• ~旅と日々の出会い~
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7 方言は香りとなって風にのる

-意味の伝達というより、心の交わり-

はじめに 方言の絵巻

現在はない京都駅・山陰本線ゼロ番ホーム。学生時代の夏休みは、ゼロ番ホーム22時発の普通夜行列車を使って島根に帰りました。一人の時も、友人とも、そして初めて彼女を連れて帰る時も、これを使いました。
京都から乗り込んだ若者はおしなべて関西弁か、急に身につけた関西弁もどきを使い、女の子は関西弁のような擬似京都弁で話します。もちろん生粋の京都弁や関西弁に大阪弁もいたでしょう。車両は若者の奇声と激論で奇妙な『京都』文化圏を形成していました。

まだ暗闇の残る日本海の駅につくと、海水浴に向かう彼らと入れ替わりに厚手の風呂敷で包んだ大きな荷物を三段に重ね背負い、風呂敷と買い物かごを両手に下げた老婆の一団が乗車します。米子などに向かう行商軍団です。車内は学生文化が一掃されて日本海の潮風とともに漁村の舟小屋に一変するのです。磯の薫りに混じる握り飯と干し物の薫りに腹の虫が泣くのでした。
「あんちゃんも、食べかね」
出雲弁とは異なるが懐かしい山陰地方の方言に包まれた握り飯と煮干しが差し出されます。なんと美味しい方言でしょうか。食べ終わると車内は再び寝入るのです。

連結器の衝撃に薄眼を開けると、忍び足のサラリーマンたちの咥え煙草の煙と匂いに覚醒します。広げられたスポーツ新聞からインクの香りが漂ってきます。ポケットからロングピースを取り出すと、「学生が生意気に」と一言吐き捨てて、「なに、勉強しちょうかね」と尋ねられます。世界情勢から日本の政治経済の話となって、車内は徐々にざわついてきます。ここは山陰地方の場末のアカデミックサロン。ワインの代わりに名刺が差し出され、「近くに来たら寄だわ」と米子で降り、作業服の男たちは安来で下車するのでした。

1970年代の山陰本線の夜行列車は京都弁や関西弁もどきで始まり、山陰地方の方言が車窓に映る景色とともに移る「方言の絵巻」でした。どこまでが京都文化圏で、どこからが山陰文化圏で、どことどこまでがどんな産業で、ここからがこの業界だと、目を閉じていても方言と匂いで分かります。

景色や雰囲気とともに流れていく方言に、人の優しさが香りを付けるのです。それが山陰本線の夜行列車の魅力であり、生きる方言との出会いでもあったのです。

木次線・布施
映画『砂の器』公開50年

・生活の場にあっての方言

松本清張原作『砂の器』が、監督・野村芳太郎、主演・丹波哲郎、加藤剛等で封切られ、今年で50年になりました。ラスト20分の「宿命」の演奏と四季の映像と思い出のオーバーラップは、今でも心に残り、リヤカーで運ぶ田畑の風景は奥出雲の世界であり、鉄道はまぎれもない廃線の噂の立つ木次線です。
島根県奥出雲の「亀嵩」と秋田県の「亀田」の誤謬など他愛もない切っ掛にすぎず、奥出雲で交わされる方言に人間模様や葛藤を感じました。桜花であり、中国山地の山脈であり、深く皺の刻まれた顔や手であり、澄み渡った風や空気が重ねられるからでしょう。なによりも方言は、奥出雲という生活の場にあったのです。

小学時代、極端な方言を遣わないようにと指導されました。「あだん(私)」「お前(きみ)」などがありましたが、一時期「方言カード」なるものがあり随分残酷なことをさせられたものです。
1960年代は「金の玉子」と称された中学卒業の集団就職時代でした。働きに出た兄さんや姉さんが方言をつかって笑われたという話が授業で話され、ニュースや映画でも取り上げられました。不憫さもあったのでしょうが、教育の目的は感情ではありません。

標準語の習得は高度成長期を背後に、仕事場の業務や公的生活の場において標準化が必要とされたのです。標準語は命令・指示の効率化であり、統一化の言葉でした。言語の効率と統一が大量生産を支えたのです。酷い言い方をすれば働くロボットに、同じように働くために統一した言語で命令するための標準化ともいえるでしょう。もちろん標準語の意義もあります。

『砂の器』につきましては、2023年12月にハーベスト出版より出版された、村田英治著「『砂の器』と木次線」を是非ご一読ください。映画『砂の器』に映し出される奥出雲の風景の向こうにある奥出雲の風土と生活が絵描かれています。web『島根国』でもあらためて紹介させて頂きます。

『砂の器』と木次線

・生活と言葉

映画『砂の器』の映像を通して「仁多弁」(ズーズー弁)の美しさに気づきました。なぜ、美しい言葉を笑ったのか、なぜ、受け止めて理解しようとしなかったのかと。単語でも、イントネーションでも、独特の言い回しでもない、伝えようとする大地に根を張った文化として捉えなかったかを。

同じ頃、出版の仕事で、青森県・温湯(ぬるゆ)温泉の湯治場(とうじば)の客舎に一週間ほど滞在しました。農閑期を利用して来た同世代の若夫婦と一緒に温泉と自炊で過ごしたのです。ところが理解できた言葉は「テレビ」と番組名ぐらいでした。一方若夫婦はテレビ文化の影響で、私の話すことは理解できます。そんな一方通行な理解でも三人は話し笑いあったのです。「妹を嫁に貰ってくれ」は標準語で話してくれました。

方言とは、言葉だけに依存するのではなく、表情や立ち振る舞い、そして伝えたい・理解したい思いによって成り立っています。なによも相手の文化や風習や習慣を分かろうとする意欲があるからです。

・美しい言葉

奥出雲の実家でのことです。遊びに来られたズーズ―弁で話す老婆を自宅近くまで送るのが常でした。道々、「えら~なーなはいよ」「はよー、嫁子さんをみせなは~だわ」の言葉は子守唄となって、真っ赤に染まる天狗松の山とともに心の襞に張り付いています。たぶんに老婆の人間性や性格にも寄るのでしょうが、奥出雲には奥出雲の方言が一番似合い、そして美しい。それは京の町に京都弁が似合うと同じことで、中国山地の四季折々の山河には「仁多弁(ズーズー弁)が一番染み入る言葉です。

方言には色も香りも感触も、もちろん触感もあります。それがあってこそ方言です。

山河(斐伊川)
方言で語る

声には音質・声音や高低、イントネーションなどがあります。昔話を話すような応援演説だと訴求力にかけます。逆に講義のように淡々と昔話をされても心躍ることはありません。そこには、目的と相手、何を伝えたいかがあります。

・島根の昔話

『島根国』の「文芸のあやとり」、酒井董美さんの『山陰地方の昔話』をご覧ください。

(サイト内にリンクが張ってあり、音声を聞くことも可能です)

酒井董美さんが長年、島根県の隅々を訪ね歩き、収録した島根地方に伝わる昔話を出雲地方・石見地方・隠岐島地方の三つに分けて紹介したコーナーです。話された昔話をそのままテキストにしたものと、当時の音声の両方を掲載しています。島根各地の昔話の方言を堪能できます。

テープレコーダーを手に収録した昔話には、明治生まれの語りがあります。今とはまったく異なる雰囲気が伝わってきます。明治の頃に聞いた昔話を、引き継ぐように話す口調や間は、聞く子どもに飽きさせない言い回しです。口頭伝承で伝わってきた言葉遣いからは、生きた地域の生活を想像させます。それが薫りであり、味であり、雰囲気なのです。
昔話が何を伝えようとしたか、語り部の方がその都度、何を強調し、何を大切にしようとしたか、その時代背景を垣間見ることもできます。そして、朽ちることなく、なぜ残ったかを推理させるのです。

語り部の皆様は、時代や政治を語ろうとしたのでも、歴史文化を残そうと語ったのでもなく、囲炉裏端で暖を取りつつ孫たちに寝入る前のひと時を、人生教訓を多少は交えつつ穏やかな時を提供したのです。といっても嫌われては困ります。時代の変化で受け狙いもしたことでしょう。そんな伝える意味での方言の昔話は、日常会話での方言とは違って心に染み入る旋律を感じさせます。

風土記の丘に隣接した「かんべの里・民話館」では、語り部の皆様によって昔話が実演されています。古の中心地である八雲立つ風土記の丘の自然と歴史に触れながら昔話の余韻をお楽しみください。

かんべの里

  

・地元を方言で表現

津和野の町を津和野の方言で、出雲大社周辺を出雲弁で、平田の木綿街道を平田弁で、地元を隠岐弁で、松江弁で、奥出雲弁で紹介されたらどうでしょう。

標準語に比べると直ぐには理解できないこともあります。煩わしいと思うこともあるでしょう。でも、旅を旅先での出会いや学びと考えると、地元の言語と習慣に接することで深層までは辿り着けるかもしれません。

島根に暮らす人と島根を旅する人が出会った時、方言で話しかけられたら、ちょっと想像してみましょう。

コミュニケーション(百姓塾)
方言が四季を彩どる

この頃、出雲弁や他県の方言を耳にすると私自身が変わったことに気づきます。あの山陰本線の夜行列車のような方言の音色をたのしむのではなく、方言で語られた世界を考えているのです。

故郷を離れた石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」という懐かしむ立場と違い、訪ね行く地方の人びとの営為や文化を方言から想像する出会いです。

・自然や民俗にしみいる方言

出雲地方の山間で、初対面の方に「ばんじまして」と挨拶された時、夕暮れや夕餉の白い煙をイメージし、このひとは今日良いことがあったのだと微笑み返すことがあります(良いことはお金が儲かった、子供が結婚したような話ではなく、今日も何事もなく終わりそうだと思う心です)。私にとって「ばんじまして」と挨拶されると、明日も会いたいねといった穏やかで願いのこもった言葉として受け止めているのです。子どもの頃の楽しかった思い出だけが残っているのでしょう。

京都の路地裏で、「おばんです」「ほな、さいなら」と挨拶されると格子戸を思い出し、今年の祇園祭には新しく浴衣をあつらえようかなと思っているのかと想像することがあります。そういえば祇園祭の宵山に四条通を闊歩すると「コンチキチン」と一緒に「ほんま、かんにんえ」とか「いけず」が渦巻いていて、絢爛豪華な錦絵を思い描いています。

方言に接するとちょっと考えて想像するのです。この人の言いたいことでなく、この人の背景を思うのです。これが凄く楽しい。 

京都

・方言から過去や生活を想像する

島根に帰っても子どもの頃に聞いた仁多弁も出雲弁も聞くことはなくなりました。教育とメディア、そして交通網の発展による交流によって方言はますます薄まるでしょう。もちろん名残としてイントネーションや語尾には出会います。

私が老いたのか、それとも「島根国」の取材でたびたび島根を訪ねるからでしょうか、方言は話せないのですが、方言を聞きたと思います。そんな欲求は方言の表層的な意味以外に、永い年月と共同体の洗練を受け、積み重ねられた深層的意味を考えさせるからです。

当サイト『島根国』にも寄稿して頂いている藤岡大拙さんの山陰ケーブルビジョン「マーブル」の『藤岡大拙・大西友子の出雲弁よもやま話』。

出雲弁を面白おかしく話される風貌に、教育者というより出雲大社や荒神谷を散策する柔和な哲学者に見えてきます。番組は私にとって出雲弁を学ぶというより、『出雲』はどんな国で、『出雲人』はどんな性格か、古代・中世・近世・近代・現代の国造りに方言はどんな影響を与えたかの想像のヒントとなるからです。

『島根国』の「SDGsと未来デザイン」のコーナーで「藤岡大拙にとっての『出雲学』」のインタビューを動画で掲載しています。このなかで出雲弁と古代史の関りが語られています。あわせてご覧ください。

1221年、鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇は現松江市の美保関を経て隠岐の島に流されました。北前舟で栄えた美保関は、物資の運搬と共に文化も人も交流する重要な港町でした。酒井董美さんの『昔話』の中にも、秋田県と昔話と類いする話が美保関に残っていると紹介されています。ここで話だけでなく言葉も混じりあったと思います。

かつては意思の伝達の言語の一つだった方言は、今日的には、歴史や文化、そして社会に関わった民衆たちの情念が重なり合った記録と置くことが出来ます。

美保関

・ことば、「言葉」から「事葉」へ

方言が忘れられ、使われなくなっていく過程で、方言を残そうとする活動や方言に意味を求める人たちによって、伝える記号から意味を持ち意味を成す記録になってきました。もちろん方言を意思の伝達として、コミュニケーションの手段としてお話しする方もいらっしゃいます。しかし、ひとたび方言を説明するとき、方言はその地域の記録としての意味をあらわにするのです。

造語となりますが、現在、方言は「言う」という記号ではなく、関係によって変化する「事」としての意味をなしていると考えます。方言は「ことば」として、「言葉」から「事葉」へと変化したのです。
その変化こそ言葉を「五感」で感じることのでる意義でもあるのです。

山道(津和野城)
方言を学ぶ

・「事葉」としての方言

観光地や施設には、国内のみならず海外の旅行者向けに多言語での案内看板や音声案内があります。モバイル対応など容易にデータを取り寄せることもできます。でも、ちょっと寂しく思うのは、音声案内が地元の方言ではなく標準語であることです。方言の説明ならば多少分かりづらくても、楽しいのではと思います。
実行となるといろいろな問題や手間暇がかかるとは思いますが、例えば、マーブルテレビの藤岡大拙先生が「松江城」や「松江歴史博物館」を案内されたら、従来とは違った島根県のアピールになるのではないでしょうか。もちろん出雲神話や小泉八雲の怪談話を方言で紹介するのも楽しい事かと想像します。

島根だから島根の言葉で島根を伝える。旅する人に限らず、地元の若い皆様も「聞く」だけでなく、言葉の意味するところを考えてみるでしょう。つかわなくなった感情の言葉(おべたが、せつい)、あるいは風俗・風習の表現や道具の名称。方言には地元の文化が口頭伝承された世界に溢れています。

道具

・方言を学ぶ 自然や生活とともに言葉がある

奈良・平安時代や鎌倉時代の古文書を学ぶ「古典」や中国の古典を学ぶ「漢文」が授業にあって、高校や大学入試の科目にもなっています。どうして「方言」科目はないのでしょうか。入学試験には向かないでしょうが、教材としてとりあげたらどうでしょう。

古の日本は華やいだ貴族文化だけでなく、また己を誇張する武士文学だけでもなく、庶民の生活があり、そこには文化がありました。大衆が話した方言だから、人々が暮らす町や村の自然や文化、そして伝統や民芸を方言から学ぶことができます。

行政区で方言を絞り込むことは大変ならば、課外時間に地元の老人を、また方言を話せる方に来ていただき、方言で地元の歴史を相互学習したらどうでしょうか。まず、そこからはじめ、いつか「方言で思考」する、高等技法を習得すれば、全国似たような町づくりでなく、独特な町づくりになるはずです。

・旅人は方言を求めて

地元の文化歴史、そして遺跡を方言で紹介される。四季の美しさを方言で語られる、日々の生活を方言の詩で朗読される。

旅する人は、見て、食べて、遊ぶだけでなく、方言を通してその地を五感で感じる。旅人は写真を撮りまくるのでなく、舌だけで感じるだけでなく、五感と想像力でその地に感動し、共感するのです。

地方の時代とか、地方の活性化とか、地方分権と標準語で語り合うことも大切です。その一方で、方言で出迎えられて、方言を聞いて想像する。そんな旅を、島根でしたいとは思いませんか。

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