• ~旅と日々の出会い~
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温泉旅ノベル『シマネミコーズ、温泉の旅路』

一話 赤い糸のあや ―あなたは、気づきを教えてくれた―

七節 一期一会の暖かさ(小さなお店)

暖簾をくぐる前に「いらっしゃ」と元気な声が掛けられた。

「ありがとうございます」

カウンターに座る彼も立ち上がる。

旅館の浴衣ではなく、白のポロシャツとジーンズだ。

「初めはおビールでいいかしら」

六十ぐらいだろうか、穏やかな眼差しの女将さとおじさんだ。

「夕ご飯はごっつおでしたでしょ。そげでも少しだけ魚をきりますけん」

店のおじさんのイントネーションが心地好い。田んぼのあぜ道を崩さないようにと歩いている姿を想像した。出雲弁にはそんな優しさとリズムがある。

「女将さんの煮物もだして」

「乾杯」

刺身を口にした。

「美味しい」

おじさんと女将さんの視線がくすぐったい。

「そうだろう。オロちゃんの知り合いだろう、気張ったよ」

お酒がすすむお刺身だ。旅館の仲居さんが薦めた銘柄のお酒が棚に並んでいる。

「さあ、女将さんの煮しめも食べて。最高なんだよ」

竹の子やフキにぜんまい、わらび、焼き豆腐に昆布と里芋の煮物。出雲地方では「煮しめ」という。

「美味しい」

美味しかった。懐かしかった。故郷の味であって、母や祖母の味でもある。煮干しの味に、醤油の味の濃さが家に伝わる代々の味だ。料亭や飲み屋なら、ほかの料理の味を邪魔しないようにと薄味に仕上げられている。煮しめには主張がある。それは保存の為であり、似直すからだという。

「そうだろう。山の田舎料理と海の幸、島根の良さだよ」

旅館で頂いた島根の素材を最高の味に仕上げた料理も美味しかった。そこに島根ならではの「おもてなし」の心を感じた。温泉町の小さな飲み屋さんの料理には、自然の恵みを大切に保存し、それを地元の味噌や醤油で蘇らせ、もてなす古くからの生活文化がある。

「オロちゃんはいつもこげだ。宴会を抜け出し、来てくれが。そげなことはせんでいいと言うが、そうだも、こげして来てくれわ。松江の帰りにもわざわざ寄なはあし」

女将さんの白い割烹着が眩しく見えた。その白さが彼の寡黙さを引き立てる。

「それに、初めて知り合った人も誘うのよ。あなたも、驚いたでしょう」

頷くだけの彼を横目で見、女将さんに、どうしてですかと尋ねようとした。

テーブルが二つとカウンターだけで奥に小さな座敷がある、こじんまりした店。お客は二人だけで誰もいない。

「私、そこの松江のお酒、頂けますか。もちろん、会計は別にしてください」

誰かに気兼ねすることもなく、何かを気にすることもなく、開放された気持で飲んでみようと思った。すぐそばに、疲れた身体も、弱った心も、芯からほぐし、優しく包み込む温泉と布団がある。もてなしに甘えてみよう。

「だめだよ」と止めた彼を睨み返した。

「一杯、召し上がる。私のおごりで」

女将さんが含み笑いをした。

「オロちゃんも、旅行の貴女も、お互いにご馳走になったら」

カウンターに額が着くほどに頭を下げられた。

「ありがとうございます。一杯だけ頂きます。その代わり料理は誘った私のほうで」

先輩たちといるときは全体を仕切っていた彼だが、ここでは雰囲気に委ね静かで、受け答えも抑揚のない淡々とした物言いだ。それに、控えめで、あらゆることに遠慮気味に見える。

女将さんに「飲んで」とお酒を薦めた。

「僕への請求で」

「じゃあ、二杯目は私ね」

「はい、はい」

お母さんのようにかわした女将さんが、彼に代わって店との出会いを話してくれた。

出会いは数年前、東京の会社の慰安旅行で玉造温泉を訪れ、二次会でこの店に来た。その後、島根の素晴らしさに魅かれてたびたび訪れ、Iターンで東京から移住した。現在は、中国山地で森林の伐採整備と小さな家具作りの会社に勤めている。休みの日は、畑仕事と近所の子供にパソコンと簡単なプログラミングを教えている。

東京の生活を捨て、島根に住みついたIターンの話に、心のどこかにある風船のような気持がきつく鷲掴みされた。(痛い)

「どこに、そんな魅力が・・・」

大きく頭を振って彼を見詰め直す。

「なにが、貴方をそうさせたのですか。東京より魅力のあるものって・・・」

また首を振る。彼は、一度女将さんに微笑んで、お酒を口にした。

「東京と島根を比較したことはありません。東京にも魅力があり、楽しい生活がありました。ただ、あの時・・・」

自分の手をじっと見た。

「ただ、ここに来て、東京の仕事や生活に、なにかが欠けているような気がしていました」

女将さんは静かに見つめている。おじさんは頷くこともなく何かを作っている。

「古代出雲歴史博物館、ご覧になりましたか」

小さく頷く。彼は首を小さく上下してお酒を口にした。

「銅剣と銅矛を見て、驚きました。学校では習わなかった歴史でした」

社員旅行から帰ると、奥さんを連れて再び島根を訪ね、古代出雲歴史博物館を見学し、山の中の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を訪ねた。

「二千年以上も前、弥生時代のことです。誰にも触れられることなく、銅剣や銅鐸が地中に埋められていたのですよ。僕は驚きました。この島根というところに」

「どうして調査や発掘関係の会社や団体には勤めなかったのですか」

頓珍漢な質問だった。

「私が感動したのは、発掘されたモノではないのです。そんなものが埋まっている、この島根という地でした。そしてそんな歴史のある島根という自然が好きになったのです」

「奈良にも、青森にも、九州にもあるわ」

悪い癖だ。つい現象を比べてしまう。

上司の苦虫を噛んだような顔が過る。

「そうですね。日本のどこにも遺跡はあります。なぜ島根か、なぜ出雲なのか・・・」

煮しめの竹の子を口にした。

「出雲神話を読みました。たたら製鉄に興味をもち奥出雲にもでかけました。そこで穏やかな中国山地の山並みに魅せられたのです。ここには、私が知らない人と自然の文化があると・・・」

女将さんに新しい日本酒を注文すると微笑むように言った。

「こんな話はやめましょう。貴女のことを話してくれますか」

「そうですね。僕も貴女に興味があります」

「普通の勤め人よ」

女将さんは新しいクラスに注いだお酒を二人の前に置いた。

「そうね。貴女は何をされているの」

マーケテイング会社での市場分析や新商品販売のプロモーション企画の仕事を、大げさに面白おかしく話した。

「キャリアウーマンなのね。しっかりなされているわ」

職場にも仕事にも多少の不満はある。それでも転職したくはない。でも、何か満たされない。やりとげた充実感とか、評価された喜びとは違う、自分の存在意義のようなものが見えない。

彼のことが、というより彼が何をしようとしているのか、やはり気になった。

「これから何をされるのですか」

正面の棚に並ぶ徳利を見ながらつぶやくように言った。

焼き窯を造り、焼き物をしたいと話す。手製のピザ釜でピザを焼いているときに「火」に魅せられた。いつか炭も焼きたいという。

女将さんが「ログハウスは」と尋ねた。

「あれは十年計画です。今、やっと山をならしたところです。これから木材集めです」

「田んぼは」

「はい、借りるめどがつきました。初めてですから、小さくはじめます」

十年という計画をもつ生活。小さなところから始めて大きくする。そこには成長・変化していく目標や成果がある。ながい時間との関係で生きている。当然、身体もボロボロになる代償もあるだろう。上手く出来るかどうかを別にして、具体的な手ごたえがあるような気がする。

「素晴らしいことですね。私にはできないな」

「僕も初めはそうでした。なにも知らない僕なんかに出来るわけがないと。でも、皆さんが協力し、応援してくれるのです。このお店にも凄くお世話になりました。一人ならば決してできなかった。島根に暮らすみなさんのおかげです」

十時前になると彼は唐突に「勘定してください」と女将さんに告げた。女将さんはご主人と顔を見合わせた。

「そうね。おひとり様、二千円かしら」

そんな金額ではない。

五千円札を出す。それより早く彼が一万円札を女将さんに渡した。

五千円札を彼に渡そうとした。受取らない。無理やり胸に押し付けた。彼のごつごつした豆だらけの手が押し返す。

「やはり、今日は僕が奢るべきです」

「話が違うわ」

「違わない。素晴らしいひと時でした。貴女と話が出来て、考えが整理できました。それがまた明日からの励みとなります。ありがとうございました」

女将さんとおじ様に軽く会釈すると店を出た。

「彼はね、うちのためにいろんな人を誘い、ご馳走するの。私たちも、何度も断ったのよ。でも、お世話になったと聞いてはくれないの」

仲居さん用に用意したポチ袋を鞄から取り出した。

「今度、来られた時に、飲み代の足しにしてください」

女将さんは一瞬躊躇したが笑顔で受け取った。

「明日はどこにお泊りですか」

明日は足立美術館を見学してから松江市内の神社をお参りし、宍道湖湖畔のホテルに宿泊する予定だ。夕ご飯はホテルではなく、街中の飲み屋さんで食べることにしている。

「そのホテルも松江では最高よ。最上階の露天風呂も楽しんでね」

暖簾が開き、声がかかった。

「女将さん、五人、大丈夫。それとカラオケ良いかな」

玉造温泉の川沿いの風が心地よかった。

二章につづく

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