• ~旅と日々の出会い~
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温泉旅ノベル『シマネミコーズ、温泉の旅路』

一話 赤い糸のあや ―あなたは、気づきを教えてくれた―

二章 歴史が織りなす松江しんじ湖温泉の巻

三節  宍道湖の夕陽に誘われて

今夜の宿は宍道湖に面した松江しんじ湖温泉のホテル。ホテルの食事も魅力的だが、夜ご飯は松江の街で食べる計画だ。ちょっと勇気を出して二、三軒梯子して、島根の地酒を楽しむつもり。その予定で早めにチェックインした。

部屋からの景色は驚きと安らぎを運んでくれた。大きな窓いっぱいに広がった宍道湖が一望できる。ポツンと浮かぶ小島が嫁ヶ島だ。そこにも悲しい伝説がある。湖の対岸にある穴の開いた建物の県立美術館、その先には薄く青みがかった低い山々が連なっている。その裏側が先ほどまで歩いていた意宇の郷だ。
ひとりには広すぎる部屋、大きなベッドが二つもある。
靴を脱ぎ素足なる。ベッドに仰向けになると、柔らかさと肌の心地よさにかすかな睡魔がおとずれた。このまま眠ってしまいそう。脹脛や腰、肩への包み込むような感触が一層、眠りへと誘った。でも、最上階の大浴場の魅力が勝る。それにロビーで見た団体客が気になった。静かな雰囲気の大浴場から宍道湖を眺めたい。

松江しんじ湖温泉は温泉としては新しい。開湯は昭和46年(1971)、ボーリングの結果、地下1250メートルから湧き出した。温泉の効能は、婦人病、腰痛、神経痛など。そして肌にしっとり潤いを与える湯。湖畔沿いに大きな旅館がある。

展望風呂の窓辺の縁に両腕を置き、そこに顎をのせた。背中に当たる柔らかいお湯が、ずっと昔に別れた彼の抱き寄せる腕のように優しい。青い湖面と山陰地方独特の蒼色の空が、楽しかった日々を照らしてくれる。わけもなく意味のない言葉をつぶやいた。「これでいいのよ」。まるで別れた後の流れに身を委ねる気分だ。
宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島。姑にいじめられた若妻が、凍った湖面を渡って実家に帰ろうとした。ところが氷が割れ、落ちて亡くなった。それを哀れんだ湖の神様が、一夜にして島を浮かび上がらせた。その島の名前が嫁ヶ島。
奇跡を越すなら小島を作るのでなく、女の人を蘇らせてあげればいいのに。
松江には悲しい話が多い。巨大な石亀に、大橋の人柱。

「どこからおいでました」
銀歯が可愛いお婆さんに声を掛けられた。もし橋の上だったら身投げでもすると思われたのだろう。
「東京ですかね。孫も東京におぉますが。なにしちょうやら、帰ってきませんが。ナカメに住んじょうらしいですが、どげなとこですかね。同棲しちょうますが、騙されんとええですが」
「お孫さんはお婆さんに似ておられるのでしょう。きっとしっかりしていますよ。大丈夫です。今夜でもお電話をしたらどうですか」
「だんだん」と呟き、一緒に来た嫁らしき婦人に手を支えられて洗い場に向かった。

宍道湖の右端の方の湖面が、幾分赤味がかってきた。空は青く澄み渡っている。肩までつかり、肩を揉み解した。もう一度、嫁ヶ島を眺める。本当に意地悪な宍道湖の神様だ。助けてあげて幸せにしてあげればいいのに。

長湯した火照る身体をベッドに横たえる。身体の端から心地好いだるさがまとわりついてくる。このまま眠っても後悔しない温もりと安らぎだ。クーラーのスイッチを入れようと枕元に手を伸ばしたはずみに、宍道湖の湖面が視界に広がった。もったいないと思うほどの澄み渡った青だった。その青に赤味がかかろうとしている。淡く儚いグラテーションだ。
窓から身を乗り出して見る宍道湖にも、そして空にも朱色の色が網のように広がりつつあった。部屋からも十分堪能できるが、ジョギングや散歩する湖畔の道がもっと魅惑的に映った。
夜の食事に出かける支度を済ますと小さめの鞄を手に部屋を飛び出した。この夕陽を眺めてから、食事に行こう。

つづく

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