• ~旅と日々の出会い~

月山富田城・戦国武将の夢が跡 さぎの湯温泉

場所は? 

さぎの湯温泉は、JR「安来」駅よりバスで20分ほどのところにあります。

中海に流れ込む飯梨川の左岸に湧き出る温泉です。4軒ほどの旅館が並び、飯梨川に沿って広がる田園地に溶け込んだ閑静なところです。飯梨川のやや上流には月山富田城趾を望むこともできます。

効能は? 

泉温は40~60℃で、ナトリウム、塩化物、硫酸塩の温泉です。神経痛、皮膚病、創傷などに効果があるとされています。

温泉の由来は? 

さぎの湯温泉は、奈良時代、神亀年間(724~729年)の頃、舞い降りた白鷺が、湧きだしていた湯で足の傷を癒したとされた話が起源です。諸国に『風土記』の編纂が命じられたのが713年、『日本書紀』が完成したのが720年です。

月山富田城を本拠としていた尼子の全盛期には、「御殿湯」として賑わったとのことです。その後、飯梨川の洪水のため温泉が分からなくなりました。明治42(1909)年に再発見され、今の湯の町へと伝わっています。この一帯は「清水月山県立自然公園」に指定されています。

お楽しみの散歩は? 

足立美術館と安来節演芸館に隣接しています。

足立美術館は、近代日本画を主体とし、横山大観や榊原紫峰などの絵画とともに、安来市出身の陶芸家河井寛次郎の作品など展示されています。圧巻なのは横山大観の絵画を写し取った庭園です。日本一の日本庭園として評価されています。13,000坪の日本庭園は周囲の風景と調和して、四季折々の素晴らしい風情の移ろいは、訪れる人々の心を優しく包むことでしょう。
安来節演芸館では本場の「民謡・安来節」の唄と踊りを毎日公演(事前確認をしてください)。「あら、えっさっさ」の掛け声とともに、ざるを手にした踊り子さんたちのひょうきんな顔と動作に和むような笑いが上がります。また安来節とともに三味線や鼓などの曲にもご堪能下さい。安来産どじょうを使った料理の楽しめる食事処もある。

足立美術館
地元の酒は? 

美味しい料理とともに安来の地酒をお楽しみください。

吉田酒造(株)
青砥酒造(有)
金鳳酒造(有)
(参考 当サイトの「食と酒」)

歴史と文化の径を訪ねて ―戦国武将の夢があと―

・当サイト『古代史の今』「島根の戦国時代―尼子家の「御一家再興」戦争と山中幸盛」参照

・「夏草や兵どもが夢の跡」(松尾芭蕉)

さぎの湯温泉から飯梨川沿いに上ること10分、難攻不落の月山富田城があります。戦国時代好きの方ならご存じの尼子一族と悲運の武将・山中鹿之助が遣えた城です。

尼子家は、最盛期には山陰山陽十一州を従えた戦国大名です。

山中鹿之助は尼子の家臣で、「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と三日月に誓い、尼子家衰退のなかでも『打倒毛利、尼子家再興』に尽くした武将です。

月山富田城

・月山富田城の歴代城主

月山富田城がいつ築城されたかは不明です。

1185年(※)、佐々木義清が出雲と隠岐の守護として入城してから、1611(徳川時代、関ヶ原の戦、1600年)堀尾吉晴が松江城(現在、国宝)に移るまでの427年間、多くの城主が居を構えました。

  ※鎌倉幕府が1192年か1185年です

佐々木、塩冶、山名、京極、尼子、毛利(吉川)、堀尾です。その内、尼子が支配した時期は、持久から義久までの170年間です(系譜図参照)。それでも月山富田城といえば、尼子の城として定着しています。それは戦国時代の栄枯盛衰を尼子一族が繰り返したからでしょうか。あるいは山中鹿之助の悲運の武将を偲ぶからでしょうか。その尼子一族についてお話しします。

・尼子(一期)  京極からの独立か?

尼子は近江(滋賀県)の京極氏の流れで、近江の尼子に暮らしていたことから尼子を名乗りました。

1395年、尼子持久は京極の目代として富田城にはいりました。簡単に言えば京極の代わりに現地に行った代官(代理人)です。

隙あらば隣の領地を取ってしまう時代。虎視眈々と領地拡大を狙う時代でした。

持久の子清定とその子経久は、集めた租税を京極氏に治めず、取り上げてしまったのです。支社長が地元の仲間と結託して売り上げを横取りしたようなものです。本社である京極の経営陣は激怒し、兵を出して攻めました。戦に敗れた清定と経久は出雲から追放され、清定は不遇のうちに亡くなりました。

・尼子(二期・経久) 踊り手に変装して難攻不落の城の奪回

月山富田城から追放された清定の子経久と義勝は今の奥出雲に隠れ、奪回の機会を待っていました。

1485年の大晦日のことです。そのころの山陰です、雪も降っていたことでしょう。経久とその家来たち73名は、鎧兜の上に舞の衣装を纏い、手には太鼓を持って、富田城の大手門に控えたのです。

というのも、正月に舞の姿をしたものが「万歳」を叫びながら城内に入り、祝うのが恒例となっていたのです。

大門の扉が開くと踊り手たちはなだれ込み、衣を拭い捨てると城に火をつけ、切り捲ったのです。正月に浮かれ、酒に酔ってもいたのでしょう。あるいは統治への想いの差もあったかもしれません。月山富田城を京極から奪回したのです。

応仁の乱の直後です、山陰地方には豪族もなく月山富田城奪回した経久は、勢力を拡大して山陰・山陽十一州を治めました。(1521年)

 ・尼子(二期・晴久) 毛利元就の策略

祇園精舎の鐘の音と申しますか、盛者必衰の理でしょぅか、尼子にも陰りが生じます。それは毛利からの策略に騙された仲間への疑心暗鬼です。

経久の子晴久の頃(1537)は、中国六ヶ国の守護となり領国が最も拡大しました。ところが毛利領の吉田郡山城を攻めに大敗しました。その後は内政に力を入れ統治を安定させました。そこには武力に優れた『新宮党』(経久の二男・国久が党首)がいたからです。しかし新宮党はその力を背に横暴な振る舞いも沢山あり、みなが苦々しくも思ってもいました。

この反目に楔を打ち込んだのが策略家の毛利元就です。1554年、謀をめぐらせ晴久と仲たがいをさせ、国久・誠久父子は晴久によって殺害されました。それが尼子勢力の衰退へと向かいます。新宮党のなかでただ一人誠久の三男・孫四郎(二歳)だけは京へと落ちのびます。(それが三期尼子へと続きます)

 ・尼子(二期・義久) 毛利の侵攻により月山富田城落城

晴久の子義久の頃になると、毛利元就の出雲侵攻はさらに激しさを増します。月山富田城にて篭城戦して4年間も戦いましたが、毛利からの和睦の申し入れを受け降伏。1566年、月山富田城は落城しました。家来達も散り散りとなり、幽閉された晴久は僧となって余生を送ります。

この苦戦の中で活躍するのが山中鹿之助です。尼子一途に従い、苦戦の中でも道を切り拓いていくのです。三日月に詠う「我に七難八苦をあたえたまえ」は有名な詩です。

1566年、城を明け渡した義久は吉川・小早川の兵に囲まれ芸州へと赴きます。残った山中鹿之助たち69名の家臣は離れ離れになったのです。

 ・尼子(三期) 見果ての夢、月山富田城

しかし、いつの世にも不屈の精神をもつ方はいらっしゃるのです。山中鹿之助もその一人でした。そして「お家再興」の使命の元には「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の訓えもあったのでしょうか。『南総里見八犬伝』ですね。

京で僧侶となった勝久は、新宮党党首の国久の孫にあたります。新宮党滅亡の際に難を逃れ、京都(東福寺)で僧になって過ごしていました。そこに月山富田城落城後、浪人となり諸国を放浪しておりました山中鹿之助が現れます。目的は明確です、「尼子再興」の総大将です。

勝久の気持はどうだったのでしょうか。僧侶といえども都の生活です。しかし、その頃の京は、足利の権威は衰退し町も民も乱れ、苦しんでいました。義のためか、欲のためか、己の夢でしょうか、尼子再興軍の総大将となり、出雲へと向かいます。

一時勢力を回復します。織田信長の支援もとりつけます。しかし、羽柴秀吉に従った中国遠征の折、毛利に包囲された勝久は上月城で自害します(1578)。山中鹿之助も護送中の備中甲部川で暗殺されました。これで尼子再興の道は完全に絶たれたのです。尼子繁栄170年の幕を閉じるとなります。

・しめとして

琵琶法師の「平家物語」ではありませんが、さぎの湯温泉のお泊りになられた折には、芸術の「足立美術館」、お笑いの地元芸能の「安来節演芸館」をご堪能されるとともに、是非、戦国時代の絵物語を読んでいただければ幸いです。

山中鹿之助ではございませんが、「願わくは」、尼子一族と山中鹿之助の物語がNHKの大河ドラマになることに共感して頂ければ幸いです。

→「自然の恵み 温泉と芸能」に戻る

SNSでシェアする