• ~旅と日々の出会い~
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神話と交易、人と海に織りなされた美保関町(松江市)
―美保関には、いろんなリズムがながれている―

はじめに

私たちの旅は、人と町との出会いでした。そして、私たち『島根国』のミッション(使命)は、人や町、文化や自然との出会いを紹介することでもあります。

美保関の人と町と文化の散策のはじまりは、小麦色に陽に焼け、観光協会のポロシャツを着た一般社団法人松江観光協会美保関町支部の朝倉功さんとの出会いからです。
陸上競技で鍛えた190センチ弱の朝倉さんは、この町に生まれ、松江市内の高校を卒業後そのまま市内でいくつかの仕事を経験し、その後、美保関町に戻り、美保関の観光と地域づくりや環境保護の活動を続けておられます。

気さくななかにも、芯の強さを感じる朝倉さんにお話して頂きました。
「大きさってありますよね。小さなところに無理に沢山押し込むことはないと思います。観光客誘致も同じですね。その代わり、ここに暮らす人と旅する人が、出会うことで堪能し、学びあう。そして、ともに感動し、協力し合う。そんな人とひとの深みのある美保関になればと思います。そのためにも旅行者の皆様にも、美保関を少しでも理解してほしいですね。もちろん私たちも日々の笑顔でお迎えします」

豊かな「出会い」を心掛ける朝倉さんに、美保神社はじめ美保関の町を案内して頂きました。この日は、松江・安来市の高校の美術部員の皆様が、絵付けしたガラス風鈴を青石畳通りや建物など84か所に吊るす作業も並行して行われました。こんな姿にも、地元の人と旅する人に思い出に残る出会いを創造する朝倉さんらしい姿を感じます。

風鈴を吊るす朝倉さん
美保関観光マップ

音楽の神様がいらっしゃる美保神社

美保関の暮らしや文化と深い関りのある美保神社の参拝からはじめましょう。

歌舞音曲(音楽)の神様

美保神社の神様は音楽好きと謂れ、三方を山に囲まれ透明感と厳粛な雰囲気の境内で、いろいろなコンサートが開かれます。

古くより海上交通の要で、北前船をはじめ諸国の船が往来し栄えた美保関。船人や商売人の口から口へと広く伝えられたのが、「関の明神さんは鳴り物好き、凪(なぎ)と荒れとの知らせある」。
航路安全や諸願成就などの祈願に、全国から沢山の楽器が奉納されました。この内846点が国の重要有形民俗文化財に指定されています。これだけでも港として栄えたことがうかがえます。また美保神社信仰と音楽との関係が分かります。

収蔵庫に管理された846点の奉納鳴物。有名なのが日本に渡来した最古のオルゴールやアコーディオン、鳥取城で登城の時を告げた直径157cmの大鼕、島原の乱で戦陣に出た陣太鼓、初代荻江露友が所有していた三味線等です。


平成4年、百年ぶりに、明治初頭以来途絶えていた「歌舞音曲奉納」が復活しました。聴衆の皆様は拍手をしないそうです。不思議ですね。

美保神社 鳥居
出雲大社と深い関りのある神社

美保神社には、出雲大社の御祭神・大国主神(おおくにぬしのかみ)の妻神・美穂津姫命(みほつひめのみこと)と、大国主神の子ども神・事代主神(ことしろぬしのかみ)が祀られています。

『出雲神話』の後半『国譲り神話』で、天照大御神の命で、葦原の中つ国をよこせと出雲の稲佐の浜に降りた建御雷之男神(たけみかづちのおかみ)に、国を譲り、美保関に移ったのが事代主神です。(当サイト『出雲神話と神々』をご覧ください)

出雲大社に『ご縁』を求めて行かれる皆様に、耳寄りなお話し。
事代主神の別名は恵比寿様、出雲大社の大国主神の別名は大黒様。古き頃より、2つの神社をめぐることを「えびすだいこく両参り」と呼び、両方参るとご利益も倍あったとのことです。かつては沢山の人たちが、船やバスでお参りしました。
ちなみに美保神社は、「えびす社」3385社の総本宮です。

神門

鳥居を進み、石段の上にあるのが神門。大きな注連縄が印象的です。
当サイト『島根国』のYouTubeで、朝倉さんの知識とユーモアにあふれた案内を紹介しています。合わせてご覧ください。

神門
右45度の拝殿

神門の先にあるのが拝殿です。設計は伊東忠太氏。壁がない舟屋を模した開放的な造りです。

インスタ映えをお考えの方へ。朝倉さんからのアドバイスです。美保神社は、正面からではなく、右から45度辺りからが美しく撮れるとのことです。美保神社を愛し、心から大切にし、ご自分のご結婚を報告された朝倉さんならではのアドバイスです。

拝殿
本殿 比翼大社造

前回『島根国』の「心に残る島根の風景」で紹介しました「人びとが戦火から守った美保関、佛谷寺の仏像」。正面だけでなく、裏側から拝観することで、表の顔と裏の顔が別物ではない表裏一体した存在だとお話しました。美保神社の本殿も同じです。背後からの本殿も壮観です。

大社造の二つの本殿が並ぶ造りは、「美保造」または「比翼大社造」と呼ばれています。
向かって左側の右殿には事代主神、右側の左殿には三穂津姫命が祀られています。元亀元年(1570年)、戦国時代の尼子と毛利の戦で消失。再建された後、寛政12年(1800)に「美保関大火」にて消失。その後、現在の社殿が再建しました。

裏からの本殿
美保関の町に響く太鼓の音

「出雲名物、荷物にならぬ、聞いてお帰れ、安来節」。運が良ければ大太鼓の音を聞くことができます。明治時代に奉納された、樹齢1000年のケヤキをくりぬいた直径160cmの大太鼓。毎朝八時半の朝御饌祭(あさみけさい)や特別な祭典で叩くそうです。

この太鼓は三つあり、「三つの兄弟太鼓」といわれています。残りは鳥取県の名和神社と賀露神社にあります。

太鼓
御祈祷・お払い

Webサイト『島根国』を運営する(株)オウコーポレーションの代表が、みんなを代表して修祓をして頂きました。神職の祝詞、神楽、巫女舞と、その日の状況で変わります。「神職のうつ、柏手の音が、拝殿の中だけでなく心まで響いた」と、代表の心にも刺さったようです。

祝詞
舞い

青石畳通り

美保神社から沸谷寺を結ぶ約250mを「青石畳通り」と呼びます。
通りには美保関を訪れた歌人の詠(うた) が刻まれています。「烏賊の味、忘れでかえる 美保関」高浜虚子。私には、「一筆を書かねば通さぬ美保関」湯川秀樹。日本最初のノーベル賞受賞者。京都生まれの湯川秀樹に「粋」とは失礼かもしれませんが、エスプリにとんだ作品ですね。しつこく頼んだ「美保館」の女将も只者ではありませんね。

青石畳通り
高浜虚子の句
湯川秀樹の句

湯川秀樹先生が泊ったのか食事休憩かは、美保関を大切にする郷土史家の三代暢實さんがお話してくださいました。「泊まってはいないよ」。美保館の向かいにある三代さんのご自宅も歴史ある立派な建物です。

三代暢實様

さて、風鈴を軒に吊るしながら朝倉さんの青石畳通りの案内が続きます。

誰が敷いたの、青石畳通り

神社前の通りは越前石の笏谷石、本通りは周辺の海岸から運ばれてきた緑色凝灰岩。形は正方形や長方形など様々で、80㎝ぐらいの大きな敷石もあります。

敷設されたのは江戸時代後期、文化年間から弘化年間(1804~1847年)のことです。海上交易の港として栄えた美保関、50軒ほどの回船問屋がありました。通りがぬかるんでいると荷の積み降ろしが難儀です。そのため石を敷きしめたのです。この青石畳通りが以前の本通りで、参拝客相手の旅館や土産物屋で賑わいました。

当時の繁栄ぶりを残す古い家並みと青石畳通り。ご年配の方には懐かしい昭和・大正の風景、若い人にはアニメの世界のような幻想的な、どこか時の流れを超越した通りです。それは雨が降ると石畳がうっすらと青色に変化するからでしょうか。

私たちを見つけた三代暢實さん、ご自宅の前の石畳にわざわざ水を撒いて色の変化を見せてくださいました。こんな丁寧な案内が旅人たちの心に、爽やかな思い出を創ると思います。
三代暢實さんに初めてお会いした時、「島根の謂れを御存じか」と問いを受けました。厳しさも、水を撒いて教えて下さる優しさも、美保関を愛し、旅する人に美保関の心を伝えたい思いからでしょう。三代さんのお住まいも古くからの建物で、見せて頂いた家のなかは、静寂さとともに重厚感があり、歴史と文化の密度を感じました。

水を掛けると変色する緑色凝灰岩

通りには文豪も訪れた旅館や旧家に老舗が並び、現在も営業を続けるとともに記念館としても活用されています。私たちが拝見した幾つかをご紹介します。

驚きの老舗割烹館「美保館」

明治38年に建てられた数奇屋造りの旅館です。平成14年に国の登録有形文化財に指定されました。現在、宿泊は隣りの新館で、本館では朝食や宴会となっています。

木造建築の美保館。青石畳通りから見ても、中に入っても、港町として栄えた時代が想像できます。『千と千尋の神隠し』の建物の造りを思い浮かべてください。毎夜毎夜、日本海の幸と芸達者な人の歌や舞に華やいだことでしょう。あるいは文化人が逗留し、近在の人々と句を読み、文化論に花開いたことでしょう。そんな香りと喧騒が、当時のままの柱や壁、階段や襖から漂ってきます。

海上交通の港町として栄えた時代の美保関を体感してください。その体感を数軒先の美保関資料館「館 鷦鷯(ささき)」の展示品で確認すると、あなたの想像を越えた美保関が現れます。

美保館
史実と傳説の美保関資料館「館 鷦鷯(ささき)」

画数が多い見慣れない苗字、「鷦鷯」。「鷦鷯(ささき)姓は美保関のみに現存し・・・現在(昭和61年現在)、鷦鷯姓を称するものは7軒」(「鷦鷯姓由来」より)と、非常に限られた姓です。納屋(中浦)の屋号をもつ鷦鷯家は、江戸時代より美保関の庄屋を北國屋と交代で務めてきた旧家です。

資料館には、鷦鷯(ささき)家に代々伝わる貴重な資料や中世からの遺物が展示されています。当地の為替方(現在の銀行業)で使用された二千両箱からは、美保関の桁違いな繁栄ぶりが伝わります。伝説に彩られた美保関の歴史、交易を介した繁栄をパネル展示や模型でご堪能ください。

美保関資料館「鷦鷯」

これが「歴史的」認識とすると、次が「出雲神話」との交わりです。
「鷦鷯」は、「みそさざい」と読みます。「日本産の鳥では最小の小鳥で、6センチ位で、羽は焦げ茶色で、雄は美しい声でさえずります」。この小鳥が『出雲神話』の「葦原の中つ国」の国造りに出てきます。『古事記』と『日本書紀』では異なりますが、ここでは『日本書紀』からご説明します。(詳細は、当サイト『出雲神話と神々』をご覧ください)

素戔嗚尊(スサノヲ)の力を借り、出雲国や葦原の中つ国を統合した大国主神(スサノヲの六代子孫)。しかし、まだまだ未熟で理念や知識もなく、国を治める制度や文化、技術などない国です。どんな国造りをするか悩んだ大国主神は、ここ美保関の岬で思案しました。そこに現れたのが、波間のはるか先から来る小さな舟。それはカガイモの実を割って造った手の平に乗るほどの小舟。そのなかにミソサザイ(鷦鷯)の羽で作った蓑(みの)を着ていたのが少彦名命です。二神は協力して葦原の中つ国を造ったのです。

「鷦鷯」、「みそさざい」と「ささき」。この先は古代史研究か人名研究の学者さんにお願いします。ただ言えることは、『出雲神話』と非常に深く交わる美保関だということです。

くじら工芸館

京都芸術大学の学生さんたちが、島根県松江観光協会との産学連携事業として、松江市の観光の一助になればと「松江水燈路」に参加しました。そのノウハウを活用して制作されたのが、美保関のクジラの「ねぶた」です。クジラになったのは、江戸時代後期、美保関には捕鯨のための基地があり、「鯨方」という役所もあったからです。

制作されたクジラの「ねぶた」は青石畳通りに展示され、観光振興だけでなく、美保関の文化歴史を理解して頂く象徴となったのです。学生(大学)、地元の人々、行政の三位一体の協業がありました。現在は、この活動に協力された三代暢實さんのご縁から、「くじら工芸館」に展示されています。

くじら工芸館
まだまだある歴史の香り

・「艫(とも)つけ」の福田酒店

この頃は少なくなった酒屋さんで飲む「立ち飲み」。「角打ち」とも言ったちょい飲みです。
仕事の帰りに酒屋により、勝手知ったる酒屋のケースからビールを取り出し、棚に置かれた乾き物や缶詰を注文する。もちろん日本酒も焼酎もあります。お店の人や顔見知りと、その日の出来事などを話す、町や通りのコミュニケーションの場です。今風に言えば、酒屋直営『オープンサロン』でしょうか。

福田酒店は、そんな飲みができる店。入り口には旅行者用に、立ち飲みの口上が貼ってありました。

福田酒店

・懐かしい香りの太鼓醤油店

佛谷寺に向かうメンバーが声を上げました。「あ、醤油の匂い」。明治23年の創業時からの伝統製法を継承し続ける老舗の太鼓醤油店です。
蔵を構えて百年。美保関の料亭を訪れた美食家の舌を、美保関の美味しい魚を食する地元の人々の口を、料理の素材の味を壊さぬように旨味を引き出したことでしょう。
現在、醤油、抹茶、ごま、もろみの4種類の「しょうゆあいす」(各270円)も販売しています。甘さの中に醤油の芳醇な香りが活かされたアイスです。

・「へるんの小窓」(福間旅館の宿)

旧制松江中学で英語の教鞭をとった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。松江に暮らしたのは一年と少しの僅かな期間でしたが、小泉節子と結婚をし、出雲國を愛し、神話や昔話に魅了され、「美しい日本」に関わる多くの作品に書き続けました。

美保関にもたびたび訪れ逗留しました。その愛した宿の近くの古民家をリニューアルしたのが、福間旅館の「へるんの小窓」です。日本の不思議、日本の美に魅了された小泉八雲の眺めた景色を味わえる宿に泊まってみませんか。

副喜旅館は、江戸時代の享保2年(1717年)から続く青石畳通りに面した旅館で、「へるんの小窓」以外にも、小舟を入れていた船倉もある明治30年の建物「大下舎」(おおしもや)等、計4軒のリニューアルした宿があります。

へるんの小窓

美保関の旅は、ここの地に泊り、景色と音と薫りを感じ、地元の人たちと語りながら自然の味を楽しむべきでしょうね。

   

佛谷寺

青石畳の通りを進むと、『龍海山三明院(りゅうかいざんさにみょういん)佛谷寺(ぶつこくじ)』を示す石柱があります。この石柱を左へ折れた石畳の先が佛谷寺です。

佛谷寺は、約1200年前に創建された山陰第二の古刹です。境内の大日堂には、国の重要文化財の五体の仏像が祀られています。

その昔、海中に三つの怪火が現われ、住民や航海者は『三火』(ミホ)と呼んで恐れていました。美保に来た行基菩薩が海中の三火を封じて仏像を彫作し、一堂を建立しました。これが佛谷寺の開基です。

その後、弘法大師が七堂伽藍を建立し真言宗となります。永正12年(1515)、順慶上人の時、浄土宗となりました。

永禄・天正年間、尼子・毛利よる戦乱で、七堂すべて焼失しました。しかし仏像は、その都度、地元の人々の手によって持ち出され難を免れました。昭和25年(1950)、文化財の見直しより国宝から「国の重要文化財」に指定されました。

門を入った右手の大日堂(だいにちどう)に、その5体の仏像が安置されています。
薬師如来坐像を真中に、聖観音立像3体と、菩薩形立像1体が並んでいます。いずれも平安初期の一木彫で、出雲様式といわれる素朴で力のある仏像です。

重要文化財の仏像

三明院はこれだけではありません。              

・何思う、流刑の風待ち

隠岐へ流された2人の天皇の風待ちの御座所ともなりました。承久3年(1221)、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇、それから約100年後の元弘2年(1332)、討幕に失敗した後醍醐天皇も隠岐配流となりました。ここ佛谷寺で海が穏やかになるのを待ったのです。
なにを思ったのでしょうか。時の流れを儚んだのでしょうか、都の生活を偲んだのでしょうか、それとも隠岐島でのことを考えたのでしょうか。

佛谷寺 門

・超すに越されぬ15の壁(人情噺)

井原西鶴『好色五人女』にとりあげられた、江戸本郷は八百屋の娘の情念の恋。吉三郎を愛した八百屋お七、会いたさ一心で家に火をつけ死罪となります。その後、お七の冥福を祈って巡礼に出た吉三郎。この寺で死んだと伝えられています。そのお墓があります。
余談ですが、当時の法律で放火は死罪。でも15歳未満なら免れます。お七に15歳と言わせようとする奉行のはからい。せつない話の多い日本ですね。

美保関灯台

美保関灯台は、1898年(明治31年)にフランス人の指導の元、完成した山陰最古の石造りの灯台です。高さは14m、水面 からの高さは83mです。地蔵岬灯台として点灯された当時の白色円筒形造りで、「世界の歴史的灯台100選」にも選定されました。また2007年には、国の登録有形文化財に指定されました。
「灯台ビュッフェ」として使用されている赤い屋根の建物は、灯台守の宿舎でした。近くには畑の跡もあり、厳しい自然環境にあって船や船員の安全を守り続けた灯台守と家族の生活を感じます。

灯台の全景

灯台ビュッフェで、美保関に生まれ育った三角邦男さんにお会いしました。青石畳通りでお話をうかがった三代暢實さんとともに美保関の文化と歴史、そして町の活性化に尽力される現場主義を原点する八十代でバリバリの現役の方です。

三角邦男さん

「もともと、頼まれたら断れん性格です」、「多くの人が手掛け、守ってきた灯台。地元の者が大切にしませんと、だめですからね」。現在はこの灯台ビュッフェの責任者。

温厚な顔に信念一途の強い意思を感じます。美保関生まれ美保関で育ち今日までこられた三角さん。お聞きすると、町議や多くの事務局長的な立場で、皆様の聞き役として仲裁役として、裏方の役目を丁寧に実行されてきました。
現在は、三代暢實さんとともに美保関の新聞『美保關新聞』の発行も手掛けておられます。大正末期の創刊、この秋には記念すべき1000号となります。

美保関新聞

温厚な三角さんに灯台の周りを案内して頂きました。
美保関灯台のある地蔵崎の「沖之御前」「地之御前」の鳥居からは、美保神社の飛び地境内地の「地の御前島」と「沖の御前島」を眺めることが出来ます。沖の御前島で事代主神が釣りをしたと伝えられています。

「沖之御前」「地之御前」の鳥居

一点の雲もなく澄み渡った点と海。三角さんは小声で、「写真撮影のポイントです」話されました。その時は、列ができるそうです。
美しい日本海を眺めながら思いました。黄昏時、ステキなひとと、灯台ビュッフェの海側に座り、美保関の海の幸でワインを飲んだら、どんなに幸せか。そんな私の甘い願望を見抜いた三角さんは、「落ち着けば、いろんなことを考えています」と微笑まれた。

日本海

自然と人、そして「思い」が演出する美保関の時間。十分に回り切れなかった後悔を感じつつ、私たちは美保関へと戻りました。

神話と祭事

美保関の一年は、神事に始まり、神事に終わりと伝えられています。これだけでも神話と伝説の聖地としての証です。国譲り神話を海上で再現する「青柴垣神事」や「諸手船神事」は壮観です。でも、地元の人々には厳粛で古式ゆかしい神事です。旅行者も決まり事には従いましょう。

美保関の幾つかの祭事とイベントを紹介します。なお、日時や決まり事は、事前に観光協会や関係機関にお問い合わせください。

●七類のとんどさん 美保関町七類 1月5日
七類の集落を南北に区切り、神事を担う大頭屋を決めて行う伝統行事。
●墨つけとんど 方結神社 1月6日以降の日曜日
風呂やかまどの煤(すす)を地区の人々の顔に付け、無病息災を願う祭り。
●笠浦龍神祭り 日御碕神社 1月7日
麦藁を束ねて造った竜神船(リンゴンさん)を海へ流し、海上の安全と豊漁を祈る祭り。
●節分 美保神社
●流鏑馬神事 爾佐神社 4月3日
安全と大漁豊作を祈願して地区内を練り歩きます。最後に3本の矢を射る古式ゆかしい神事。
●青柴垣神事 美保神社 4月7日
国譲り神話。事代主神(恵比寿さま)が、天照大神の使者から国譲りを求められます。承諾したのちに、美保関の海中に青い柴垣を作り籠られた神話の神事です。一年前に当屋を決め、丸一年間精進し、祭礼前日から籠り、断食します。當屋は港内を船でめぐります。
●五本松公園つつじ祭り 4月下旬より
●かんから祭(雲津) 5月4日
地区内に流れる川を境に東側(源義親)と西側(平正盛)に分け、鐘と太鼓の音頭にあわせて「東の負けよ」「西の負けよ」と声を張り上げて無病息災を願う祭事。起源は平安時代中期、略奪した源義親が隠岐島に流れたが、出雲で再び反乱。平正盛に討ち取られたのが始まりです。
●神迎神事 5月5日
沖の御前、地の御前の二つの島の神を、美保神社本殿の四の御前に迎える神事。
●虫干し神事墨付 方結神社 7月24日以降の日曜日
魔除けの祭り。1月の祭事と同じで墨付けをします。
●はんぼかべり神事 横田神社の下宇部尾は10月16日、森山は11月の第2日曜日
「はんぼ」とは飯びつのこと。「はんぼ」を頭にのせて踊りながら豊作や大漁を祈願。大国主命が事代主命の所へ行く途中、森山の漁師宅でお世話になり、喜んだ大国主神が「はんぼ」をかぶった神話からです。
●なます祭り 三保神社3月最終日曜日、福浦地区11月23日
春と秋に行われる祭事。春は豊漁、秋は収穫の祈願。
●諸手船神事 美保神社 12月3日
青柴垣(あおふしがき)神事と同じ国譲り神話にちなんだ神事。天照大神の使者が国譲りの交渉に来る様子を再現。港内で2隻の諸手船が水を掛け合います。

諸手船神事

●膝餅神事 方結神社 12月26日
片江地区に伝わる頭屋行事。神社に供える正月の餅を、子どもたちが膝で搗く祭。
●青石畳通りでの各種イベント (観光協会におたずねください)

美保関は、北側は日本海(美保関灯台からの景色)、南側は美保湾と中海、3つの海に面した港町です。美しい海岸線、自然の地形を活かした港、海からの豊かな恵み。人々は海を愛し、海に愛されてきました。もちろん自然の力に苦しむこともあります。その感謝と共存が多くの祭事や伝統です。

『島根国』は、YouTubeチャネルでも旅情報を発信しています。撮影に来た私たちを知ると福間旅館の福間隆さん福間治さん親子が、「美保関は海だ。海からの風景がいるだろう」と船を出してくれました。

私たちは、海からの美保関の町を、そして美保神社へと続く参道を眺めました。それは船人や船で来る商い人や旅人の見た世界を心に刻むことでした。楽器を奉納する気持ち、参道に石を敷き詰める意味、文人たちの思いを多少なりとも感じとりました。
陸から見る美保関ではない、海から見る美保関。だからこそ感じることが出来た「海上交通の要として栄えた」美保関です。
海から見たからこそ深まる陸地から見る海です。「美保関は、陸と海が一つになって美保関」だと強く感じました。いつの日か、米子や松江から中海を渡り、他県から日本海を渡り、美保関に来る航路が復活したなら、新しく、そして昔からの美保関の魅力を皆様も発見することでしょう。

福間旅館の船「ライジン」から見た美保関は、私たちに、美保関は海と一緒で美保関であることを、海と陸地という区切りのない世界を教えてくれた気がします。

福間隆さん
福間治さん

まとめ

美保関。お払いを頂いた美保神社の神職の皆様、三代さんに三角さん、気持は青年の朝倉さん。面倒見のいい福間旅館の親子に、蕎麦屋の女将さん。気さくなお声がけを頂いた佛谷寺の皆様、そして、お辞儀を交わした多くのここに生まれ、生活している皆様、ありがとうございました。

朝倉さんをお訪ねしたときに、初めにお話しされた、「沢山の観光客に来ていただくのが絶対ではないのです」。この意味を、半日付き合って頂き、朝倉さんの住民の方との話しや、多くの住民の方に触れて理解できました。過ぎ去る関係ではなく、重ね合い「ふれあう」心と距離です。

海上交易の要として栄えた頃より、仕事という交わりだけでなく、安全と信頼をベースに、ともに生きてきた人々の文化であり、風土があるのです。小さなことでも怠ると危険にさらされる船人、みんなの利便と効率を考えた石畳、美保神社に奉納する品々とともに他利の心と感謝。

それは古代神話の世界から語り継がれた不文律の教えかもしれません。
葦原の中つ国の国造りに悩む大国主神の元に、海を渡って来た手の平に乗る小さな神様の少彦名命との出会いと国造り神話。協業と創造。天照大御神の命に承諾し国譲りをし、美保関に移った事代主神の考えと心。話し合いと豊かさ。
『古事記』や『日本書紀』だけではありません。『出雲國風土記』のある、揖屋(地名)に暮らす溝杭姫に会うため毎夜出掛け、時を間違ったニワトリのためにワニに足を食べられたえびす様(事代主神)の愛嬌と厳しさの話。(詳細は、当サイト『思い出に残る知丸の風景』)

神話と風土に、今も息づく美保関です。

古い事だけではありません。交通の便でも非常に近い鳥取県と、行政の壁という視点を越えた民間という生活者視点での交流。それは行政区の壁のない旅行者でも同じです。そこには陸地ではなく「海」という視点があったからでしょう。

朝倉さんも、皆様も、交通の不便さを嘆きません。あったらあったにこしたことはない。大切なことは繋がることだと。そのつながりがいつか形になる。そのひとつが大正から多くの人びとと地元読者によって続けられてきた『美保關新聞』です。続けること、続くこと。地元の力で存在できる。学ぶことの多い訪問でした。

こんなことを言えば美保関の皆様に叱責されるかもしれません。皆様、今がチャンスです。今だから美保関の皆様に甘えることが出来ます。もちろん理不尽なサービスの請求ではありません。美保関の幸や人情とともに、美保関の自然や文化に心から触れることが出来るのです。

鳥取県からのアクセスも掲載しました。行き方は皆様にお任せします。美保関を訪ねましょう。お祭りの情報も掲載しました。神事に触れることは美保関人々の心に流れる思いや魂に触れることです。祭事の時期も予定に組んでください。

最後になりました。「素朴」などとは申しません。「厳粛」で「優しい」美保関を訪ねてみましょう。

海から見た美保神社
アクセス
 ※旅行計画の折には、必ず直接ご確認ください。これは目安です

■飛行機
 ①米子鬼太郎空港より
 「米子空港駅」からJR境港線で「境港駅」。美保関コミュニティバス/を乗り継いで「美保関」
 ②出雲縁結び空港より
 「出雲縁結び空港」から空港連絡バスで「松江駅」。一畑バスで「美保関ターミナル行」。美保関コ  
 ミュニティバスを乗り換え「美保関」

■JR
 ①JR米子駅
 JR「米子駅」からJR境港線で「境港駅」。美保関コミュニティバスを乗り継ぎ「美保関」
 ②JR松江駅
 JR「松江駅」から一畑バス「美保関ターミナル行」。美保関ターミナルで美保関コミュニティバスに乗り換え「美保関」

■レンタカー
 レンタカーでの移動をお奨めします。

■お問合せ先

松江観光協会 美保関町支部
島根県松江市美保関町美保関661 美保関地区公民館 まつえ北商工会美保関支所
電話: 0852-73-9001

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