• ~旅と日々の出会い~
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温泉旅ノベル『シマネミコーズ、温泉の旅路』

一話 赤い糸のあや ―あなたは、気づきを教えてくれた―

二章 歴史が織りなす松江しんじ湖温泉の巻

一節 出雲王朝の風と薫りの荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡

予定していた足立美術館の見学をやめにし、彼が島根に住む切っ掛けとなった荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を訪ねることにした。
朝風呂の程よい湯あたりに静かに目を閉じると、奥深い山の中に埋められた銅剣が過った。どんなところに、どんなふうに埋められたのだろうか。どうして見つからなかったのだろうか。どんなところだろうか。想像は湯けむりのように揺れ動く。
古代出雲歴史博物館に奇麗に展示された銅剣と銅鐸は、古代史の魅力と事実とともに驚きや感動もくれた。それで十分だった。彼がもし饒舌に二つの遺跡を語り、中国山地の日々の魅力を話したなら、興味はもたなかっただろう。ところが彼は控えめだった。そんな彼に突き動かされた。博物館とは違う何かがあると。どんなところに埋められていたのか、この目で見ておきたい。

タクシーは荒神谷遺跡に向け、雑木林の中の整備された道を進む。低木の広葉樹林が続く。時折。木々を抜いてギラっとした陽光が車窓越しに視界を射る。そのたびに網膜に濃緑のレースのような幕がかかる。
タクシーの前後を走る車もなく、すれ違う車にも出会わない。建物さえ見当たらない。玉造温泉の町を出てから歩く人を見ていない。こんなところに置き去りにされたら、そんな不安を払拭するように運転手さんが声を掛けた。
「もうちょんぼしですけん。公開されたころは、そりゃ賑わったもんですが。そうが、ブームが去~と、こげなもんですわ」
旅館のフロントで荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡に行く方法を尋ねると、地元の個人タクシーを紹介された。優しそうな初老の運転手さんでなければ、要らぬことに心惑わされたかもしれない。そんな不安になる、何もない、どこに向かうかも分からない山の中の道が延々と続いていた。

騒がしいアブラゼミの鳴き声と息苦しいほどの草息が迎えてくれた。
吹き出る額の汗を休みなく拭く運転手さんと二人で縄文ハスの池を過ぎ、358本の銅剣が埋まっていた斜面を見学できる坂道をのぼる。
どこにもある何の変哲もない小さな山間の斜面。伐採された雑木林の草木を刈りとった小さな四角形の赤土が覗いていた。銅剣が発掘された跡だと説明がなければ、小屋でも建てようと掘り起こした跡地にしか見えない。
「あぁですわ。よう見つからんかったと言うか、だぁも、行きませんが、あげなとこ」
感じたことを素直に言葉にする運転手さんだ。

古代出雲歴史博物館の壁面に展示された358本の銅剣の絢爛豪華な配列と雰囲気が、一気に弾け飛び、期待していた何かが萎んだ。なにを期待していたというのだろうか。ここに幻の王朝の残影でも求めていたというのだろうか。それとも広大な発掘現場を描いていたのだろうか。

古代出雲歴史博物館でいだいた心躍るような感動も、魅せられる喜びもない。発見された驚きというより、事実確認のような淡々とした感覚だけがある。こんなものね。

「あそこに埋まっていたのですね」
「そげですわ。よう、みつけなさったもんですわ」
ここのどこに彼は魅かれたのだろう。どこにでもある、ただの山の発掘現場ではないか。
深緑の擦れ合うざわめき、生え繁った草木の息吹、交じり合う空と木々の輝き。霞む意識に研修の時の上司の声がする。「クリエイトされた現象ではなく本質を見る感性を磨け」
激しい眩暈に襲われる。
「山の気にでも当たらっしったかね。そげとも山の霊気が悪さでもしたかね」
運転手さんの声に気が付いた。
いつのまにか土の階段に座っていた。
「せついかね。下の、冷房が効いちょう展示館で休むかね」
十センチほどもあるオニヤンマが低空飛行して来て、急上昇しユーターンした。
「大丈夫です」
「そげかね」
草木の多い山で草息に当たることがあると言う。もしかすると運転手さんが言うように、山の精霊や山の魔物が発する警告に感覚が乱れたのかもしれない。

「大社さんの歴史博物館はてえしたもんですが。いろんな物が展示されちょうますが。そりゃあ、見せ方もこっちょうますわ。孫や親せきと何度も行きましが。そうでも飽きませんが。そうが、ここは一回くりゃ十分ですわ。みなさんも、そげだと思いますわ」
運転手さんは四方の山をゆっくり見渡し、上ってきた坂道を眺めて自分に話すように言った。
「そうでも、ここに立って、だぁが、なんで、こげなとこに、あげなもんを運んできて、埋めたかと思いますと、不思議なもんで、わしが運んだ作業員になった気がしますが。そげすうと、人っちゅうもんは、二千年も前も今も何も変わらん気がしますわ。そげすと、おべることはなく、ほっとしますわ。こげでいいと。ここはこげでいい」
iPhoneの着信メールの知らせが鳴った。
「思うますに、大社さんの博物館は国宝の銅剣や銅鐸なんぞを見てもらう展示場所ですが。ここは違ぁます。銅剣を埋めらっしゃった人や、なんでかを思う場ですわ。わたしは、そうでいいと思います」
沢山の人に島根に来てもらうためには、壮大で威厳があり、そして交通の便のいい立派な建物が必要だと話す。出雲大社に隣接した古代出雲歴史博物館は、島根を知ってもらい、ファンになってもらう役目があると。その宣伝と啓蒙の場所でもあると。
「ここは違ぁます」
「じゃあ、ここはなんですか」
運転手さんはタオルで坊主頭を拭いている。
「ここは、埋められていた。そうだけでいいです。お客さんのように、そこに座ってぼーとすうか、なんか考えてみりゃあいいです。そげすうと何かが見つかませんか」
「何かを感じてみるということですか」
「すんませんな。偉そうなことを言うちょうますが、わしはそう思いますわ」
「それだけですか」
「そげです。只、それだけでいい。そうだけでいいです。そげすうと、なんか落ち着きませんか」
荒神谷遺跡が公開された直後は、一日何人もの観光客を運んだ。なかには「こんなもんか」と悪態をつく人もいたらしい。腹も立ったらしい。そんなことを繰返しながら運転手さんは気が付いた、ここは人それぞれが何かを思うだけでいい。華やかなことを期待している人が愚かだと。
「そげでしょ。ここは埋まっちょっただけの山の中ですが」

たしかにそうだ。ここが華やかであることはない。むしろその方が奇異だ。
「そうでいいですが。そうが大切です。人が造り、人が埋めたもんです。歴史や価値は大社さんの博物館で教えてもらえばいい、ここは、運んで来た人のことや、ずっと隠してきた山のことを考えてみりゃあ、ええと思いますわ」
輝かしい銅剣と言う物に執着し過ぎた。銅剣は土に埋められて隠されていた。埋められていたことを忘れていた。
「この周りは自然のままでいいです。余計なことはせんでいい」
「よけいなことですか」
「すんません。わしの勝手な意見だと笑ってください」
古代出雲歴史博物館には古代出雲歴史博物館の目的と意義があり、荒神谷遺跡には荒神谷遺跡としての目的と意義がある。そこに旅人や私はどう接するか、接する側の意思だと運転手さんは話す。

「そげしたら、そろそろ、ええですかね。次の加茂岩倉遺跡に向かいますが」
タクシーに乗ると、クーラーの涼しさに胸の圧迫感から開放された。同時に汗が額から首筋に沿って流れた。ペットボトルの水を口にする。
車は来た道を戻る。

「運転手さん、中国山地の山もこんな感じですか」
風の抜けるような笑い声がし、「こげなもんでは、あ~ませんが」と言うと車を路の脇に停めた。
「お客さん用にまとめた各市町村の観光パンフレットですわ」とファイルを渡された。
「奥出雲町と飯南町と邑智町を見なさい。ちょんぼし、写真がああますが」
道を覆いつくすような高木が茂る山が写っている。山は蒼味かがり、青い空と交じり合っていた。
山に行きたくなった。そこにも昔から人が住んでいて、自然と混じり関係しあっている。山の中で深呼吸を繰り返したい。大木に耳を寄せ樹液の流れを感じたい。
「たたら製鉄も山の中ですか」
「そげですわ。今は雲南市と言いますが吉田町の田部さん、奥出雲の櫻井さんに絲原さん。そうが、鉄師御三家で、みなさん山ん中ですわ」
町中に出た車は幹線道路に入った。車の数が急に増えた。タクシーも周りの車に煽られるようにスピードを増す。
「そこには、ここから行けますか」
「行けんことはあぁませんが、そうでも片道、一時間はかかぁます。そうだも、三軒まわぁとなーと、戻られるのが夕方すぎますが・・・」
ファイルのなかに島根県東部にあたる出雲地方の地図があった。山の中と思った荒神谷遺跡の場所は、出雲平野が中国山地の山間へと延びる際(きわ)の山沿いで、これから行く加茂岩倉遺跡もその山の裾にあたる。平地に隠すわけにはいかず、山間の谷合に隠した、そんな位置だ。

加茂岩倉遺跡の駐車場に着くと運転手さんは「どげされますか」と問うた。
「ちょっと考えさせてください」
車の騒音と一緒にアブラゼミの鳴き声が身体を包み込む。
運転手さんは、ボディガードのように何も言わず三メートルほど後をついてくる。
山間の道を進むと加茂岩倉遺跡がある。
農道工事の人が掘削中に異常な音に作業を止めて見ると「青いポリバケツが埋まっていた」。それが古代史の歴史をひっくり返す第二の発見となった。
模擬の銅鐸が埋まっている。確かに、青いポリバケツに見える。古代出雲歴史博物館で見た幻想的な輝きなどない。土にまみれた廃棄物。そしてのどかな山間の、誰かが不等投棄しそうな斜面だ。

口を大きく開けて深呼吸をした。熱風が喉元までやって来てむせる。それでも喉元に刺さった棘が取れた爽やかな気分になった。
古代出雲歴史博物館の感想を上司に求められたなら、発掘現場のことを話そう。ここに伝えなければならないことがある。「見せる」ことと「ある」ということの違いと役目を。それは受けての私の意識にとってとても大切なことであったと。

斜面に置かれたベンチに座った。
見せる博物館とある遺跡跡。そんなことは誰も分かっている。分かっているから気が付かない。ある遺跡に見せる博物館の内容やサービスを求めてはいけない。逆に見せる博物館に現場のリアリティーと自然感を要求しても無理だ。見学する側が、旅する人が見方や、その見方の意識を変えることが大切だ。
意識を変化することで、見えているものの内面に気が付くだろう。この自然のなかに人は生き、そして見つからないようにと工夫した。そんな営為を想像してみる楽しみが、ここにはある。

私が変われば、見方も変わり、見えているものも変わる。どちらが正しいという評価ではない。私の視野が増えるということだ。あるいは、今まで見てこなかった世界が見え始めたということだ。

ほんの少し自信が湧いた。その自信はみるみるうちに湯気のように広がった。
日常の生活は、自分の意思のように見えている。でも冷静に考えれば、誰かがクリエイトした時間を、誰かがコーディネートした物で消費しているだけだ。それも仕方がない。そんな経済の生産と消費の循環にしたのだから。だから自分の見方をいろいろ持たなくては。

彼はさらに見極めるために山の奥へと進んだのだろう。

「どげすうかね。奥出雲の山なかに行ってみいかね。それとも松江にもどうかね」
「初めの約束通り、松江の駅に向かってください」
運転手さんは「そげかね」と幾分寂しそうな返事をした。
それでいい。私は大切な事に気づいたのだから。それは私が変わるということだ。

つづく

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