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一話 「百島繚乱」のはじまり

何かを求めるのではなく、何かを見つけることからはじまる

西郷港

■はじめに 

島根県の島根半島をから約60km、日本海の疾風怒濤の見渡す限りの海原にこつ然と緑の島影が姿を現す。それが180あまりの島から構成される隠岐(おき)。その中でも古くから人が暮らしているのが隠岐4島だ。島後島(どうごしま)の隠岐の島町、島前島(どうぜんしま)に属する中ノ島の海士町(あま)、 西ノ島の西ノ島町、知夫里島の知夫村(ちぶ)。

孤島と政治的な緊張に晒されてきたがゆえに独特の文化と民俗、そして自然と生態を維持・形成してきた。そこには自然と人間社会の理不尽な「開発」をともなわない、新たな「関係」と「価値」の共生が息吹し、萌芽する。それを『島根国』では、隠岐の「百島繚乱」(※)の文化として紹介する。

※百花繚乱(ひゃっかりょうらん)、さまざまな花が美しく咲き乱れる。転じて才能のある人材が沢山現れ活気と革新に満ちている様。それにちなみ「百島繚乱」は、隠岐の島々には多彩で独特な文化・人材・風土に満ちているという意味の『島根国』の造語。
浄土ヶ浦

■百島繚乱の隠岐四島 (人口は島根県資料より)

島根半島から見て手前に位置する3島が「島前(どうぜん)」、その奥に位置する島が「島後(どうご)」。いずれも火山活動により生まれた島だ。

島前3島は外輪山(カルデラで凹んだ部分を囲む外側の火山体)の島と陥没でできた内海でできている。約500万年前に形成されたカルデラ地形が今も見ることができる。
4島とも海の周囲が深い森に覆われた崖で、島内でも陸路で往来するのが難しかった。そのため集落ごとに独自の文化が育まれてきた。

・隠岐の島町(島後島)

約242.8 km²、東京23区で一番広い大田区(約60.4 km²)の約4倍。人口約13.7千人。面積、人口ともに隠岐最大で、古代から隠岐国の中心地として繁栄。幕末の1868年、松江藩の搾取に苦しんだ農民・漁民3千人がたちあがった「隠岐蜂起騒動」の島。

・中ノ島(海士町・あまちょう)

約34 km²、杉並区(約34.1 km²)とほぼ同じ。人口は2.3千人。鎌倉時代、島流しの刑で後鳥羽上皇が約19年の歳月を過ごした島。近年では島留学を実施、行政と島民一体の活動を展開。行政・教育・住民の緻密な連携をとった数々のカリキュラムや活動が話題である。

※『島根国』の「仕事を考え」であらためて紹介する。

・西ノ島(西ノ島町・にしのしま)

約56 km²、世田谷区(約58.1 km²)とほぼ同じ。人口は2.7千人。外洋に面した断崖絶壁と内海の穏やかな風景を見ることができる。焼火山(たくひさん)は島前カルデラの中央火口丘に当たる。

知夫里島(知夫村・ちぶむら)

約13.7 km²、墨田区(約13.8 km²)とほぼ同じ。人口は0.6千人。手つかずの自然景観が魅力。人と牛がほぼ同数、タヌキは人の3倍以上だとささやかれているが。

4島の人口はあわせて約19,300人。それぞれが、それぞれの自然と歴史をもち、独自性を保ちつつも共創と共棲の時代を築いてきた。

隠岐のパンフレットより

隠岐の古代

隠岐島周辺の海底からは、ナウマン象の臼歯などが発見されている。かつて隠岐と本土が陸続きであったことを物語っている。その頃は日本自体がアジア大陸と陸続きで、日本海が中海のような存在であった。

隠岐諸島の人類最初の痕跡は、後期旧石器時代のはじめ頃(およそ3万年前)と推定されている。その頃の地球は寒冷期にあたり、海水面が現在に比べ低く、隠岐は鳥取県から島根半島にかけて陸続きだと考えられる。

後期旧石器時代から縄文時代にかけてと、弥生時代から古墳時代にかけての歴史は、列島と同じように展開していきた。しかし、古墳時代の終わり頃の古墳や横穴墓の営み方は、列島とは異なった様相が現われる。

島後は中四国地方で唯一黒曜石を産出する地域で、黒曜石の特質は叩くと縁辺がするどく割れ、狩猟で使う矢じりや槍の先などに加工されていた。
瀬戸内や近畿地方で発掘された黒曜石製石器の原産地を科学分析すると隠岐産の黒曜石である。旧石器時代、石器に利用できる石材を求めて隠岐に向かったと推測される。

■隠岐の三つ子島

隠岐諸島は、『古事記』の国生み記のなかにもある。イザナギとイザナミが三番目に生んだ島が、今の「隠岐諸島」を指す「隠伎之三子島」(おきのみつごのしま)。
なぜ三つ子島かは、最も大きな島「島後」を親と見立て、島前の中ノ島、西ノ島、千夫里島を三つ子のように並んでいることから名付けたといわれている。

『出雲國風土記』の「国引き神話」なかにも、隠岐から余った土地を引き寄せて島根半島ができたと表記されている。

『古事記』編纂が712年、『出雲國風土記』編纂が733年。壬申の乱(672年)後、大宝律令(701年)制定による中央集権国家の国内制覇の大事業であった。このとき、既に隠岐の島は大和朝廷の知る所であった。

古事記

■百余社の神社

大和朝廷との繋がりの深さを意味するものに神社がある。現在、隠岐には約150社の神社があると推定される。かつては300社を超えていたという説もある。

平安時代の神社格付けリスト『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』(927年編纂)にも隠岐国の16の社が記載され、うち4社が格式の高い名神大社(みょうじんたいしゃ)として記されている。出雲国(現島根県の出雲地方)が2社なのに対して驚く数である。大和朝廷との深いつながりを示す証である。

・4社の名神大社

『延喜式神名帳』には全国の由緒ある神社2861社が記載されている。そのうち名神大社に指定されたのはわずか224社。大半が都であった京都や近郊に位置している。そのなかで隠岐の4社が次の神社である。

・水若酢命神社(みずわかす)(隠岐の島町)

名神大社であり、一宮である。言い伝えによると、海から現れてやってきた神を祀っている。本殿は隠岐造り。神社の近くに小さな相撲場があり、約20年に1度、神社の屋根の葺き替えと神の再安置が行われる折、古典相撲が行われる。また西暦偶数年の5月3日には神楽や流鏑馬などが行われる。

近くには隠岐郷土館があり、島の歴史・民俗を展示している。

・由良比女神社(ゆらひめ)(島前)

イカ寄せの浜と呼ばれる浅い入り江の近くにある。かつては秋から冬にかけて入り江にイカが群れをなしてやって来た。このイカにまつわる神話がある。

由良比女命が大きな桶に乗って浦郷湾を渡ろうとすると、イカたちがいたずらで女神の手を噛み、女神を怒らせてしまった。この償いとして毎年秋から冬にかけて、イカ自らが湾に泳ぎ寄せて捕まえられることで許しをえたという。

・伊勢命神社(隠岐の島町)

黒曜石の産地・久見地区にある。鋭利な武器となる黒曜石に象徴されるように、伊勢命神社の神は外部からの攻撃を守る神として祀られた。久見神楽は有名である。西暦偶数年は7月15日、奇数年には7月16日に開催される。

・宇受賀命神社(海士町)

鳥居から神殿まで田んぼのなかにある。四季を通して美しい環境の中に見ることができる。祀られている神・宇受賀命は、西ノ島の女神・比奈麻治比賣命(ひなまじひめみこと)を恋し、ライバルとの勝負に勝利って女神を勝ちとった。二柱は結婚し、柳井姫(やないひめ)を授かった。誕生したところがハート岩で有名な明屋海岸(あきやかいがん)だと言い伝えられている。

そのほかに特筆すべき神社として幾つか紹介しておく。

・焼火神社(たくひ)

山の岩肌にあり、船の安全を守る神様として親しまれている。

・玉若酢命神社(たまわかすのみこと)  

隠岐の島(島後)で最も古い神社で、隠岐国の総社(そうじゃ)。本殿は1793年に建てられたもの。 建物は「隠岐造り」という特別な形をしています。

・隠岐神社(海士町の中ノ島)

承久の乱(1221年)に敗れ隠岐へ配流された後鳥羽上皇を祀る神社。1939年に崩御700年を記念して創建。境内には桜並木がある。

隠岐島観光の折には、自然環境とともに是非神社の参拝もお薦めする。

宇受賀命神社
玉若酢神社

■一話の締めとして

「百島繚乱」。島根に暮らす人と島根を旅する人の出会いをコンセプトにする『島根国』にとって、隠岐は「人が観光資源」を表す島でもある。

もちろん、島根に限らず、日本国内、世界でも、自然環境や名所旧跡、さらには文化・歴史とともに『人』は大切な観光資源(魅力)である。人がいるから形成された文化であり知恵、さらには人(生き様)自体に魅力があり、その関係性が多様な価値を創造する。

それは互いに影響し合うことで、学び・思考することで変化し、新たな何かを創り出す驚きと共感を生むからだ。

『疾風怒濤の情念の島「隠岐」』のはじまりにあって、極力、人や動物、さらには人が織り成す活動(祭りや文化、教育や変革)にスポットを当てた紹介につとめたい。

旅する人が港や路で出会った人、そこに隠岐の文化あり、さらには新しい隠岐ある。旅する貴方が、また隠岐で働き暮らす貴方が、姿を見かけたなら一言「こんにちは」、あるいは「いらっしやい」と声をかけることから始まる。

『島根国』もそんな出会いを通して隠岐の島を紹介する。

ローソク島(写真提供:隠岐の島町役場)

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