四節 再会は突然に 水郷の町の夜
ルームキーを手に、微かに残るソープの香りを感じながらフロントに向かった。
聞き覚えのある低くて澄んだ声がした。フロントの人に手を合わせ、何か頼みごとをしているようだ。
「どうしたのですか」
彼は私を指さし、フロントの人に言った。
「この方です、取り次いでほしいとお願いした方は・・・」
「お知り合いの方ですか」
フロントの男性が守るように寄り添った。
電話を繋いでほしいとフロントにお願いをした。ところが個人情報の管理とお客様の安全のため、宿泊していることも、また宿泊していないことも話せないと断られた。途方に暮れているところに現れたのだ。
県立美術館に向かって運転する彼は何度も詫びた。突然の訪問で迷惑をかけてしまったと。車の床が泥に汚れていることに。車に乗せてから服が汚れるのではないかと気遣ってくれる。手順が前後する優しさに可笑しさを我慢した。
玉造の女将さんから電話を貰い、五千円のことを知った。無理に招待したのだからお金は受け取れないと返しに来たのだ。
ロビーで受け取れない、受け取ってのやり取りがあった。妥協としてこのお金を足して食事をすることになり、食事の前に県立美術館からの宍道湖の夕陽を眺めることになった。
「ここが夕陽のスポット」と小声で告げると、一メートルほどの距離をつくった。まるで赤の他人が並んでいる間隔だ。
私のパーソナルスペースに近づかない気遣いや、逆に隔たりを感じさせないよう振舞う彼だった。一度しか話していない遠慮かもしれない。それとも元々が自然と隣にいて、波立てることなく去っていく、存在を感じさせない人かもしれない。
お世話になったのに随分な感想だが、意識しなければ、彼の存在は夕陽に映された私の影のようだ。言葉にも、振舞にも、彼から圧を感じることがなかった。
島根半島の山影へと落ちる夕陽は、宍道湖の湖面を一条の紅の帯となって渡ってきた。それはさざ波によってあたかも神が水面を渡るがごとく揺れ、厳粛で、神聖なる輝きを放つ。赤く染まる空に薄っすらと輪郭をなす山々、やがて山並みに夕陽が落ちる。白波をのぞいて湖面も薄暗くなり、周りは夜の帳を待つかのように静寂となった。
早送りのコマのように消えた夕陽と霧散した一条の錦の帯を、閉じた瞼の網膜に焼き付けた。彼の穏やか声が風と共にとどく。
「そろそろ行きましょうか」
湖面の夕陽に感性も混じり入ったのだろう、言葉の意味を理解するのにすこし時間がかかった。
一瞬目を閉じた。湖の反対の岸辺に夕陽の残影とは違う街の灯が付いている。
「綺麗な夕陽でした」
彼の彫りの深い横顔にも夕陽のなごりが貼りついていた。
「おでんでしたね」
大橋川沿いの夜景に自然と歩みは緩やかになる。柳の枝垂れが川風と共に熱気を払うかのように揺れている。
彼の馴染みの店に入ると、私との出会いから昨夜の玉造温泉の店やホテルでの一件を女将さんに説明した。お母さんにでも言い訳でもするような一本調子に言い切る口調に私は噴出した。誰に対しても気遣いと気配りの人だ。
昨夜の店と同じような穏やかな雰囲気と笑みを絶やさない女将さんに自然と口にした。島根のお酒を飲み比べたいと。
女将さんは「まかせてょうだい」と彼を見て告げる。彼もノンアルコールのビールをやめて、代行に車を託して飲むことになった。
「私、川瀬みなみと申します。みなみって呼んでください」
「みなみちゃんね、自分の家だと思ってつくろいで」
舌先から喉元を亘り広がるお酒の味と、時の流れを感じない雰囲気に気持も心も和む。
冗談交じりだったが仕事の愚痴をこぼした。同じことの繰り返し、目標の見えない生活、物足りなさを。割烹着姿の女将さんが、私が小さかった頃のお母さんに思えた。家の仕事の合間に家事をこなすお母さんに、学校での出来事を一方的に話していた。
聞き役に徹していた彼も、頷きながらシステム開発時代の夜の来ない生活を面白おかしく話してくれた。
お刺身に箸をつけたる彼も箸を手にした。
感触と味を楽しんでから日本酒を含む。
「美味しい」とつぶやく私に、女将さんも彼も溢れるばかりの笑みを返した。きっと私も微笑んでいるだろう。
刺身をつまむ彼が、独り言のように呟いた。
「島根に来てよかったな」
「もう何年になるかしらね」
箸を置いた彼の視線と交わった。
「もう8年です。35歳の時でした」
「私、35です」
「お若いわね」とお銚子を手に取ると、「35はひとつの境目ね」と差し出された。
女将さんが関西から戻ったのも35歳のときだと話してくれた。
飲み屋を開くことにすこし抵抗があった。背中を押したのが同級生で、今、料理を担当する大将だ。「明るい性格と穏やかな話し方は店に向いている」と。決め手は「二人で、みんなの止まり木になる店をやろう」と告白にもとれる励ましだった。
お刺身を食べ終える頃を見計らって煮物が出た。
「奥出雲のお酒にしますか?」
新しいお猪口が二つ、二人の前に出た。
「お店を開くとなると、どんなお店にするか、随分、話しあったのよ。それが結婚の引き金でもあったわ」
「へー」と素っ頓狂な声を上げた彼は「なれそめを聞くなんて初めてだな」と女将さんにお酒を注いだ。
ご主人が包丁を持つ手を休め、女将さんを見詰める。照れることもなく、話を遮るのでもない。
「奥に小さな座敷がありますでしょ。でも、カウンターだけでやりたかったの」
「どうしてですか」
女将さんに見つめられた。大切なことでも告げられるような緊張を感じる。
「お客様との会話というよりは、お客様の様子を窺いながらお相手したかったのよ。お客様がどんな気持なのか、今日一日どんなことがあったのか、体調はどうなのか、何がしてほしいのか、ここを出たらどうされるのか。そんなことを観察し、考えながらお客様のお相手をするの。それがお客様にとっても、私たちにとっても明日の糧にもなると思ったのよ」
「女将さんの考えですか」
「大将もそうなのよ。料理を食べるお客様を直接見たかったのよ。口にあったのか、満足されたのか、それだけでなくお料理を見た時の表情。食べ終わった後のお皿もね。大将自身の眼で見たかったのよ。それでカウンターの前に調理場を置いたのよ」
お刺身のつまの大葉も大根も食べた。最後に大根を大葉でまいて頂くのが大好きだ。彼のお皿にも何も残っていない。
日本酒が舌の上で広がって、やがて全身にしみわたる。
心地好い場を提供するだけでない、お客様の些細なことにまで注意を傾けて次に活かす。愛想のいい女将さんと無口な大将は、今のために明日を見詰めている。
「どおりで居心地がいいわけだ」
お銚子を差し出す彼に、素直にお猪口を出し、彼からお銚子を取ると彼の持つお猪口に注いだ。
「ありがとう」
呟いた彼を待って女将さんは続けた。
「そうね。あまり私たちのことは話さないから。今夜は特別よ。お二人だけよ。内緒にしてね」
大将も小さく頷いている。
「僕も同じです」
鼓舞するような張りのある鋭利な声だった。
「僕も同じです」と繰り返す。
お猪口を見詰めたままの彼に声をかけた。
「どうしたの」
顔を上げるといつもの穏やかな声に戻った。
「システム開発の仕事、本当は好きでした」
昨夜、システム開発に自分が見いだせなくなったと話していた。
女将さんも、大将も、彼を見詰めた。
お箸もお猪口も手にすることなく待った。大切なことを告げられるような、そんな不安と期待感をもって。
口元をお絞りで拭くと彼はチェイサーを手にする。
「好きでした。でも、段々分からなくなったのです、開発する仕事の意味が」
なにが、と口を挟みそうになった。悪い癖だと上司に何度も注意された。話は最後まで聞いてから質問するようにと。
「女将さんや大将と同じです。開発したシステムを実際に使う人や現場を見たくなった。業務に問題なく合っているか、使っている人はどう思っているか、どこかに改善はないか。そして、どんな貢献をしているか。でも、僕たちは要件定義書と仕様に従って開発するだけでした。終われば、次の開発が待っている」
上司に稼働現場の見学とヒアリングを要望した。次の開発にも、お客様への提案にもなると。なによりも聞くことで開発者のモチベーションアップになると思った。ところが、営業の仕事だとはねられ、願いは受け入れられなかった。営業からもでしゃばるなとどやされた。
「ひどい話ね。少しぐらいいいじゃないの」
むきになった私の声なのに届かなかったようだ。
「もし、提案からの大きな会社なら、あるいは小さくてもしっかりした理念のある会社なら許してくれたでしょう。でも、僕のいる会社は親会社から言われたことをこなすシステム開発の下請けでした。開発することでいっぱいだった」
「それで辞めたの」
「そうですね。でも・・・」
彼はカウンターの先に目を移し見る。一枝の草花が活けられた竹筒があった。
「うまく言えないけど、開発という領域に夢を見出せなくなったことが辞表を出す契機でした。でも、それが本当の理由かというとそうではありません・・」
眉間の縦皺が穏やかな波を打つ。頬の皮が伸びた感じがする。
空いた私のお猪口にお酒を注いでくれた。お猪口を手にしようとしたが、彼は手酌した。
「辞めた理由は、島根に来たからかもしれないな」と幾分間延びした声で続けた。
大将は手を休め、女将さんは唇を閉ざし続きをまつ。
「会社組織の壁を感じたのも事実です。島根に来て島根の良さに気づいたのも事実です。でも、それ以上に、島根を歩いて気づいたのです。お客様に聞くだけがすべてではなかったことに」
皆の視線に彼は微笑みを返す。
「これも真の理由かどうか分からないけど」と前置きした。
「何でもかんでもお客様にヒアリングするのでなく、ほかに考え方があることに気づきました。僕は自分のシステム開発のスキルや考え方を過信していたのです」
顧客中心主義を教条的に受け入れ過ぎたと呟いた。納品したお客様に聞くのではなく、休日の日に類するシステムが稼働するお店にでも出掛け、根本は分からなくても雰囲気は想像できたと頷いた。
「開発にプライドを持つあまり、お客様になんでもかんでも聞いて、自分を満足させたかったのです。大きな間違いだったと、島根を旅して気づきました」
「直接聞くことも大切でしょう」
女将さんの声に頷くと喉仏も小さく上下する。
「もちろん、大切です。でも、大切なことは聞くだけでなく、考えることだと・・・」
幾分緊張した店の雰囲気に気づいた彼は、明るい口調に変えた。
「自分が考えなければ何も生まれないし、活かされない。そんな当たり前のことを教えられたのです、この島根の山々を歩いて。もし、お客様のヒアリングが許されても、僕は変わらなかったと思う。不満を探すだけだったでしょう・・」
こみ上がるものを感じた。緊張に酸味のあるお酒が喉に滞っている。
「どこで。どこで、そう感じたの?」
彼のお猪口を持つ手がとまった。
「そうですね。どこがとか、ここがということでなく、島根に暮らしだして高まったかもしれません。辞めてから、辞めた理由に気づいたのです」
辞めてから辞める理由に気づく。好きになってから好きになった理由が分かる。島根で生活することを通して本当の辞めた理由に気づいたと話す。
「それが、昨夜お聞きした林業や農業、そして夢ですか」
優しい笑みだった。
「半分はそうでしょう。でも、半分はそこではないかな」
禅問答のような煩わしだった。私の苛立ちに女将さんが気づいたのだろうか、優しく尋ねた。
「都会に比べると沢山の職種はない島根よね。でも、どうして、林業や農業を選んだの。好きなシステム開発は考えなかったの」
彼は大きく頷いた。
「訪ねたシステム会社は東京の下請けでした。楽しそうな雰囲気でしたが、きっと同じ壁にぶつかったと思います」
「でも林業とは、随分、かわったわね」
「そうでもありませんよ」と穏やかに首を振る。前髪が額に貼りついた。
「実は、島根で農業を選んだのは、血というか、DNAです」
首筋から汗の臭いと一緒に草の香りもした。懐かしい匂いだ。
「僕の家は代々農家でした。ところが・・・」
彼が中学の時、所有していた田んぼが高速道路の予定地にかかった。長男は市役所に勤務し、姉も自立していた。農業一筋の父だったが、これを機会に農地を手放すことにした。
「まあ、そのお金で僕は大学に行けたわけです。そうでなければ、私立の理系なんて行ける身分ではなかった。皮肉なことです」
「それも定めというものよ」
「そうですね。ここに来て分かりました。高校時代まで無意識のうちにしていた農作業がどれだけ僕の身体に染み入っていたか。作業だと思っていたことが、大地や野菜に話しかけることだった。農産物の成長に楽しむ自分に・・・。そんな日々が心地好かった」
玉造温泉の飲み屋さんで話した彼の夢をなぞっていた。
「じゃあ、農業の楽しみに気づいたことが辞める理由だったの」
彼は大きく首を振る。
「それは、辞めた理由を確認し、自分を励ますようなことです」
もったいぶった話し方だとまたイラっとした。
「じゃあ、なにが・・・」
「回りくどくて申し訳ないな」
女将さんや大将の彼を見つめる穏やかな眼差しが諭す。彼にとって大切なプロセスだったのだろう。すべてを捨て、一から事を興す、そのためには一つひとつ小石を積み重ねていくような苦悩と行動があったのだろう。そんな生き様を誤解されないようにと彼は話している。
「荒神谷遺跡です。退社して島根に来る真の理由は、訪れた荒神谷の遺跡にありました。荒神谷遺跡で感じ考えたことが、会社を辞めて島根に来る理由を作っていたのです。それを気づかせたのが、ここで暮らす日々であり、皆様の出会いでした」
「荒神谷遺跡で考えたことなの」
控えめに、女将さんか尋ねた。
「荒神谷遺跡で何を考えたの」
深緑に包まれた荒神谷遺跡が草息とともに蘇った。むせるような息吹も思い出した。青い空が印象的だった。なにかが囁いている。
「なにに気づかれたか、私も気になりますね」
私を見て大将が問うた。
彼は大きく頷いた。
「そうですね。上手く説明できるか自信がありませんが、聞いていただけますか」
出雲大社の古代出雲歴史博物館で見学し学んだ知識をもって、訪れた荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で古代出雲を想像した日のことを、考え深げに話しはじめた。再び訪れた日、遺跡を眺めながら得た知識で問いかけた。答えは返っては来ないが、なぜ問いをもったのかの心情を掴めたと。答えは、いだいた疑問や問いの解は自分で考える行為そのものであった。
「誰のために、なぜ埋めたのか、自分で考えなさいと遺跡は言ってました。そのために来たのでしょうとも」
「そして、考えることが大切だと」
彼が静かに話すほどに、思いで深く話すたびに、心臓が高鳴った。いつのまにかカウンターの下で両手を握りしめていた。
「どうなさったの、みなみちゃん」
女将さんの声に話すのをやめた彼がのぞき込む。
「注ぎ過ぎたかな」
「新しいお水にしましょう」と氷の入ったグラスを大将が差し出した。ずっと前から気づいていたようだ。
私は大きく頭を振った。
「違うの。体調が悪いのではないのよ。私のことではないのよ」
玉造温泉から乗車した個人タクシーの運転手との会話を話した。見る博物館に考える遺跡があることを。それぞれに役割があることを。
「あらあら、オロさんの話と同じようなお話ね」
「その運転手さんの名前は」
財布から頂いた名刺を取り出し渡した。
「写真を撮っていいですか」と了承を求めると、「近々、訪ねてお話ししたいとおもいます」と深々と頭を下げた。
女将さんが彼と私を見比べてから言った。
「みなみちゃんはどうだったの」
草息に当たったことを、土の階段で暫く瞑想したことを、そして一度は奥出雲の山を見に行こうとしたことを、あのときの感情の流れるままに話した。
「荒神谷遺跡のもやした気持の訳が、中国山地をみれば少しは分かるかなと思いました」
彼が働いている山を見たかったことは隠した。誤解というより、迷惑をかけそうな気がした。その代わり運転手さんが用意した各市町村のパンフレットのファイルのことを話した。
「できた運転手さんね」
女将さんから注がれる熱い視線に耐えられなかった。その眼差しのなかに彼がいる。
恋心を抱いてはいないのに、好きになる理由を感じた。好きになって好きになる理由が分かるのと真逆の気持にいる。
(彼がどんなところで働いているか、彼が働いているところはどんなところか見たくなったのです。でも恋愛感情や彼への好奇心ではなく、私が悩んでいることに気づきそうになったからです)。すべてを吐露すればもっと気楽に話せたかもしれないが口にはしなかった。
彼の視線はお猪口に向いたままで、手さえとまっている。意識されることが重苦しくて、息がつまりそうになった。
「みなみさんは、何かを悟られたみたいですね」
一切れのサバ寿司が置かれた。板蒲鉾を切ったような押し寿司のサバの厚みに驚いた。
「いつもより早いですね」
彼の視線と交わった。
大将は、「良い話が続いたからね、ちょっと休みましょうか」と彼の前にも置き、女将さんに「お前も食べたがいい」と声を掛けた。
酢の味に彼をせつないほどに意識した。いままでは旅の途中に出会った親切な男の人だった。島根の自然や文化を、体験を交えて話してくれる人生の先輩だった。なれない夜の街の飲み屋さんを紹介してくれるガイドさんだった。屈託のない優しさに、東京の仕事の現場で出会った感じのいい人とお酒を飲むような気分だった。
「美味しい。お酒に合いますね」
大将の笑みが父に似ている。
「みなみちゃんは、素晴らしい経験をなさったのよ。島根の古代史の世界で」
島根にアクセントが置かれた。
「僕も荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡をお薦めしましたよ。ね」と彼に見つめられた。垂れ目が一層垂れ目になっている。
「こんどは、必ず奥出雲も伺いまよ」
わだかまりもなく口にした。彼は是非と言うとサバ寿司を掴むと口にした。
「お母さん」
ホテルのベッドに仰向けになって新潟に暮らす母に電話をした。「ずいぶん、ご機嫌ね」と、いつもと同じ機嫌のいい母の声だった。代わった父の、ぶっきらぽうな声を久しぶりに聞き、弟に松江での経緯を話した。驚いた弟は母に電話を替わった。「どんな時でも、私はあんたの味方だからね」。島根の酒のように胃袋に染み入るような言葉だった。
五節 出会い別れ、そして「出会い」。私ははばたく
朝一番の展望風呂から見る宍道湖の湖面は銀色に光り輝いていた。シジミ採りの小舟が左右に揺れている。青味がかった山々の向こうに中国山地が連なり、そのどこかの山の中で彼は今日も朝から杉の木の枝打ちをしている。
両腕に顎を置き昨夜の会話をひとつずつ思い出す。よく笑った。居合わせた初対面の人にわだかまりなく話し、抵抗もなく話しを聞くことができた。「嫁にこんか」と見知らぬおじさんにお酒を注がれた。「じゃましなさんな」と隣に座る奥さんが微笑んでいた。
山での仕事や生活をアイフォンで見せてくれた。出雲大社では嫌悪したオジサンたちも人間味に満ちた慈悲深い顔をしている。酔った勢いで言った、「お尻が見られている感じでした」と。彼は笑い、そこではありませんねと否定し、みんな「別嬪さんだと言ってました」と真顔で言った。
「お奇麗ね。私の若いころそっくり」と女将さんが言った。「鼻べちゃが」とご主人が笑う。
ホテルに戻り、両親に電話をする前に反芻した。本当にいいのと自問する。それでも決心は揺るぎのないものだった。島根の旅で、荒神谷や加茂岩倉遺跡に出かけ、そして島根で暮らす人々に出会って気づいたのだ。何を忘れていたか、何を求めていたのかを。東京に戻ったら上司に報告しよう。そして、それはなぜ好きになったのかの訳でもあるような気がする。
(本当にいいのね、かわせ みなみ)。
「はい」
「どげしたかね。ぼーとしちょうと思ったら、大きな返事をして。おべたがね」
昨日のお婆さんが、タオルで隠すこともなく立っていた。
「美しい宍道湖を、気持のいいお風呂から眺めていると勇気が湧きました。ありがとうございます」
「そげですかね。そりゃよございましたね。まるで、いい男さんに出会ったようだわ。もっともっと別嬪さんにならっしゃった。ほんに、出雲には沢山の縁結びの神様がおらっしゃるけん」
国宝の松江城やお堀の周りを見学し、空港連絡バスで「縁結び空港」に向かう。窓から見る松江しんじ湖温泉に、玉造温泉に、熱い寂しさを感じた。
搭乗手続きの順番を待つ。
「まってください」
汗だくの彼が両手で水をかくように走って来る。
「渡したいものがあります」
後ろに並ぶ人に断って列を離れた。
昨日渡そうとしてもって来たが忘れていたと、木製のぐい飲みを渡された。
「まだ、下手です。でも精魂込めて造りました」
東京出発便の最終登場手続きのアナウンスがあった。
「また島根に来てくれますか」
一瞬の間ができ、ゆっくりと頷いた。
「また会って頂けますか」
一瞬の間をつくり、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。待っています。必ず来てください」
もう一度頷いた。「いつか・・・」
飛行機は宍道湖に向かって走り出し、やがて機体が浮いた。
いつかきます。それはいつなのか今はまったく分からない。もしかすると十年も二十年も先のことかもしれない。
昨夜、みんなの話を聞きながら思いがかたまった。彼が夢を語れば語るほど、彼が島根の良さを説明してくれればくれるほど、そして十年も二十年もかけて夢を実現したいと決意を知れば知るほど。決心は固まった。彼や女将さんが夢の実現のためにみんなが協力してくれると感謝すればするほど、気持が追い立てられた。
初めは不安でしたが仲間がいたからと彼は繰返した。そして分かり合え、共に夢を追う人がいたらとどんなに楽しいかと控えめに告げた。
川瀬みなみは、朝風呂から上がると実家に電話をした。昨夜の決心は変わらないと。
年内に新潟に戻り、家業の造り酒屋を手伝うことにした。理工系を諦めて農学部に進んだ弟。いつかはお酒の販路を拡大し、生活者のニーズを分析すると社会学部進学の我儘を認めた両親。卒業とともに帰る約束だったが、経験を踏みたいと東京の会社に勤めた。
自分の夢と目的に気が付いた。そして、成すべきことは、東京でお酒の販売戦略を考えることの前に、地元で、地元の自然と文化をじっくり意識してお酒を造ることだと。
実家の酒は、新潟の美味しいお酒との選別に負け、販売網とプロモーション力の弱体から売り上げは低迷している。お酒のためにと米作りをする農家にも迷惑をかけている。腰痛に悩まされ引退したという杜氏になんとか匠の技を伝授してくれと引き留める弟。黙々と働き続ける両親。
そこに夢があり、生きがいとなる関係がある。それに気づかせてくれたのが島根の人々であり、島根のお酒だ。なによりもIターンで島根に住み、夢を作り、育み、実現に向けて頑張っている彼との出会いだった。
島根は魅力に満ちところだ。彼ともっと話をしたい。夢を歩んでみたい。でも、何かに悩んでいた川瀬みなみはいない。
シートベルト着用のランプが消えた。
「ありがとう、島根。ありがとう、オロさん」
縁結び空港に駆け付けた彼の行動で気持を十分理解した。時間があれば心変わりをし、島根への乗車券を買うかもしれない。しかし、大きな夢と目的に気が付いたのだ。それが何よりも大切なことに思える。教えてくれたのが、見て学ぶ博物館と考える遺跡の存在、そこで得る想像と創造のあり方だった。旅の背中を指導のように背を押した上司にも感謝する。きっと退職を喜んでくれると思う。職場で学んだことを実行するのだから。
旅行の出会いに感謝した。出会った人たちに感謝した。あの温泉の温かみが忘れていた感性をほぐしてくれたのだ。
川瀬みなみは、窓ガラスに額をくっつけてもう一度、つぶやい「ありがとう、島根。いつかお会いしましょう、オロさん」
完
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