• ~旅と日々の出会い~
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4 水墨画の雪舟が創る「萬福寺」「医光寺」の庭園(益田市)

-濡れ縁にとまりしトンボが我となり

はじめに

お寺の濡れ縁に座り庭を眺めることが心地好いことに気づいたのは、いつの頃からでしょうか。何かを思うのでもなく、高尚な瞑想をするのでもありません。ただ座ってボ~ッとしているだけのこと。それでも座る訳を問われるなら、草木の息吹や風、気配を感じつつ融(とけ)入ろうとしていたと、首を傾げながらも答えるでしょう。

本堂の裏手にまわり濡れ縁に座る。手入れされた庭であっても、自然の摂理にさらされた庭であっても、空気が淀んでいなければ何も考えず眺めます。もし訪ね来る人影がなければ、行儀は悪いのですが足を延ばしてまじろぎもしません。さらに寂しければ寝転ぶことさえあるのです。

やがて、大げさな言い方をすれば濡れ縁に止まるトンボとなり、庭をすすむ蟻にもなるのです。意識しないまでも何かを考えているのでしょう。自由になって飛んでいきたいとか、やはり地道に働こうかと。雑念ですね。

草木の揺れに、小枝のざわめきに次第に眠くなり、風の気配に身をゆだねてしまうのです。住職に起こされることはないのですが、旅の人の足音に驚き現生に戻ります。

益田市には雪舟がつくった心なごむ庭園が二つあります。「萬福寺」と「医光寺」。濡れ縁で過ごした話をします。

萬福寺門
医光寺門
益田の寺での老婆との出会い

「お庭はどうでした」
雪舟の庭園のあるお寺を訪ねた帰りです。受付の出口を通り抜けようとしたら、七十代後半ぐらいでしょうか穏やかな老婆にたずねられました。入館料を払う時にも、老婆は参拝帰りの婦人と庭について話していました。拝観された方の皆様におききしているのでしょうか。有難い心配りです。

「風が、心地好かったです」
問いに応えてはいなかったのですが、老婆は満面の笑顔で「よれは、それは、ようございました」と頷かれたのです。
「年をとっても無粋なもので、庭の良さが分かりません・・・」
本当の心です。どんなに有名な庭を見ても「落ち着いた」と感想を述べる程度の感性しか持ち合わせしてないのです。たとえば足立美術館の庭園にでかけても、「凄い」ぐらいの感想です。

「皆様の感想を聞くのが好きでお尋ねしていますよ。この人はこんな感想をお持ちだ、このひとはこんなことに気づかれたのだ。みんな素晴らしいお話です。ところで、どんな風でしたの」
一度振り返りました。庭から光が流れるように追ってきます。
「しおからトンボの羽が揺れる程度の風です。もしかするとトンボになっていたのかも」(実際、濡れ縁でわずかですが寝入っていました)
「素敵なことですね。ところで・・・」
家族ずれの団体に会話は途切れました。老婆が話をやめたのではなく、むしろ続きを話してほしそうにされた老婆と家族連れに気遣ったのです。
本堂を出ると肌を焦がす灼熱の光に晒されました。

濡れ縁
庭園への道

益田には雪舟の水墨画とともに雪舟がつくった庭園があります。
文明10年(1478)頃、益田兼堯の招きで益田を訪れた雪舟は、宗派の異なる二つの寺に趣向のことなる庭園をつくりました。それが益田氏の菩提寺である「萬福寺」と「医光寺」です。

両お寺ともJR益田駅から東へ約2.5kmのところに隣接してあります(徒歩約30分)。
駅前の観光協会でレンタサイクルの有料サービスを行っています。今回、電動自転車をお借りし雪舟の庭園に向かいました。

・島根県芸術文化センター「グラントワ」

JR益田駅の通りを左に曲がり幅の広い歩道を真っすぐ進みます。やがて右前方に赤い建物が現れます。美術館と劇場が融合した島根県芸術文化センター「グラントワ」です。
約28万枚の石州瓦で壁面や屋根を覆った風情は、団塊の世代にとって映画『大魔神』(1966年・昭和41年に大映「現・KADOKAWA」が製作・公開)にでた大魔神(15尺・約4.5メートル)が横になった様を思い出すことでしょう。

自転車を停め暫し外観を眺めました。怒りから城下町を破壊する大魔神の足元に駆け寄った美少女小笹(高田美和)。小笹は命と引き換えに怒りを鎮めてくれるよう涙を流して懇願します。魔神は穏やかな武神にもどり土塊(つちくれ)となって崩れ去り、風の中へと消えていくのです。
動かぬ大魔神に匠と民の意思を感じます。暫し待ったのですが、瓦が動きだすことはありません。当たり前ですね。

島根県芸術文化センター「グラントワ」は、2005年に開館した「島根県立石見美術館」と「島根県立いわみ芸術劇場」からなる複合施設です。グラントワとはフランス語で「大きな屋根」を意味します。

柿本人麻呂没後1300年の記念イベントの開催中で、少しだけ見学させて頂きました。

島根県芸術文化センター「グラントワ」外観

エントランスを入ると目に飛び込むのが流れる赤い水盤のある中庭です。中世ヨーロッパの広場をイメージしたものです。人が集うところに対話が生まれ、文化が形成される。ここが古(いにしえ)と現在が共存する益田の生成になればと思います。
右を見ると益田駅前への通りと一直線でつながっています。人びとの暮らしの延長に文化と芸術がある、この日も地元の人たちによるお茶のもてなしや和歌や踊りが披露されていました。

柿本人麻呂イベント

近くで見ると石州瓦は、一枚一枚その色味や風合いが異なります。かつては登り窯で焼いていたため、窯や土、職人や天候によって異なる瓦ができました。これが重ねるときに自然のグラデーションを成したのです。山陰本線から眺める石州瓦の屋根の連なりは石見地方の風情の一つです。
石州瓦の建物は、異なる多くの人々の創意と思いによる町づくりの象徴でしょう。

石州瓦の屋根

・益田川の土手

島根県芸術文化センター「グラントワ」を出ると少し進んで左折するコースをお薦めします。益田川の土手沿いに進みましょう。
益田川は美濃郡美都町と匹見町元組との境界に源を発し、益田市を流れて日本海へと注ぐ全長33キロの川です。河口沖には地震で海中に没した柿本人麻呂終焉の地・鴨山があったとされています。
暫し川風に吹かれ自転車を押しながら歩きます。何の変哲もない地方の川です。目的地を急ぐなら飛ばしてもいいでしょう。でも時間に余裕があれば「観光地」として開発される前の「生活者」の川をお楽しみください。ときに氾濫して市民を苦しめる益田川を。

川からの風景

・益田市立歴史文化交流館(れきしーな)

川を渡って萬福寺や医光寺に向かう橋の手前にあるのが「益田市立歴史文化交流館(れきしーな)」です。
この施設は、日本遺産に認定された「中世の益田」の紹介と益田市内の観光情報を案内する情報発信エリア、益田の歴史文化・生活等を展示する展示ルーム、そして人々の出会いの場としての交流活動ルームの三つのエリアで構成されています。

木造建築自体は、大正10年(1921)に美濃郡役所として建てられ、その後、益田警察署、益田総合事務所を経て昭和58年(1983)に益田市立歴史民俗資料館として開館、平成8年国の有形登録文化財に認定され、平成31年に休館。令和5年にリニューアルオープンしました。

益田市立歴史文化交流館(れきしーな)

見学が終わったら雪舟が創った庭園に向かいましょう。順番としては対岸にある「萬福寺」から訪ねます。両お寺とも民家と駐車場に隣接し、町のお寺といった雰囲気で親しみを感じます。

雪舟(1420-1502年)

雪舟は、現在の岡山県総社市に生まれた禅僧で画僧です。
有名な逸話が、幼いころの涙の絵についてです。修行中に絵を描き和尚さんに怒られ柱に縛られました。足を使って涙で描いたのがねずみの絵です(まるで東京ディズニーランドですね)。上手に描けた絵に和尚さんは驚き、絵を描くことを許しました。その後、中国に渡り水墨画を学び、帰国すると各地を旅して多くの作品を遺したのです。益田にも「益田兼堯像図」「山水図」「花鳥図屏風」が残っています。萬福寺と医光寺に山水庭を築き、益田の地で生涯を終えました。

萬福寺(まんぷくじ)庭園

庭園として有名な萬福寺です。本堂は平安時代に天台宗の『安福寺』として創建されました。南北朝時代の1374年(応安7年)に益田を治めた七尾城主・益田兼見により現在の場所に移築、益田氏の菩提寺となります。幕末の長州征伐の際には佐幕派の陣営なり総門が焼失しました。

本堂・書院の裏に雪舟によってつくられた庭があります1479年(文明11年)。平坦(背後は緩やかな斜面)な場に山をもうけた築山泉水式庭園です。
仏教の世界観である『須弥山世界』を表現した庭です。本堂から正面に立つ石が須弥山石、心字池の右手が枯滝石組、左手に注水口や三尊石があります。平たい岩が庭園を拝む礼拝石です。
本堂には鎌倉時代の作である国指定重要文化財の『絹本著色二河白道図』、県指定文化財の仏像・阿弥陀如来立像などが展示されています。

萬福寺外観

・私的な鑑賞ポイント

まず、庭園に向かって左端の濡れ縁に座り眺めることをお薦めします。雨風に耐え朽ちゆく濡れ縁のまっすぐ伸びる板場と庭園の穏やかな斜面の流れを眺めてから、一度目を閉じます。閉じた瞼の網膜の中で二つの流れが交わり、やがて境界線が消えた時、再び瞼を開けます。すると立ち枯れにも似た『石』が穏やかな生命をおび飛び込んでくるのです。
目を閉じては開き徐々に徐々にと濡れ縁を這うように右に詰めると、脳裏に残った停止した像と像が庭園とは異なる世界へと変化するのです。それは人間の観念による遊戯、まるで映画の手法モンタージュ理論による時と思いの混然一体です。

庭園と濡れ縁
医光寺庭園

医光寺は臨済宗東福寺派のお寺ですが、もとは天台宗崇観寺の塔頭です。貞治2年(1363年)第11代益田兼見によって創建され、文明年間(1469〜1486)第七代住職雪舟によって庭園が築かれました。第17代宗兼のとき、現在地に移転します。その後、崇観寺は 衰退し、17代益田宗兼によって医光寺が開基しました。

医光寺の雪舟庭園は、 背後の山の斜面を活かした池泉鑑賞半回遊式です。池の形は鶴の形を表わし、なかに亀島を浮かべ、「鶴亀」による吉兆を祈っています。山の斜面の立石は須弥山を表わし、まわりに枯滝石組が置かれています。
3月半ばは枝垂れ桜、5月はツツジ、秋は楓に赤く染まり、木々の花によって四季折々の色合いをなしています。国指定史跡及び名勝、国登録文化財、県指定有形文化財です。

医光寺全景

・私的な鑑賞ポイント

正面のやや左寄り座り、最初から全体を眺めるというより部分・部分を楽しみ、春なら桜色、夏なら深緑、秋ならば紅色を眺めた後に俯瞰すると、山の斜面の須弥山を表わした立石が春に見た立石とは異なる様を見せてくれます。変わらぬ世界観にあって移り変わる自然の摂理を楽しむことが出来ます。
時間の許す限り座して眺める位置を移動して、「鶴亀」と須弥山の立石の相関を人生の日々に描いてみるのも楽しい鑑賞です。

庭園
おしまい

駆け足での益田散策でした。「萬福寺」と「医光寺」では濡れ縁に座り安らぎを体感しました。私のような凡人は禅を組むとか、結跏趺坐の瞑想も苦手で、濡れ縁に心地好いと感じた姿勢で座り、ぼっーと過ごすだけです。どんな立派なお寺に行っても変わりません。本堂に寝転がるのも良いのですが、服に畳に染付いた線香の匂いが付着するのが難点です。直接かおる香や線香はいいのですが、染付いた香りは苦手です。なんやかんや言っても雑な煩悩があります。

濡れ縁とは素晴らしい空間です。家にあって家ではない。家と外界の融合した境界線。
旅する人に、あるいは修行僧に一服の休憩とともに番茶をだし、旅の話や世の流れを聞く。あるいは農作業の帰りに知り合いの家に寄り、土に汚れた作業着を払い、「ちょっこし」漬物で茶を啜って世間話。赤ん坊の、老人の日向ぼっこでもあり、豆や梅や栗の干場でもある。渋柿が、大根が吊るされる濡れ縁。

お寺の濡れ縁も、信心の心もなく、礼儀も作法にも無粋であっても、それでも御仏が見守り許してくれる空間。大好きです。濡れ縁のあり方に、そのお寺の度量というか、慈悲の心を知るのです。
とあるお寺の濡れ縁には座りづらい人用にと椅子が置かれていました。なんと有難いことでしょうか。幅のない濡れ縁で庭を眺める人の視界を邪魔しないようにと腰を屈めて急ぐ足どりは、誰が教えたというよりは濡れ縁が醸す「相愛」であり「関係」だと思います。事実、海外から来た方も自然と真似ています。

もちろん庭園の素晴らしさもあります。創り手の意思の消えた庭園ほど馴染むのです。「詫び」「寂び」とはいかないまでも、自己主張のない庭園を好むようです。
「野にあればこそ草花」と生け花を嫌った知人がいました。たしかに自然にあって草木でしょう。しかし、自然に近づけるというのではなく、客人への心配りとして、野にありし草木があるとしたならば、杜甫も李白も、芭蕉も宮本武蔵も許すことでしょう。庭とは観念の生みだす創の匠だと思います。そこに心があるのでなく、眺めた者の心に宿ると。

随分、偉そうなことを申し上げましたが、民家に隣接した両お寺の庭園から京都や鎌倉のお寺とは異なる「濡れ縁」での過ごし方を体験させて頂きました。京都や奈良、鎌倉のお寺とは異なる感じ方をするという意味で、濡れ縁に上下があるのではありません。
皆様も是非、お出かけください。そして全国のお寺の濡れ縁で「とき」と戯れてはいかがでしょうか。

濡れ縁のトンボ
■ 案内
・一般社団法人 益田市観光協会
〒698-0024 島根県益田市駅前町17-2(益田駅前ビルEAGA1階)
TEL:0856-22-7120
https://masudashi.com

・島根県芸術文化センター「グラントワ」
〒698-0022 島根県益田市有明町5-15
TEL:0856-31-1860(グラントワ代表)

・益田市立歴史文化交流館(れきしーな)
益田市立歴史文化交流館(益田市本町6番8号)
TEL:0856-23-2635

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