• ~旅と日々の出会い~
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5 旧大社駅百年・駅舎保存修理、蘇る歓喜(旧大社線)

神門通りを歩いて考えた、流れについて-

はじめに 駅といえば・・・

駅とはと訊かれて何を思うか。駅舎全体、それとも待合室、ホーム、食堂。あるいは線路から改札口へと続き、広場から駅前ローターリーまでの流れ。皆様の体験や観た映画のシーンに影響されるだろう。

映画『カサブランカ』、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの最初の別れ、バリ駅のホーム。JR東海のクリスマスエクスプレスのCM、東京駅新幹線ホーム。あるいは高倉健『駅』での、離婚した妻いしだあゆみとの別れや出会いと別れの倍賞千恵子との改札口とホームのシーン。昭和生まれにとっては、邦画では『愛染かつら』『浮草』、洋画なら『逢びき』『男と女』『ひまわり』と、『駅』での出会いと別れの物語があり、旅立ちと後戻りの明暗が過る。

昭和の時代、駅は出会いと別れと繋がりの要にあって、沢山の物語が心に残った。令和の今もある。たしかにあるはず。でも、人々の生活環境も、交通形態も大きく変化した。旅立ちの物語であった駅は、エンターテイメント性を帯びた生活サービスの提供や生活文化の情報地へと様変わりし、日常の世界へと仲間入りした。

かつての華やいでもどことなく孤立した待合室。誰を持つのか、なぜ待つのか、誰も答えてはくれないスタンドアローンの空間。乗り継ぎの間なのか、汽車を待つのか。あるいは帰り来る君を待つのか、迎えに来てはくれない貴方を待つのか。待合室は日常(ノンフィクション)と非日常(フィクション)が交じり合ったファジー(曖昧)な『ファクション』(筆者の造語)の世界だった。そうであるが故に『駅』は一枚の扉でもあった。未完のまま出て行くものと不完全のままに返って来るものを駅は許容し、混ぜこぜにして曖昧である「ファクション」な世界につくり上げた。

ファクション図
線路
未完というロマンを求めて 旧大社駅修復工事

小雨降る3月24日(2024年)の午前9時30分、修復中の「旧大社駅」前に着いた。かつては出雲市駅から大社線で繋がっていた駅に、タクシーで乗り付けたのだった。この日は屋根の吹き替え工事の1日だけの一般公開日、すでに10人程の人が並んでいる。

パンフレット(制作・出雲弥生の森博物館

・旧大社駅本屋の屋根の吹き替え

重要文化財『旧大社駅本屋』の修復工事が始まったのが令和3年2月1日。令和7年12月20日を完成予定としている。

「重要文化財の修復工事は期間の間、一般公開が義務付けられています」と出雲市市民文化部文化財課の吾郷誠さんは説明した。「義務というより、皆様の税金を使います。当たり前のことです。足元に気を付けて、自由に写真をお撮りください。それと別棟で瓦の展示を行っていますので是非、ご覧ください」。安全のためのと笑顔で渡されたヘルメットとキャップに心和む。

木造平屋建て約440㎡の旧大社駅は、1924年2月に完成し、1990年のJR大社線の廃線とともに終焉。1995年、当時の大社町(現出雲市)が購入して観光拠点に再活用。2004年に国の重要文化財に指定された。そして老朽化が進み今回の修復となった。

解体を終えた屋根を中心に公開された。瓦や壁は一度取り外され、傷んだ部材は交換され、使える部材はできるだけ残して再活用される。建物の骨組みだけでなく屋根の吹き替えの状態や取り外された瓦も見学できた。

30分強の見学。なぜこのために昨夜、飛行機で出雲入りし、朝一タクシーで来たのか。そして何をみたかったのか。日常と非日常の交じり合う扉という『駅』に、もしかして未完という何かが残されているのではと、現実性のまったくないことだが、ほんのかすかな不完全という出会いを期待したのだった。駅に寄せるロマンだったかもしれない。

吹き替え工事の現場

・未完という思想と風土

江戸時代の謎多き伝説的な職人・左甚五郎の『未完』の思想、「満つれば欠くる世の習い」。満月になった月がやがて欠けて三日月になるように、栄華を極めたものもやがて衰退する。世が『平家物語』の「祇園精舎・・・」であるならば、あえて完成にすることなく未完のままで受け渡そう。

京都・知恩院の御影堂には、瓦屋根の中央に4枚の瓦が置いたままの「葺き残しの瓦」がある。日光東照宮の陽明門は、12本の柱の中で1本だけ逆さまに取り付けた「魔除けの逆さ柱」がある。完成が崩壊の始まりならば、あえて未完のままの部分を残す。

そんな未完の跡や意思を、旧大社駅に期待したのだった。ここは神の国、葦原の中津国をアマテラスに強奪された国だから(国譲りの考え方もある)、未完という悪戯があっても良いのではと思いを馳せたのだった。

屋根の吹き替え
左右対称の駅舎に未完を求め

出雲弥生の物博物館発行『大社駅の100年』を参考に、旧大社駅と出雲大社への神門通りを振返ってみる。

大社線の開通とともに出雲大社の玄関口として初代大社駅ができたのが1912(明治45)年のこと。保存工事が行われている駅舎は、1924(大正13)年の二代目駅舎の「旧大社駅本屋」である。

瓦を葺く前

・木造平屋

二代目にあたる駅舎は、建設面積約440㎡の木造平屋建てで、桟瓦(さんがわら)葺き。屋根は、中央部が切妻屋根として一段高く、両翼部は端部を正面側に突出させた入母屋(いりもや)屋根。壁は漆喰。

正面から見ると中央部を支点に左右対称。中央は三等待合室、左側に一・二等待合室、右側に貴賓室があり。乗車料金というよりは家柄・階層で振るい分けたのだろう。こんなところにも大社駅という特殊性が感じられる。

・瓦

屋根に載っていた瓦(桟瓦)は1万2千枚以上。県特産の石州瓦。状態の悪い瓦5千枚ほどは新品に取り換えた。「鴟尾(しび)などを配し和風を印象付けるデザインが採用されています」(100年より)

今回の目的のもうひとつが、間近で「獅子口」と「留蓋瓦」を見ることだった。完成すれば屋根の上に置かれ遠目に輪郭しか見ることができない。もしかしてこの瓦に「未完」が、と思いもした。

「獅子口は鬼瓦の一種で、大棟や降棟の端を塞ぐ瓦」(100年より)。「留蓋瓦は、棟瓦の交差部分を覆い、継ぎ目をからの雨の侵入を防ぐ化粧瓦です。屋根の上で、立体物を置くことが出来る数少ない瓦であるため、変化に富んだ様々な趣向が凝らされています」

なぜ留蓋瓦の形容が亀なのだろうか。それも尻尾に蓑状の長い毛が付いた「蓑亀」。出雲神話を思い起こすが、浦島太郎が現れる。

留蓋瓦
獅子口

・乗客数

1932(昭和7)年の福神祭では大社線全体で約1万2千人の利用者があり、1955(昭和30)年頃からの全国的な旅行ブームで、1965(昭和41)年の大社駅の利用者は133万人にも達した。しかし自動車の普及とともに利用者も減少、1968年廃線が示された。一方、存続を求める運動もあり1972年、大社線全線で146万と戦後最大となったが、1990年、廃線となり、大社駅は日常と非日常の扉としての機能を終えた。

・非日常への扉、駅

鈍行の夜行列車を二度乗り継いで、東京から島根まで帰ったことがある。「周遊券」や「青春18キップ」を利用して全国を旅した。あの頃は地方の駅前にはテントが張られ野宿が出来た。ホームには洗面所が並び、時に汗で汚れた身体を拭いた。お礼に駅頭を掃除し、駅前の食堂で朝飯にありつくこともある。

リュックに寝袋と数組の服と下着と石鹸にノートと文庫本を入れ、最悪の時の現金化として一眼レフを首にかけ出掛ける旅は、日常から非日常への旅立ちで、いつか戻って来る日常までの冒険だった。

そんな旅にとっての駅は、通過点でも、降り立つところでも、次へと飛び立つところでもない、非日常への扉。

青春だけの特権でも、感動でもない。親に連れられた子供にも、新婚夫婦の旅にも、倦怠期を迎えた夫婦にも、日々を彷徨う老人にも、皆に平等に与えられた感激であり、日常と非日常が交じり合う「ファクション」の時空であった。記念に駅に置かれたスタンプを訳もなく押し、押さないまでも意識して改札口を通過した。

大社駅も同じだ。非日常への終着駅、日常への始発駅。

出雲大社信仰と神社参拝の生活文化のなかで、独創的な建築様式で観光客を魅了してきた大社駅。降り立つ旅人は霊験新たな気持になって非日常の扉を押して神門通りへと向かう。非日常の時空を過ごした旅人は駅という扉を押して暫くはファクションのなかを彷徨い、別れを懐かしむ。

駅は日常と非日常の結界にある大切な扉だった。

出雲大社駅前(1970年代)
もろ刃の剣となりし神門通り

出雲大社へとつづく真っすぐな通りを歩いてほしい。この通りに旧大社駅の意味があり、大社町の歴史が刻まれている。

神門通り
マップ(出雲観光協会公式ホームページより)

・駅舎建設とともに誕生した「神門通り」

人の世の常、何かが計画されると賛否両論が上がり、綱引きの誘致合戦が起きる。出雲大社に向かう参道は、これまで海側の市場地区と宍道湖側の馬場地区の二通りあった。駅ができる話がでると両者の誘致合戦が起き、大岡裁きで従来の二つの参詣道から離れた現在のところに設置、新たに現在の神門通りが整備された。

「開業初年度の大社駅乗降客は14万人でしたが、翌年度には33万9千人と急増」。6間(約11m)幅の食洗道路は理にかなった計画だった。

京都発山陰本線の実質的終着駅(後に東京や名古屋からの列車が運行)は、多くの人々の心に出雲の大神に詣でるという非日常への「扉」として刻まれた。そして出雲大社へと続く大量の参拝者は、神様への感謝と健康・御多幸の信心とともに大枚の金子を通りに落とすことになった。

大社駅を出て右折し暫し歩くと目にするのが23mの鉄筋コンクリートの「出雲大社宇迦(うが)橋大鳥居」。1915(大正4)年、小林徳一郎によって寄贈された。

出雲大社宇迦(うが)橋大鳥居

・車社会

これほどの参拝者や観光客、それも団体客。国鉄だけにひとり占めさせる手はないと誕生したのが観光バス。目的地から目的地まで運ぶ。お店にも横付けする。荷物は置いたまま。入場券も事前に買い、貴方が戻るまで待っている。奇麗なバスガイドの流暢な案内と歌付。幹事もお任せ。

そうなると大社町だけではなく近郊の観光地もあの手この手、遠方の方は松江観光も付けます、お泊りならば美肌温泉の玉造温泉で疲れを流しましょうと。

大局的には行政区を越えて(大社町・出雲市・玉造町・松江市)、皆が利を得ることは発展に大切なこと。ところが、近視眼的に見れば困る人も出てくる。

これまでは神門通りを闊歩していたお客さんに「荷物あずかります」「参拝の帰りに寄ってください」「お茶どうぞ、割引券も」と場所の特性を活かしたサービスを提供し、満遍なく商いが成立していたが、バスか点と点の移動にした。

特定の店と協定を結び大量のお客様を運び込む。もちろんバス会社にもメリットがあっただろう。それがバス利用費にも還元されるとお客さんも有難い。三者丸徳。大型観光バス用に駐車場も整備する店も現れて、お土産屋と食堂の併設。お宿までのお酒も用意しました、特産品の試食行います。

自治体は道を整備し観光領域か広がった。もちろん全国の観光地合戦も始まった。やがて国譲りの神様は、観光客も譲ったのだろうか、大社の町からも、玉造温泉の町からも人は遠のいて、寂れた。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きある。沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の理をあらわす・・・。

2012年の『古事記編纂千三百年』記念イベントの数年前、閑散とした大社町を見て驚いた。

出雲大社
駅にあらず、ファクションのスポットに

駅は線路とともに交通手段としての役割を終えた時から「駅」ではなくなる。建物のひとつとなり、それは出会いと別れという付加価値さえも喪失する。過去の「駅」としての名があっても、そこは人々にとって思い出の「箱」でしかない。「事(こと)」としての営為も「関係」としての創造もない。その箱も今回の修復工事のように朽ちていくだろう。たとえ重要文化財だとしても、そこは「駅」はなくて建物に過ぎない。

2025年復活した大社駅を見て人々は思うだろう、重要文化財の建物だと。イベントが開催され過去を振り返り、人々が集まっても、そこは駅ではなく貴重な箱でしかない。日常と非日常という扉でもない。日常という時空に存在するだけの貴重な建造物である。

神門通りも生活道路でしかなく、大社へと続く参道にはもどらない。なぜなら復元された大社駅は、「元」とか「旧」の駅舎でしかなく、ここから出雲大社まで歩く人はいないのだ。

・未完という置き土産

復元という技術があえて残した、いや、残さざるをえなかったものは、もしかすると「未完」という人間の英知かもしれない。

従来型の箱物造ではなく、コンセプトづくりから運営を新たに計画することが大切だ。そのきっかけが「駅」のもつノンフィクションとフィクションの混じりあつた「ファクション」であり、日常と非日常の扉をどうやって創りあげるか。あわせて神門通りを歩く人たちを生む仕掛け。

・歩く

今回、復元工事を見学した後、神門通りを歩いて出雲大社に参拝し、隣の古代出雲歴史博物館を見学した。

神門通りには静かな構えの家々とは真逆に、軽の車での食の販売や屋台での地元の野菜や海産物を販売していた。霧雨に濡れる私に差し出された番茶に、「ありがとうございます」と言葉が漏れた。「旅行かね」と掛けられた言葉に、「そのお餅くれますか」と手を出した。「まだ寒いからね」と同じ寒さを共有するおばあさんに、「美味し」と餅を頬張る。

駅の待合室がこうだった。グリーン車を使う金持ちも普通車の旅人も、老人も若者も同じ環境と状態にいた。礼を言いい出雲大社へと向かう私に、まるで改札口での見送りのように、老婆は身を乗り出して「きいつけて」と母のように声をかけた。隣りの親父が通行人に声をかけた、「帰りに寄るかね」。

神門通りがホームとなれば、人は歩くだろう。

駅舎はないが、ホームがある。汽車は走らないが、汽車という思い出は走る。そんな神門通りになれば、旧大社駅に向けて歩く人も増えるかもしれない。ここが日常の市場でなく、非日常の市場になれば、歩くだろう。いっそ、駅舎が市場や宿泊所となれば、この通りをぶらぶら歩きのホームになるかもしれない。

未完という置き土産。これをどう活用するか、それこそが修復という工事の残す大社町への「未完」からの未来に向けての「創造」と「価値」だ。

■ 問合せ先

出雲弥生の森博物館 
〒693‐0011 出雲市大津町2760番地
TEL.0853-25-1841
https://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1244161923233/index.html

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