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九回 古(いにしえ)の頃より鎌倉を守る神社群

自然災害を克服して

「いい国つくろう鎌倉幕府 1192年」。(現在では1185年が一般的)

穏やかな街並みの鎌倉。この街もかつて大きな地震に見舞われてきました。正応6年4月12日(1293年5月19日、鎌倉時代)、鎌倉を震源地にM7以上の大きな地震が発生し、大津波もありました。建長寺など仏閣が倒壊し、23千人もの死者も発生したと記録されていいます。

1241年、1257年、1293年、1433年にもM7クラスの地震が起き、1703年の元禄地震、1923年の関東地震にもあっています。

地震後の食糧難からの飢餓や疫病の蔓延で二重三重の被害が発生しました。時の政権は、己の延命と共に多くの民の復興に努めたことでしょう。その一つが祈祷や神社仏閣の建立でした。今回は鎌倉にある災害の厄払いをした素戔嗚尊を祀る神社を紹介します。

鎌倉にある四つの八雲神社と八坂大神

当コーナーにて『六回 白拍子の悲しき舞の鎌倉 八雲神社」で、鎌倉市大町にある八雲神社を紹介しました。その大町の八雲神社以外にも三社、計四社の八雲神社あります。そこであらためて鎌倉にある四つの八雲神社を紹介します。

●一番有名なのが、前回紹介した大町の八雲神社(鎌倉市大町1-11-22)。平安時代の建立だと伝えられています。

●北鎌倉の駅の近くにある山ノ内の八雲神社(鎌倉市山ノ内585)。室町時代の建立。

●鎌倉駅から西の方向にある常盤の八雲神社(鎌倉市常盤534)。鎌倉時代の建立。

●鶴岡八幡宮の近くにある西御門の八雲神社(鎌倉市西御門1-13-1)。江戸時代の建立。

大町の八雲神社

前回紹介しましたが、八雲神社は牛頭天王(ごずてんのう)(すさのおうのみことと同一)、須佐之男命(すさのおのみこと)、その妻である奇稲田姫(くしなだひめ)などを祭神とする祇園信仰の神社です。京都の八坂神社が有名です。

この四つの八雲神社を線で結んでみてください。

山ノ内と大町、常盤と西御門を線で結び、その2本の線が交差する地点にパワースポットの未知なる力があるかもしれませんね。神秘主義とかスピリチュアルに関係なく、物語的な想像が膨らみます。

それぞれ建立された時代も異なり、一つでは守れなかったとか、四つの方位に建てることで魔を封じる力となったとか、風水や奇門遁甲とか、あるいは陰陽五行、陰陽道(おんみょうどう)など推理はつきません。これも鎌倉散策の楽しみ方です。

二つの線が交わる地点の近くに『八坂大神』(やさかおおかみ)があります。祀られている神様が、素戔雄尊(すさのおのみこと)、桓武天皇(かんむてんのう)、葛原親王(くずはらしんのう)、高望王(たかもちおう)です。やはり素戔嗚尊が祀られていましたね。なにか意味を感じませんか。

素戔嗚尊の本地仏である牛頭天王(除疫神)が祀られていることから「相馬天王」ともいわれていました。明治の神仏分離で八坂大神に改称されました(1869年)。銭洗弁財天宇賀福神社は、1970年(昭和45年)まで八坂大神の末社でした。

素戔嗚尊と鎌倉の疫病との意味が増してきましたね。いつか『封印された魔界幕府、鬼とスサノヲの戦い』でも書きたいところです。世界を戦慄せしめるウイルス菌は魔界幕府の魔の仮の姿。それに立ち向かう義経軍団(スサノヲの仮の姿)。その戦いが夜な夜な鎌倉の町で繰り広げられる。

鎌倉の町はいろんなことを想像できる街です。

北鎌倉駅近くの八雲神社

北鎌倉の駅の近くにあるのが山ノ内の八雲神社です。鎌倉に向かって後ろの改札口を出、戻る形で10メートル進み石段を上った10分ほどの高台にあります。

青葉の生い茂る季節は少し隠れてしまいますが、北鎌倉の駅周辺の町並みが見渡せます。

ここに不思議な石碑があります。平場の端にぽつねんと置かれた長方形の石。これは「安部清明」の除災石です。かつては鎌倉街道の十王堂橋付近にありましたが、戦後ここに移されそうです。

お気づきですか。陰陽師の「あべのせいめい」を思い浮かべますが、京都で魔界と戦う「あべのせいめい」は「安倍晴明」と書きます。ということは安倍晴明を語る別人か只の旅祈祷師か。

ところが北鎌倉を鎌倉方面に歩くと踏切の傍らに「安部清明」の石碑があり、「陰陽師 安倍晴明大神の石碑」の札があります。ということは、都での「安倍晴明」を鎌倉では「安部清明」と呼んだのでしょうか。『吾妻鏡』に、源頼朝が山ノ内に仮住まいしたとき、家に安倍晴明の護符が貼ってあったという一文があります。ということは陰陽師の安倍晴明と考えた方が面白いですね。あまり深読みはせずに、歴史の謎を楽しみましょう。

病撲滅のための四角四境

鎌倉時代には、疫病撲滅のため家の四隅や領土の四隅の境で行う陰陽(おんよう)道の「四角四境祭」という祈願祭が行われていました。

『吾妻鏡』によると1224年北条泰時の時代、鎌倉に疫病が蔓延し、「六浦、小坪、稲村、山内」の四境(鎌倉の境界)で四角四境祭を行いました。その一つ山内が、八雲神社の山ノ内の斎場跡だと伝えられています。

その意味では山ノ内の八雲神社は重要な意味と役割を担っていたのです。ここに安倍晴明の石碑があるのも頷けることです。

素戔嗚尊は鎌倉の町や民を疫病や災害から守ってきたのです。

円覚寺
円覚寺
腰越の小動神社と江の島の八坂神社にも素戔嗚尊が

藤沢市に隣接した腰越(鎌倉市)の小動神社の天王祭と、江の島(藤沢市)の八坂神社の天王祭は同時に開催されます。

それは、小動神社の御神体だった須佐之男命(スサノヲノミコト)の木像が津波で流され、江の島に流れつき八坂神社の祭神として祀られたという逸話にもとづいています。開催期間は7月。

ここにも素戔嗚尊と「津波」という災害が紐づかれています。

この天王祭の佳境は「海上渡御」です。小動神社と八坂神社からでた神輿が海上で担がれた後、龍口寺門前で出会い、連れだって小動神社まで行きます。
先ほどの話をもう少し詳しくすると、腰越の小動神社に祀られていた祭神二体のうち、男神が海に流され、それを江の島の漁師が拾い八坂神社に祀りました。八坂神社の御神体を小動神社の女神に会せるため神輿が海を渡るのです。まるで天の川の織姫と彦星の七夕ですね。

この男神が素戔嗚尊で、女神が妻の奇稲田姫だと思います。年に一度、海を渡って会う八岐大蛇退治の神様、スサノヲノミコトとクシナダヒメの話でした。

鎌倉を災害や疫病から守る素戔嗚尊の話は沢山あります。

お酒を飲むなら

さて、素戔嗚尊の物語を探った後は、美味しい飲み屋さんで思い出を整理しましょう。二人連れならば酒を挟んで話しましょう。

鎌倉の小町通りから少し入ったところにある「企久太」です。市場から求めた新鮮な刺身とともに、祖母の代からつくる百年の糠床で漬けた糠漬けは、日本酒には欠かせないつまみです。お薦めの日本酒も尋ねください。

・四つの八雲神社 スサノヲノミコトとクシナダヒメ等
・八坂大神
 最寄り駅 JR鎌倉駅

・小動神社
・八坂神社
 最寄り駅 小田急 江の島

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