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四話 神々の島、隠岐諸島

― 180の島からなる隠岐諸島には、百余の神社ある ―

■神社の多い隠岐諸島

総面積約346平方キロメートルの隠岐諸島には、現在100社以上(あるいは150社という話もある)の神社がある。江戸時代には約300社の神社があったとも伝えられている。

平安時代の『延喜式神名帳』(927年)には、16社の神社が記載されている。そのうち特に格式の高い神社を「名神大社」とよび、4社が選ばれている。
『延喜式神名帳』に記載されている神社を「式内社」とよび、記載されていない神社を「式外社」とよぶ。全国で2,861社、3,132座が記載されている。社と座の違いは、建物・神社そのものを数えるのが(社)、祀られている神様の数を数えるが(座)である。

隠岐諸島には格式の高い神社があることから「神々が宿る島」とも呼ばれてきた。

神社が一番多い島が長崎県にある壱岐島(いきのしま)だ。周囲約130km、面積139.42平方キロメートル。公式に登録されているだけで150社以上、小さな祠を含めると千を超える神社が点在する。『延喜式神名帳』に記載される神社は、大社7座・小社17座の計24座(24社)。名神神社は6社ある。

朝鮮半島に近い対馬には、九州全体で98社うち約3分の1にあたる29社(大社6座、小社23座)が記載されている。

対馬と壱岐島を合わせると53社。九州の半分以上を占めることになる。

奈良(大和国)は286座(216社)。平安京が置かれた山城国(現在の京都府南部・京都市域)には122座(96社)。また、平安宮(大内裏)には宮中神36座および京中神3座。都にある神社は多数記載されている。

なお、出雲国(島根県の出雲地方)の総数は、187座(大社2座、小社185座)。

ちなみに島関連で列挙すると、淡路島は13座(大社2座・小社11座)、佐渡島は9座、四国は南海道に属する4ヵ国(阿波・伊予・讃岐・土佐)合わせて合計115座ある。

北海道や沖縄は、『延喜式』が成立した平安時代中期(10世紀)、律令制や神祇官の管轄外であったため0社。

このように都から離れた日本海の小さな孤島(隠岐・壱岐・対馬)に、これだけの神社が記載されているには、重要な意味がある。これについては後半で紹介する

神社マップ(発行・(一社)隠岐ジオパーク推進機構)

■『古事記』にみる隠岐諸島

712年(和銅5)に、太安万侶によって編纂された『古事記』。最初に計画・命令したのは天武天皇で、それを引き継いでまとめるよう命令(再発令)したのが元明天皇である。

夫婦神の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那恵命(いざなみのみこと)が、高天原の神々から「天沼矛(あめのぬほこ)」を授かり、どろどろの海をかき混ぜて造った「国」が、大八島国(おおやしまのくに)。最初の島がオノコロ島。現在の地名でいえば淡路島。
造った順は、①淡路島、➁四国、③隠岐島(隠伎之三子島)、④九州、⑤壱岐島、⑥対馬、⑦佐渡島、⑧本州。

この話だけでも不思議がいっぱいある。なぜ、淡路島が最初で本州が最後なのか。飛鳥時代の都が奈良県の明日香村辺り。ここから近い順に造ったのか。四国は南海道(阿波・伊予・讃岐・土佐)が大陸との交通網の要である瀬戸内海寄りだから。ならば瀬戸内海の七百余の島々のから、もう一つぐらい入れて良かったのではないか。例えば宮島。北海度や沖縄はどうしたか。認識かなかったのか、支配の領域外と認識していたのか。
また、「大八島国」のように「八」にこだわる訳は。八百万(やおよろず)の神、八岐大蛇(やまたのおろち)、八咫烏(やたがらす)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)などなど。「八」が「たくさん」とか、「神聖なもの」の意味をさしたのはなぜか。

『古事記』を非科学的とか、神話・物語として読むのでなく、そこに「なぜ」という疑問の視線を傾けると、古代人の、あるいは古代国家の意図が見えてくる。それは大和朝廷の戦略とは別に、各地域を治める部族(王朝)や大衆の中に伝わる話の意図を考えるヒントにもなる。

『古事記』(古代出雲歴史博物館・展示より)

■『古事記』のなかの隠岐諸島

『古事記』のなかで、隠岐諸島をまとめて「隠伎之三子島」として表記する(隠岐諸島には「隠岐島」という島はない)。別名「天之忍許呂別(あめのおしころわけ)」ともよぶ。

「隠伎之三子島」の由来の説はいろいろある。そのひとつに、隠岐諸島の中で最大の島後を「親島」、島前の3島(知夫里島・西ノ島・中ノ島)を「三つ子(子島)」に見立てた表現だという説が有力だ。

■なぜ、こんなに神社が多いのか

隠岐諸島に限らず、壱岐や対馬にはなぜ神社が多いのか。

・大和朝廷から見て重要な島

隠岐諸島は『古事記』の中で国造りの三番目に記載されている。大陸との間の位置にあり大和朝廷にとって重要な島であった。
ひとつは大陸との交易上の「海上ルートの要所」である。二つ目は黒曜石の産地として「武器」産出の貴重な島である。三つめは、多分に推理となるが、大和朝廷の脅威である出雲王朝へ監視・威嚇、場合によっては攻撃の戦略的な地として。

そんな貴重な島が、中央権力に楯突いた反逆者である政治犯の遠流である。これも奇異なことである。地理的には一年のほとんどが閉ざされた日本海の孤島であるが、重要な島であり中央権力からの監視がとどく頻度と利便性にあった島。※

※後日、掲載するが、724年聖武天皇時代に隠岐諸島は政治犯を流刑(遠流・おんる)する島として定められた。藤原田麻呂にはじまり小野篁、承及の乱で敗れた後鳥羽上皇、討幕計画が発覚した後醍醐天皇、江戸末期の大塩平八郎の関係者(飯嶋和一『狗賓童子の島』)など。

このような流刑の人々と隠岐諸島の人々の交流(中央権力―謀反者―隠岐諸島)をとおして隠岐諸島の風土を考えることができる。また幕末の対外情況―明治維新の隠岐騒動(『隠岐島コミューン伝説』松本健一著・河出書房新社)―幕府(そして松江藩)・明治新政府の関係の中で、隠岐地方の人々の風土・文化・気質を探るヒントでもなる。

・なぜ隠岐地方には神社が多いか※

※神社は政治や民衆の生活と切って切れない関係にあり、また国(集落)や生活者なくして存在しない。これ以降は地理地形を指す「隠岐諸島」ではなく、政治や文化を含めた「隠岐地方」の名称ですすめることにする。

隠岐地方には「なぜ神社か多いか」の問いは、「なぜ、現在まで残ったか」の問いとともにある。

隠岐地方に神社が多い理由として四点考えられる。①大陸との交易の要、➁真逆の視点として国境の島としての防衛の拠点、③地理的にみる霊的な要所、④厳しい自然環境(孤島・岩壁)にあっての独特な自然崇拝。

① 交易と航海の安全祈願

武器としての黒曜石の交易、また北前船などの日本海航路の重要な中継地として隠岐地方は大切な役割をはたしてきた。命がけで日本海を渡る船乗りや商人、役人たちの航海の安全を祈るために神社があった。また日々日常、自然や災害・危険と接する漁民や船を創る木こりや船づくりの船大工、交易に関わる地元商売人、そしてこの島に暮らす全ての民の安心安全・祈願成就・感謝のために建立された。

➁ 大陸の玄関口

朝鮮半島から出る船は対馬海流に乗る。そのため漂着する確率が高かったのが、隠岐諸島と島根の海岸だった。そこには正規の船もあれば未確認の侵入船もある。外敵から日本を守るための最前線の防衛拠点としても位置付けられた。そのため神の加護を必要とし神社が建てられた。

③ 都から見た「不吉な方角」の魔除け

陰陽道の占いから、都から見た隠岐地方の方角(北西=戌亥)は、怨霊や魑魅魍魎が来る不吉な方角。国難や災いが都へ侵入するのを防ぐ方除け(ほうよけ)として、格式の高い神社が配置された。 

④ 独自の自然信仰と多様な文化の流入

古くから社殿を持たずに巨木や巨岩を神とする自然信仰がある。隠岐諸島には隠岐ジオパークで紹介される地質や植物による不思議な現象が数多くある。

また、海上交易での難波や流刑によって、様々な地域の文化や信仰が流入した。それが地域ごとに祀っている。 

・なぜ現在まで残ったのか

数多く建立された理由が古代社会の社会関係にあれば、存続しつづけたのは孤島故に閉鎖された民衆の心と生活に独自性として色濃く浸透したためだ。変化を求めず、生活の安定を求める生活感は、中村了三に影響された庄屋たちによる隠岐騒動(1868年)にも示される。

隠岐騒動とは、島民三千人が武装蜂起して松江藩の郡代を追放(といってもお土産をもたせる)、81日間に渡り独自政権を維持した。その背景にあるのが中村了三の尊王攘夷の思想であり、ことの解決を寄り合いで議論し解決してきた村落共同体風土である。(このあたりは、時代は大きく異なるが、宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)の「対馬にて」「村の寄り合い」を読むと雰囲気が分かる)

中央権力の象徴、あるいは地方権力の中央への服従として神社仏閣が存在するとともに、民衆の存続と団結の要としても存続する。(その真逆の現象が、廃仏毀釈運動である。隠岐や薩摩が激しかった理由は機会があれば紹介した)

隠岐騒動記念碑

■代表的な隠岐の神社

隠岐地方にある百余の神社を、旅行で訪ねることは並大抵のことではない。そこで名神神社の4社と幾つかの神社を紹介する。
まず『古事記』にも記載される名神神社の4社、水若酢神社(みずわかすじんじゃ)、伊勢命神社(いせみことじんじゃ)、宇受賀命神社(うつかみことじんじゃ / うづかみことじんじゃ)、由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)。

1)水若酢神社(隠岐の島町・島後) 

隠岐国の一宮。伊後の磯辺に海中からお上がりになった水若酢命は、大峯山を越えて五箇村の地に入られた。隠岐の国土開発や日本海鎮護の神様として祀る。

20年に一度の式年遷宮の際に遷宮相撲が行われる。独特の風習があり一勝一敗の「人情相撲」。同じ力士同士で二番勝負をする。最初の勝者が次の番では勝ちを譲り、必ず一勝一敗で終わり恨みやしこりを残さない。島民同士が互いに支え合って生きるための知恵だろう。映画『渾身 KON-SHIN』の舞台にもなった。

2)伊勢命神社隠岐の島町久見・島後)

本殿は隠岐造り。毎夜、海上を照らしながらやって来る神火(怪しい火)があった。小祠を建て、伊勢明神を勧請奉斎したところ神火の出現も止んだ。その祠を後に現在地に遷座した。

3)宇受賀命神社(海士町・中ノ島・島前)

緑豊かな小山のふもとに鎮座し、隠岐国で最も早く中央史書(続日本後紀)に登場する。現存する本殿は、大正4年に火災で焼失したため大正6年に再建されたもの。島前で一番大きい隠岐造りの本殿は、間近で見ると圧巻。
宇受賀命と大山祇命(おおやまづみのみこと)の力比べと妻争いの神話が残っている。宇受賀命は、西ノ島の比奈麻治比賣命(ひなまじひめみこと)の美しさにひかれ、結婚を申し込んだ。しかし比奈麻治比賣命からは良い返事はもらえない。あきらめられない宇受賀命は求愛の手紙を送り続ける。すると比奈麻治比賣命は「大山神社の神様と力比べをして、勝った方に従います」と伝えてきた。石を投げ合う力比べの結果、宇受賀命は勝ち、娶ることができた。(大山神社の神様とは、西ノ島の大山祇命のことで、一説には焼火山・くひやまの神様とも言われている)

4)由良比女神社(西ノ島町・島前)

島にはこんな伝説が残っている。須勢理姫命が芋桶に乗って海を渡っていると、海に浸した手をイカが引っ張った(噛み付いた)。そのお詫びに毎年、神社の前の浜にイカが押し寄せるようになった(イカ寄せの神事)。
奇数年(元号)7月最終の土曜・日曜の夜に行なわれる祭事がある。二艘の大型漁船を連結させた神船に神輿を乗せ、由良から浦郷湾へ向けて島前神楽を演じながら海を渡る。

水若酢神社
伊勢命神社
宇受賀命神社
由良比女神社

5)隠岐神社(海士町・中ノ島・島前)

鎌倉時代の承久の乱で隠岐に配流された後鳥羽上皇を祀る神社。昭和14年(1939年)創建。隣接して後鳥羽天皇隠岐山陵や後鳥羽院資料館がある。 
鳴かないホトトギス伝説がある。上皇が隠岐で詠んだ「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」という剛健的な歌にちなみ、里には「この里に出よ山郭公(ホトトギス)」と詠んだ伝説が伝わっている。上皇の歌に感銘を受けたのか、ここではホトトギスが鳴かなくなったという不思議な逸話が伝わっている。

6)玉若酢命神社(隠岐の島町)

天武天皇の勅命で創建されたと伝わる古社。隠岐国の総社とされ、隠岐を開拓したとされる玉若酢命を祀る。境内には樹齢約2000年の八百杉(やおすぎ)が残っている。隣接して国造を代々務めた億岐家(おきけ)の資料館がある。駅伝の発祥である馬入れ神事など、数多くのエピソードが展示されている。

・八百杉に関する八百比丘尼と大蛇の伝説
この杉は、不死の力を得た八百比丘尼(やおびくに)が植えたという伝説がある。根元の洞穴には大蛇が閉じ込められていて、木の中から大きないびきが聞こえるなど奇異な伝承がある。

・50代以上続く宮司家と馬入れ神事
代々宮司を務める億岐家は古墳時代から続く家系で、約200年前の住宅は重要文化財に指定されている。

毎年6月5日の「御霊会風流(ごれえふうりゅう)」では、馬と人が参道を一気に駆け上がる「馬入れ神事」がある。神事の由来は、国守が島中の神々を馬に乗せてこの神社に集めたことによる。

7)焼火神社(西ノ島町)

焼火神社(たくひじんじゃ)は、海上の守護神・焼火信仰の総本山である。
火にまつわる神話が残っている。一つは、海中から現れた三つの火の玉が岩屋へ飛び込み、祀られたという創建の起源(※)。二つは、配流された後鳥羽上皇が海で嵐にあった際、焼火権現が放った神火に救われた逸話。三つは、暗い海を照らす信仰として古くから船人たちの厚い崇敬を集めている。
(※島根半島の美保関にも火の玉の神話が残っている。後鳥羽上皇は美保関を経由して隠岐の中ノ島に流される)

8)社殿を持たない巨木・巨岩の神社(大山神社や乳房杉など)

樹木で代表的なものが、社殿を持たず木そのものを御神体とする岩倉神社の「乳房杉(ちちすぎ)」、玉若酢命神社の「八百杉」などである。

岩や石ではあちらこちらに残っている。代表的なものが次のものである。
太井の石神(海士町)、何度どけても同じ場所に戻ってくる石神。 御客神社の巨石(隠岐の島町原田)、自然信仰の痕跡を残す注連縄が巻かれた神聖な巨石。宇受賀命神社のあご石(隠岐の島町)、飛魚(あご)に見立てた小石を本殿下に納め、五穀豊穣や豊漁を祈る神事。ローソク島 / 観音岩(隠岐の島町・西ノ島町)、自然が作り出した神々しい巨大な奇岩。隠岐諸島旅行の多くの方が訪ねるのも、陽落ちる美しさともに、その神々さにもあるのだろう。

隠岐神社
玉若酢命神社
焼火神社
玉若酢命神社の「八百杉」

■しめとして、俯瞰しよう

Webサイト『島根国』でも一度紹介したが、民俗学者の宮本常一の書『民族学の旅』(講談社学術文庫)のなかに、旅の目的と人のあり方を示す『父の十箇条』がある。

宮本常一、15歳の時。故郷の周防大島を離れ大阪へ向かう子に、父・善十郎が、何もしてやれない代わりに贈った言葉。これが宮本常一のフィールドワークの原点となる。

『父の十箇条の言葉』要点

  1. 汽車に乗ったら外をよく見よ。田畑植えられたている作物、家の大小、屋根の造り、駅の乗降客の服装や荷物などを見て、その土地の豊かさや人々の働きぶりを考える。
  2. 新しく訪れた土地では必ず高いところへ上り、方向や目立つもの、家や田畑、山のあり方を見て、気になった場所には必ず行ってみる。道に迷うことはない。
  3. 金があったら土地の名物や料理は食べる。その土地の暮らしが分かる。
  4. 時間にゆとりがあったら歩くことだ。いろんなことが教えられる。
  5. 金を儲けることは難しいことではない。しかしつかうことは難しい。
  6. お前を思うように勉強させてやれなかった。だから注文はしないが、体は大切にせよ。30歳まではお前を勘当したつもりでいる。30歳を過ぎたら親のあることを思い出せ。
  7. ただし、病気になったり自分では解決できないことがあったら、いつでも郷里へ戻ってこい。親はいつでも待っている。
  8. これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中は良くならぬ。
  9. 自分で良いと思ったことはやれ。それで失敗しても親は責めない。
  10. 人が見残したものを見るようにしろ。その中にいつも大事なものがある。焦らず自分の選んだ道をしっかり歩め。

1922年(大正11年)の時、篤農家の父からの言葉。第一次世界大戦(1914年)が終わり、ワシントン海軍軍縮会議締結の年である。
含蓄のある言葉である。隠岐地方の旅に関係なく、すべての旅の姿勢であり、視点である。そして人生の道標でもある。 

隠岐地方の旅は、孤島故に、そして4島あるが故に、朝に夕べに島を繋ぐ港に佇み、潮と風の抗いと喧騒を感じ、島を繋ぐ船で行き交う人の話に興味を持つ。やがて時の流れに身をまかせ島に渡り、それぞれの小径を歩く。出会った人と語り、隠岐地方独特な文化や歴史に触れてみよう。

ローソク島(写真提供:隠岐の島町役場)
玉若酢命神社「億岐家」

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