― 宍道湖・大橋川・中海を走り抜けた一途で一瞬の恋 ―
時代屋の女房・怪談。著者・村松友視、発行・角川書店、発行日・1986年10月20日、定価・980円(税別)、四六判236ページ
今回取り上げる著書は、随分古くなりますが1989年出版、村松友視著『時代屋の女房・怪談』(『時代屋の女房』の続編1983年)です。村松友視氏はこの作品を書くにあたって随分松江を訪れ、松江ファンになります(JR西日本『出会いの旅』「大根島の難破船」より)。
『島根国』でも既に『心に残る島根の風景』の『『中海』、ぐるりと半周、不思議いっぱいの旅―穏やかな水面に照る、神代からの人の思い―』で一部とりあげていますが、少し丁寧に紹介させて頂きます。
村松友視のエッセイに『大人の極意』(2016年7月30日発行、河出書房新社。潮出版より2010年に出版された書籍を大幅改定)があります。一文の「お辞儀の達人」で松江の人間模様を紹介しています。少し長くなりますが引用します。
「金沢、松江、京都などの“和風の街”をおとずれときの楽しみのひとつに、『見事なお辞儀を見物する』というのがある。街角で、老人と老人、老女と老女などが、丁寧すぎず重すぎず、雑すぎず軽すぎない、これぞ絶景という趣の、自然なお辞儀を交わし合っているシーンを目にすると、それこそ日本に生まれてよかったという心持にひたることができるのだ。そんなとき私は、お辞儀こそ日本独特の文化だ、という思いをかみしめさせられるのである」(18)
そんな村松友視氏の感慨を探しながら『時代屋の女房・怪談』を紹介します。ただ文学的な意味合いや人物の深みではなく、真弓と大根島で出会った男との二人旅を通した、村松友視の松江や美保関、日御碕等の紹介だと受け取ってください。
叶わぬことで、考えることさえ虚しきことですが、映画『時代屋の女房』(1983年)の続編として『時代屋の女房・怪談』が映画化されていたのなら、松江や美保関、そして中海に対する旅人の視点や興味も変わったことでしょう。
小説『時代屋の女房』が1982年のこと、小説『時代屋の女房・怪談』が1989年です。
安さん(渡瀬恒彦)の時代屋という骨董品屋に猫(アブサン)と一緒に住み着いた真弓(夏目雅子)は、来た時のようにふらっと旅に出ます。そこが松江でした。骨董品屋の女房(入籍はしていません)でありつつも、なにごとにも抑圧・規制されたくない開放的な感覚の真弓は、松江のオヤジ(Bar山小舎で出会ったマスターとお客)たちにも大切にされます。
米子空港から松江に向かう途中にある中海の大根島で出会った寡黙な男に、ビジネスホテルのラウンジで再会します。寂しくて蔭ある男は松田優作にお願いします。後半に判明するのですが、この男、暴力団の組員で35歳、真弓と会う三日前に大根島で敵対組織の弾丸を受けて亡くなっています。何も知らない真弓は、幽霊と奇妙な出会いと関りをもち、旅を続けます。
この作品、村松友視も映画化を意識していたのでしょうか、実名のお店や特定できる店が多々紹介されます。それにラストのシーンの映像が、素人の私にもクリアに描けます。村松友視はこの風景の流れと廃船の堤防に固執したのでしょう。大井町の交差点にはない、透明感のある儚くて切ない稜線、そして消えていく事実として存在する風景に。
暫し『時代屋の女房・怪談』を旅しましょう。たとえば貴女が銀色のパラソルをさした夏目雅子になって、あるいは貴男がジャズのリズムを刻む松田優作になって、松江の町を、美保関の路地裏を、日御碕の海岸を、そして宍道湖から大橋川を抜けて中海へと続くモーターボートの旅を。いっそ、貴男が夏目雅子になり、貴女が松田優作になってもいいのです。そのほうがもっと相手の気持や自分の思いを理解できるでしょう。
真弓がいなくなるのではと心配した古道具屋の安さん(渡瀬恒彦)と大井の街の仲間サンライズのマスター(津川雅彦)、今井さん(大坂志郎)も、松江・出雲大社に来ます
オヤジ三人の旅は省略しますので、是非書籍をご覧ください。珈琲館もでてきます。
米子空港に降り立った真弓はタクシーで松江に向かいます。大根島の海岸に横たわる廃船の群れ、「何艘もの廃船が、躯を斜めにして沈みかけたかたちで横たわっていた」「廃船は弧を描いて並べられ、堤防の役目をしているようだ」。村松友視氏は丁寧にトロ箱に書かれた「飯田」を明記します。
花を摘む真弓に男が声をかけます、「みやこ花って言うんですよ」。それが男との出会いでした。
廃船の堤防の岸辺に辿りつたゴミの山。真弓は「まるで、時代屋みたい」と思います。廃船に興味を示す真弓が男には、みやこの花にも映ったのでしょう。寂しさをまとった男は、真弓のデラシネのような心の隙間に忍び込んだのです。
「ビジネスホテル」に荷を置くと真弓は街(東本町)に出、Bar「山小舎」で五十過ぎのマスターとマスターの幼馴染客に出会います。実在する店です。
街に暮らすオヤジは旅する女に聞きます、ひとり旅?と。そして、どこに行くのではなく、なぜ旅をするのと意味を聞くのです。意味を聞けば真弓との関係のとりかたを模索し、アドバイスすることも可能です。
ビジネスホテルに戻っても眠れぬ真弓は六階のラウンジへと向かいます。もしかすると宍道湖に面した須衛都久神社横のニューアーバンホテルでしょうか。
「首筋のあたりに視線を感じ、躯をかるくひねってふりかえった」「男は、自分のとなりが空いている椅子を指で示した」
真弓の迷いをもつ開放的な心の襞に擦り寄った男の甘い誘いです。男が話すことはありません。やがてピアニストは「ゴッドファーザー愛のテーマ」を引き、歌い、トランペットで奏でると、二人のもとに来ました。
「ピアニストの中に、となりの男と通じる匂いを嗅いだ。そして、自分に会話をむけながら、ピアニストがとなりの男を強く意識している」
当然です。男は、松江生まれで、名古屋で抗争相手の親分を射殺。松江に逃亡する途中の大根島で殺されました。それも三日ほど前のことで、新聞にものっています。
愛のテーマ「やがて二人の朝が来る」、このことを男は意識したのでしようか、真弓に「俺と一緒に旅をしてくれないか」「俺の旅に、つきあってくれるかな」と誘い、真弓は迷うことなく頷いたのです。
松江の歓楽街の伊勢宮に昔ナイトクラブがあって、高校生のバンドがジャズを演奏していたと、とある高校のアウトローたちの都市伝説があります。体育館の裏の物置を不法占拠した彼らのジャズを聴きました。ピアノとコントラバスとドラムがあり、たまにギターやトランペットにサックスがもちこまれました。
二人が向かった最初の旅先は島根半島最東部の美保関。男の実家はこのあたりの水産業者でしょうか。白いかを求めてはいったのが「あさひ館」。実在する食事処で旅館です。日御碕灯台を見学した二人は再び港に戻り、隠岐に島流しになった後鳥羽上皇と後醍醐天皇の行在所となった佛谷寺に寄ります。八百屋お七の恋人三吉の墓を見て、真弓は、家出しても優しく迎える安さんを思い出します。そんな優しい貴方がずるいのよと。
松江市内に戻ると寺町の天満宮脇の「松本蕎麦」(平成11年閉店。現在の松本蕎麦屋は親族で、味も場所も違います)で割り子そばを食べます。店を出ると男は専念寺から今は見る影もない大劇横町へと向かいます。墓地と迷路のような小路が縫う一帯には、大蔵映画やピンク映画を上映する松江大劇やピンサロをはじめとした飲み屋の並ぶ繁華街で、パチンコ屋も六件ありました。高校生のカツアゲの多いところでした。
真弓は「自分たちを凝視するサングラス」の視線を意識します。男と対立するやくざです。男は既に気づき、寺町の大劇横町でまこうとしたのです。
日御碕に向かった二人は、日御碕灯台、日御碕神社、海猫が生息する島を訪ねます。男には子どもの頃の父親との思い出がありました。
「男の手が真弓の髪に触れた」「男の手が真弓の髪を優しく撫でていた」「男をまっすぐに見た」「唇に男の唇が押しつけられると、真弓は少し抗った」「自ら男の唇を求めていた」
まるで日活の青春映画のようなキスシーンです。幽霊のキスがソフトなのか、殺し屋だから冷淡なのか、それともこの世に未練はなかったのでしょうか。
次の日、真弓はひとりで松江城の北側の塩見縄手に出かけます。小泉八雲記念館から桐岳寺を訪ねたところで山小舎のお客(力道山)に会い、松平不昧公の茶室・管田庵に誘われます。
このとき真弓は現実とも幻想とも、出雲の神の悪戯とも、松江の怪談に惑わされているとも、摩訶不思議な精神状態にいることに感性の深いところで感じます。どこまでが現実で、どこからが時を彷徨う真弓の夢の世界か判別できなくなっていました。もしかすると現実と幻覚が交じり合う精神の世界にいたかもしれません。
真弓はクラクションによって現実に呼び戻されます。それが幻覚であっても、真弓にとって男のいる世界が現実でした。
二人は八重垣神社に向かいます。鏡の池で「気持が宙に浮いている」真弓を「気持が宙を迷っている」男が強引にキスをします。真弓は不審な視線に気づき、男にたずねるのです、「追われている理由」を。男は対立組織の殺し屋に追われ、真弓は真弓を求める安さんに追われています。追われている二人の終着は違います。けれど寂しさをまとう二人の旅は同じだったのです。「俺と一緒に旅してくれ」
二人は昨夜出会ったラウンジに出かけます。
音楽もまったくのド素人です。でもこの個所を読むたびに、青春時代に聴かされたニニ・ロッソ『夜空のトランペット』を思い出すのです。今も聴きながら綴っています。
「ピアニストは、そのとき初めて男に目を向けた。そして、ピアニストと男は微笑み合ったようだった。ピアニストは、やがて静かに曲を弾きはじめた。それは、真弓がこれまでに聴いたことのない旋律だった。静かで甘くそして寂しげなバラードが、ラウンジの客たちの耳をとらえた。ピアノによって奏でられるバラードに、トランペットの音色がかさなった。ピアノが少し先をゆき、トランペットがその旋律を追う・・・トランペットを吹く男とピアニストが。一瞬、幼い少年のように見えて、真弓は目をしばたたいた・・・」
宍道湖の北側にクローバーの咲く末次公園があります。
お湯かけ地蔵のところで男が操縦するモーターボートに乗る、真夜中。
「男は、まぢかにある真弓の唇に冷たい唇をかさねた。真弓はそのままにしていると・・・」、男はこういう「あんた、やさしすぎるよ・・・」月並みなセリフです。松田優作が呟いても館内に照れ笑いが連鎖することでしょう。簡単だが相手の心にとどくには海より深い思いやりと空より高い純粋さを必要とする言葉でしょう。
モーターボートは出雲を経て斐伊川の河口まで進み、来待まで戻って停まります。
「出雲の夜空を宍道湖から見上げる・・、これをもう一回やってみたかったんだ」。真弓は男の耳の後ろの血痕を見つけ、仰向けに寝かせ、真弓から唇を重ねます。今の私に必要な男、そして男は私を必要としています。
夏目雅子のどんぐり眼と淡い二重、カネボウのCMの小麦色の肌が走り抜けていきます。
宍道湖を横断し大橋川抜けてモーターボートは、大根島の八束町入江の廃船の堤防で碇泊します。男の腰に流れる大量の血。真弓はみやこの花を摘み男に渡すと涙がこぼれたのです。「あんた、俺のために泣いているのか・・・」。陳腐で使い古された言葉ですが、なぜか松江のお辞儀と同じように、しみじみと伝わります。男から離れられないかもしれない、不安ではなく、喜びでした。
医者を連れて戻ってきましたが、そこに致命傷の弾痕をもつ男はいないのです。
中海に朝の景色が映っています。男のいたところに残るみやこの草。その草さえも真弓の手を離れ廃船のもとへと飛んでいきました。「ふたたびおそろしい寂しさにおそわれた」。男の関係や出来事がおぼろげで不確かなものへとなっていく。真弓にはモーターボートの操縦など出来ないことに気がつきました。
何処に行ったの、寂しい貴方。私はいったいどこにいるのよ。
安さんたちオヤジ三人の旅と会話を追うと、「怪談」がなぜ映画化されなかったか、なんとなく分かります。
真弓に帰るところができたのです。真弓を求めて追いかける男がいて、真弓も時代屋の女房という位置を意識したのです。帰るところ、居場所を求める寂しさもなく、旅にさ迷う不安も消失したのです。たとえ旅だったとしても日常が真弓を待ち、旅は所詮、非日常の擬体験程度のことで、旅館の布団で目が醒めて終わるのです。
デラシネの流民・真弓を演じる夏目雅子だから次があったのです。飛び出しても探しに来てくれる男ができ、存在できる場所を得た真弓は家庭的な小市民になったのです。ファンは幸せを手に入れた真弓に「おめでとう」というだけで、映画にしてくれとは思わないのでしょう。大井町の古道具屋も終わっちゃいました。
ここまでけなして思うのです。初めに話した松江の「お辞儀」。
村松友視氏は、松江を愛したのでしょう。そして、何度も訪れる過程で軍隊やビジネスマンのような直立不動のお辞儀ではなく、ドショウすくいの踊りにも似た、まず腰を落として猫背となり、頭を垂れて膝を折ってひょこひょこ歩いているようなお辞儀が気に入ったのです。崩れそうで決して崩してはいけない田んぼのあぜ道を、身体全身をクッションにして大切に歩く、それは自然と関わる生活者の姿です。出雲弁が穏やかなのも、生活者だからです。
出雲には、怪談話も八百万の神様もいます。驚く話も名勝旧跡もあります。でも私が誇りたいのはアスファルトの道を、ビルのオフィスを、まるで田んぼのあぜ道か、苗の植わった田んぼを歩くように、自然との呼吸や間を大切にする歩き方と生き様です。そんな人が出会いお辞儀を交わすのです。穏やかに。
幽霊もきっとそんなお辞儀をモーターボートで医者を探しにゆく真弓にしたでしょう。「もっと旅を続けたかった」と、囁いてから。
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