-五感のルポ作家・小泉八雲の暮らした武家屋敷で考えた-
松江市・小泉八雲の旧居(塩見縄手)で、小泉八雲が好んでしたように、居間の床を背にして座り、三方の庭を交互に眺めながら「ラフカディオ・ハーン」について、「小泉八雲」について、そして「セツ」について瞑想(迷走)した。
私は小泉八雲の研究者でも、セツの評論家でもない。まして文学者でもない。ちょっと好奇心の強い旅人だ。そして今日は、線状降水帯の激しい雨を避けて飛び込んだ濡れ犬だ。そんな無頼者が、かつて読み、かつて聞いた「小泉八雲」と「セツ」の知識を微かな糧にして考えてみた。いや、自問した、小泉八雲という「男」を。
今年(2025年)の秋(9月29日)からNHKの朝ドラで、小泉セツをモデルにした『ばけばけ』が始まる。「朝ドラに決定した昨年の秋から見学者が急増しました」「この秋の休みの日は予約でいっぱいです」と小泉八雲旧居の受付の方が話してくれた。観光面で見れば有難いことだろう。
しかし、松江に寄るとコーヒーの出ないスタバの感覚で、縁側に座り読書してきた私には暫し遠慮しなければならない。それに、ここに座ると高校時代の下宿を思い出す。とはいえ神在月の頃は、多くの人が出雲大社・松江観光に訪れることだろう。
ひとつ懸念がある。松江を舞台にした展開がどれだけ続くかだ。というのもモデルとなるセツ(作品では松野トキ・高石あかり)のどこにスポットを当て、物語を構成するかで、放送期間の半年の舞台分配は決定される。意外と年内(12月)中に松江は終わり、熊本・神戸・東京へと舞台は移るのではと、要らぬ心配をしている次第だ。
朱子学の教えに慣らされて商いを侮蔑し働かない没落武士の父に兄弟、貧困のなかでのセツの生き様と真の親への思い、そしてヘルン(小泉八雲)との数奇な出会いから昔話の語部と結婚。ヘルンをどう見るかでも関係は変わる。
事前に『古事記』を学んだヘルンだが、武士社会(徳川封建体制)にどんなイメージを描き求めたのか。開国後の日本という国に何を求めに来たか。そして日本の家族制度をどうとらえたか。あるいは失意と仕事と孤独。しかし、ドラマとなれば、すべてはヘルンやセツの生き様ではなく、演出家やNHK編成局が何を表現したいかの意思(プロデュースとデザイン)によって変化する。所詮、フィクションという物語だ。ただ欲を申せば、時代性を考慮して、セツの運命と地域社会との関係を通してジェンダー論にも一石投じてほしいところだ。
さて、セツに関わる物語については以上として、小泉八雲について考えてみよう。
小泉八雲が松江に来たのは1891年6月(来日は1890年)のことで、約1年3ヵ月で「寒い」を理由に熊本に行ってしまう。そうです、寒さで風邪をひき随分難渋したようだ(富田旅館)。栄養分の高い食をとったのに(牛肉、バター、卵、ビール等)。
武家屋敷に住みたいと根岸家の屋敷(小泉八雲の旧居)に暮らしたのも約5カ月のこと。ご当地ポスタービジュアルもこの屋敷です(コラージュされつくしている)。こだわったのは武家屋敷だけでない。身の回りの世話をしてくれる女性も「武家の出の女」と要求した。太くてささくれたセツの指を見て、はじめは武士の娘でないと拒否したという。
そんな形(あるいは概念としての文化)にこだわる小泉八雲だが、『知られぬ日本の面影』の作品を読むと、その研ぎ澄まされた観察力と表現の感性に驚く。英語で報告したものを和訳したのだから、翻訳者の感性と表現力にも多分に左右されてはいるが、既存の概念や認識した言語(日本語)で表現された文章(あるいは表現)ではない。彼のほとばしる魂と悲嘆の響きである。
アジアの隅の小さな黄金の島日本をアメリカ人に驚きと感動をもって読んでもらうための表現かもしれないが、全体が古代日本の魂を近代の庶民に投影した叙事詩である。それは新聞記者(ルポライター)としての観察力と好奇心と仮説立証を、作家としての想像力で練り上げた小泉八雲独特の表現方法であった。
1970年代から80・90年代とルポルタージュが好評を博した時代がある。そのなかで、人の生き様と思想を必要に追い求めた沢木耕太郎がいる。沢木の作品はルポルタージュと小説の織りなしたルポルタージュ文学であると評価している。とにかく鋭い視線は、長い時間ともに行動する執念と人間観察によって構成されている。
かつて文化人類学者やファンのなかで議論されたテーマのひとつに、研究者といえども原住民の生活に立ち入ることで文化に影響することだ。共に生活することで原住民の人々の文化様式や考え方、さらには価値観に変化をもたらす弊害である。その真逆がテレビ・ドキュメントのやらせである。
明治24年、汽車も走らない松江の中学に英語教師として赴任したラフカディオ・ハーンを松江の庶民はどう見たのか。古い日本の面影に魅了され、妙な日本語を話し、つんつるてんの着物に下駄履きで闊歩するラフカディオ・ハーンをどんな感慨でうけいれたか。そして馴染んだ頃にセツの家族を連れて熊本へと旅立った。
気候(ひと冬の寒さ)だけだったのか。それとも家族を養う生活費、習慣と偏見、あるいは開花した中央への憧れ。そんな疑問とは別に、帰化までしてセツとの結婚し、セツの家族の面倒をみた。
ラフカディオ・ハーンと小泉八雲の人間味、生活哲学は謎に満ち、計り知れない。
小泉八雲が使っていた机の横に立ち夢想した。
「諸君が困難に出会い、どうしてよいかまったくわからないときは、いつでも机にむかってなにか書きつけるがよい」(小泉八雲)
もちろん作品だけでなく、日記も作品も英語のテキストもいろんなことを書いただろう。ときには苦悶を、苦悩を、選択を、そして意思・決意も書きなぐったことだろう。
縁側に寝そべった。天井を暫し見上げ、大正ガラス越しに庭を見た。雨は上がっていた。居間に移動し、再び床の間を背に考えた。庭も見えるが机も見える。
小泉八雲も新聞記者の観察力と生い立ちに始まる生き様のなかで織り成された感性で、日本の物語を創りあげたルポ作家であると確信する。その対象は、沢木耕太郎のような「人」ではなく、「古代」と「庶民」のつくる「生活」。
その完成版が『知られぬ日本の面影』だ。
小泉八雲が好んだところ、美保関、加賀の潜戸、神魂神社、嵩山、稲成神社、出雲大社、日御碕神社、そして寂しいところ、お墓等々を訪ねるのもよいだろう。しかし、もし小泉八雲の心に、なぜセツを必要としたかを想像しようとするならば、ここ「小泉八雲の旧居」に暫し座り、『知られぬ日本の面影』を黙読してみよう。観察したものを感性で文字化した小泉八雲が見えてくるまずだ。
多くの観光客や旅人は、八畳ほどの三部屋から庭を眺めて15分足らずで出る。もったいないことだ。たしかに畳と大正ガラスの窓、どこにもある庭、そして机。小泉八雲とセツか暮らしていないなら、三軒手前の武家屋敷を見学した方が武家の暮らしが理解できるというものだ。
でも、ここには小泉八雲とセツか会話し、昔話を話し聞き、喧嘩し、和解し、そして多くの作品を構想した息吹と温もりがある。あるいは極貧の生活を顧みるセツの喜びと不安、それは見ることはできない。ただ、小泉八雲が愛したセツが掃除した畳に座り、小泉八雲が愛した庭を眺め、そして、小説や映画で見た明治の時代を思いだすと、微かな香りとなって届くはずだ。それはキセル煙草の香りかもしれない。あるいは椿油かもしれない。それとも衣擦れの生活の匂いかもしれない。
小泉八雲は鋭い観察力を武器に、五感で作品を仕上げたルポ作家だ。是非、ここで暫し、貴方のなかにいる小泉八雲や小泉セツ、そして明治の日本と会話をしたらどうだろうか。
小泉八雲とセツが松江を去る1891年(明治24年)は、来日したロシア皇太子を津田三蔵が斬りつけた大津事件、教育勅語奉読、東京音大の卒業式で君が代が歌われた、日本という国が次の建国へと向かう節目の年であり、死者七千人の濃尾地震や日本鉄道上野と青森間が開通した年だ。
時代背景を意識して、あらためて畳に座り暫し小泉八雲とセツを、そして日本という国を、生活・文化を想像する。そんな意味と意義のあるところが、ここ小泉八雲とセツが暮らした旧居である。
【参考資料】
『島根国』サイト掲載
●小泉八雲の歩いた小径をたずねて
~小泉八雲にとっての松江、松江にとっての小泉八雲(YouTube)
●心に残る島根の風景
小泉八雲の歩いた径をたずねて① -『日本の面影』の出雲國のご案内-
小泉八雲の歩いた径をたずねて② -『日本の面影』の出雲國のご案内-(美保関)
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小泉八雲 日本の面影 池田 雅之▼
ヘルンとセツ 田渕 久美子▼
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