気が付いたの。仏像を性別で見たことがないことに。というか、性を意識しない。仏像は仏像。それは「モノ」という彫刻ではありません。上手く伝えられないけど、なにか尊い「存在」として受け入れること。私にとって、仏像は鑑賞ではなく、いまは曖昧だけどあるべき自分の姿を受け入れようとする「ながれ」(流れ)とか、「ま」(間)みたいな時空です。

生意気かな?

美保関 佛谷寺

松江市の美保関町にある佛谷寺で出会った仏像と、年配のおじ様とのお話です。

美保関の海
出雲神話と美保関

美保関は、島根半島の一番右端ある、『古事記』や『日本書紀』にも記載された『出雲神話』のひとつの聖地。
大国主命(オオクニヌシ)が、出雲國や葦原の中つ国の国造りを一緒にした少彦名命(スクナヒコナノミコト)に出会ったのが、ここの岬。アマテラスの国譲りに同意した事代主神(コトシロヌシ、大国主命の子ども神)が籠ったところでもあるの。

美保神社には、事代主神と大国主命の妻神・美穂津姫命が祀られています。これにまつわる青柴垣神事や諸手船神事は有名です。神話と昔話が豊富で、昔は海上交易の要として栄えた港町です。

美保神社
青石畳通り

北前船など海上交易の要として、また美保神社の門前町として栄えたなごりが、美保神社から佛谷寺へと至る青石畳通りです。神社の前には越前石が敷かれ、通りは周辺の海岸から運ばれた凝灰岩が、それぞれ綺麗に裁断されて敷かれています。雨が降ると、この石畳がエメラルド色に変化するの。

また両側に並ぶ古い建物からは、栄えた当時を偲ぶことが出来ます。

青石畳通り
美保館
佛谷寺

青石畳の通りを進むと、『龍海山三明院(りゅうかいざんさにみょういん)佛谷寺(ぶつこくじ)』を示す石柱があります。この石柱を左へ折れた石畳の先が佛谷寺です。

佛谷寺は、約1200年前に創建された山陰第二の古刹です。境内の大日堂には、国の重要文化財の五体の仏像が祀られています。

その昔、海中に三つの怪火が現われ、住民や航海者は『三火』(ミホ)と呼んで恐れていました。美保に来た行基菩薩が海中の三火を封じて仏像を彫作し、一堂を建立しました。これが佛谷寺の開基です。

その後、弘法大師が七堂伽藍を建立し真言宗となります。永正12年(1515)、順慶上人の時、浄土宗となりました。

永禄・天正年間、尼子・毛利よる戦乱で、七堂すべて焼失しました。しかし仏像は、その都度、持ち出され難を免れました。昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定されました。

佛谷寺
五体の仏像

門を入った右手の大日堂(だいにちどう)に、その5体の仏像が安置されています。

薬師如来坐像を真中に、聖観音立像3体と、菩薩形立像1体が並んでいます。いずれも平安初期の一木彫で、出雲様式といわれる素朴でダイナミックな仏像です。

美保関に来たら、絶対に拝観してください。
  

摩訶不思議な表裏一体

真夏日なのに冷やりとするお堂の中、不思議なご縁がありました。

表裏一体

「やはりな」
仏像を見上げていると、年配の男性が、大きな声とともに仏像の後ろから現れました。私に気づくと、また大きな声でおっしゃった。
「あ、うるさかったね。申し訳ない」
ぺこりとお辞儀した人のよさそうなおじ様に、「なにが、やはりなのですか」と自然とおたずねしました。
「表と裏が一緒だということさ。この尻ありて、この顔ありし」
部分的に彫って、あとで組み合わせた仏像ではないの。「出雲彫り」という一木造りの五体の仏像。
表と裏が一緒なんて重要文化財なら当たり前のこと。そんな不遜な顔をしたのでしょうか、おじ様は、「まあ、裏に回って見ておいで」とうながしたの。
「その前に、よ~く、仏様の顔を拝んでおくのだよ」

おじ様族って、ちょっと優しくすると図に乗るよね。紳士的であれば許してあげるけど、回りくどくて、頑固で、気を許すとスケベが顔をのぞかせる。そんなこと思いつつ仏像の裏へと回りました。
ここは仏像の裏側も見ることが出来るよう通路ができています。

「どうだった」
「素敵ですね。仏像の後ろ側を見たのは初めてです」
謙虚に応えたら、「そうではない。後姿を見た感想だ。そうだな、肩幅とか、背骨のうねりとか、腰のくびれに、尻のはり、太腿からの流れだな。その立ち姿だ」
結局、仏像を好奇な目で見ている。

「後姿を思いだし、仏像の御顔をじっくり拝観するのだよ」
仏像から不思議な眼差しが注がれる。私も納得できる心地好い角度で仏像の眺めた。
「どうかな」
仏像は何も話さない。
「なにがですか」
「なにがではないよ。仏様の表と裏が一緒だということだ。表裏一体」
変なことを話すおじ様だ。
「表裏一体って、当たり前でしょ。仏像の表と裏、同じ仏像ですよ」
「若いな」
若いと言われるのは嬉しい年ごろ、でも、今はバカにされている。
「どういうことですか」
険のある私の返しに反省したのかしら、おじ様は優しくなった。
「説明不足だったな。仏像の表と裏という表面的な話ではないのだな。背中が表を語り、顔が背中を語るという、深層での表裏一体ということなのだが、分からんか」
「分かりません。すべてに表と裏があるのでは」

おじ様は薄暗い天井を見上げてから、ゆっくり話された。
「仏像の後姿を見てから正面に回り顔を拝観する、後姿に合った顔だとつくづく思うのだよ。この背中に相応しい顔というのではなく、背中と同じ顔ということだ。逆に、この顔にはあの背中ということだな。そんな一体化した仏像だということだ」

「服とか輪郭でしょう」
「違うな。見た目ではない」
「雰囲気ですか」
「それもある。しかし、大切なのは仏像の持つ気と、それに筋肉や骨や脂肪の作り、自然と作りだす仕草や品だ。ここの仏像にはそれがある。本質から表裏一体した仏像だ」

「何がおしゃりたいの」
「だから表を彫って裏を彫る、裏表がバラバラではなく、一緒だということだ。全体がイメージされていて、イメージ通りに魂を吹き入れられている」
部分があって、部分を組み合わせてひとつにしたのではない。おじ様は私を無視して話し続けられた。
「表裏一体ということは、戦火で顔が壊れたり、焼けたりしたとしても、この顔が思い浮かぶということだ。はっきりイメージできなくても、この背中には、この顔しかないのだよ。そんな立派な仏像だということだ。一本の木で彫ったのが凄いのではない。一本の木だから出来たということだ。それはな、木と仏像彫りの魂の触れ合いだな」

なんとなくわかった感じ。小栗旬さんも、横浜流星さんも後姿にあったカッコいい顔。というか後姿を見て小栗旬さんだと分かる。それを表裏一体とおっしゃったのかしら。

「私、もう一度、後ろに回ってきます」

「どうだった」
「まだ分かりません」
「そうか。経験を踏むことだ」
「もっと仏像を見るということかしら」
「違うな。人をじっくり観察するのだよ。やがて見えてくる。表と裏の同一点が。ひとはな、表と裏は一緒だ。仏像がたいしたものかどうかは、そこだ。下手な奴が彫るとな、表と裏の動きがバラバラだ。本物を拝観することだ」

「勉強になりました」
おじ様は、何度も何度も頷いておっしゃった。
「人も同じだ、表を装っても、裏を欺くことはできない。表と裏がちぐはぐなのが多くなった。後天的というかな、生れたときは表も裏も同じだが、成長とともに本音を捨てるように顔が変わる。それは人を欺き、偽りの世界へ進むのだ。顔を変えるのだよ」

「お嬢さん、表裏一体の男を探すのだよ。仏像も、同じこと。表裏一体の仏像にこそ魂が吹き込まれている。ここの五体の仏像のように。しかり後ろ姿を見ることだ」

おじ様は、旅を楽しみなさいと告げると、お堂から出て行かれた。

見られたい視点

後姿と顔。たしかに一緒だ。雰囲気ではないわ。後姿のあり様が、後姿の品が、そのひとの顔に現れている。おじ様のおっしゃる、顔が背中の流れや彩に抽象化されている。
十年以上も合気道を続けているA子。腰の入った姿が落ち着いたA子の顔。子供の頃から生け花を活けているB美。流れるような仕草が、淡麗美人顔。
私はどうなの。自信のない私、喜怒哀楽な振舞。そんな後ろ姿って影薄いだろうな。不出来の仏像かしら。駄目、そんなこと言っては。

土門拳氏の「被写体も撮られる視点を持っていると思う」(『古寺巡礼』より)。
私にもあるはず、見られたい後姿。それが私の顔になる。
父の背中を見て育つ、背中で語る。

仏像が笑っている。気づいたのかいと語り掛けている。私はもう一度、仏像の後ろに回る。あっ、なんて優しい後姿なの。そうなんですね。仏像の後姿が教えて下さるのね。あの笑みは、優しい顔ではなく、仏像の優しいお姿がつくるのですね。

美保関の海

私は一礼してからお寺を飛び出し、あのおじ様を探した。きっとおじ様の背中が何かを教えてくれるはずだと。青石畳み道を走りました、海辺でジャンプしました。お店の人に尋ねました。おじ様はいない。おじ様の背中が見つからない。
お寺に戻りたずねました。おじ様はどこに行かれましたかと。「そんな人、いらっしゃらなかったわ」

真夏の思い出。素敵な人に出会えなかったのは、ステキな人を見分けられなかっただけ。表裏一体。形でなく、ありさま。

龍海山三明院佛谷寺の薬師如来坐像、聖観音立像、菩薩形立像に教えられた。
そして、怪談噺のような、あのステキなおじ様の諭した「表裏一体」、それは形でなく、魂が醸す存在。

出会いという島根の旅は、続きます。

龍海山三明院佛谷寺について追記

三明院は隠岐へ流された2人の天皇の風待ちの御座所です。承久3年(1221)、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇、それから約100年後の元弘2年(1332)、討幕に失敗した後醍醐天皇も隠岐配流となりました。

八百屋お七の冥福を祈って巡礼に出た吉三が、この寺で死んだと伝えられています。

美保関の行き方

松江駅から一畑バス(美保関ターミナル行き)で40分

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