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津和野城、築城700年

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― 城主、坂崎直盛の千姫悲恋、亀井政矩の父亀井茲矩「鳥取城兵糧攻め」 ―

2024年、津和野城は築城700年を迎え、いろいろなイベントや催し物が企画されています。築城700年を記念して藩主にまつわる『運命』『宿命』の逸話を紹介します。

津和野城は、鎌倉時代末期に赴任した吉見頼行と頼直によって、1324年に築城されました。関ヶ原の戦い(1600年)後、坂崎直盛が赴任しましたが千姫事件でお家断絶、亀井政矩を初代とした亀井家の居城となり幕末まで続きます。
霊亀山上にある典型的な戦国時代の山城で、山麓からの比高は200メートル。ここからの石州瓦の町並みの景色は格別です。


津和野城、築城700年

― 城主、坂崎直盛の千姫悲恋、亀井政矩の父亀井茲矩「鳥取城兵糧攻め」

津和野城からの津和野

鯉の町・津和野

「萩津和野パッケージ旅行」とか「萩石見空港」の言葉に、ひとつの県のように思われる方もいらっしゃいます。旅行者にとって、津和野が島根県か山口県か、どちらの県に属するのかしないのか、そんなに重要ではありません。津和野のひとにとっても旅行者が京都の人か東京人かどうでもいいように。でも、津和野に暮らす人と津和野を旅する人が出会い、話すとき、少しでも相手を理解して親しくなろうとするなら、相手を多少なりとも知りたいものです。

「山陰の小京都」とも「鯉の町」とも呼ばれ、文豪であり軍医の森鴎外や哲学者であり政治家でもある西周の出身地である津和野を、津和野城・築城700年の契機にもっと関心を寄せ、訪ねて頂ければ幸いです。当サイト掲載の記事も合わせてご覧ください。

自然と観光『心に残る島根の風景』「静寂に秘められし情念の町・津和野」目次

  • 一話 文化 創を生みつづける風土(夜が明けたら)
  • 二話 自然 町と歴史を眺める山並み(出会いは突然)
  • 三話 哲学 営為に織りなされし佇まい(問い)
  • 四話 共生 異質を受け入れ共に(出会い)

1324年はどんな時代?

築城された1324年はどんな時代でしょうか。

2022年、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、小栗旬、大泉洋、菅田将暉、小池栄子、新垣結衣等、錚々たる顔ぶれの作品でした。大泉洋が演じた源頼朝が亡くなったのが1198年、小栗旬が演じた北条義時が亡くなったのが1224年、小池栄子が演じた尼将軍・北条政子が亡くなったのが『吾妻鏡』によると1225年。『鎌倉殿と13人』のメインキャストが演じた北条家の面々が亡くなって百年後にあたります。

新田義貞が鎌倉に攻め込み鎌倉幕府が滅亡したのが1333年5月のことです。ということは鎌倉幕府が滅びる少し前ということになります。北九州に元が攻めた元寇が1274年と1281年、英仏間の百年戦争が1339~1453年のことでした。

1324年の象徴的な出来事と言えば、『正中の変(しょうちゅうのへん)』。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件です。敗れた後醍醐天皇は佐渡国へ遠流となります。
鎌倉時代後期、京は大覚寺派(後の南朝)と持明院派(後の北朝)に分裂し、大覚寺派の天皇が後醍醐天皇です。関心のある方は軍記物語『太平記』(1370年頃完成)をご覧ください。

鎌倉・由比ガ浜

歴代の領主

さて津和野城を楽しく理解し、散策して頂くために、歴代の領主三家のうち二つの藩主、坂崎直盛と亀井政矩の父・亀井茲矩についての逸話を物語風に紹介します。きわめて主観的ですので『正史』をお求めの方はご自分でお調べになるか、津和野町の観光協会をお訪ねください。「日本遺産センター」や「郷土史館」も資料が充実しています。

郷土史館

・坂崎直盛 (大阪城の火中に飛び込み、千姫恋しや)

坂崎直盛といえば、やはり何と言っても信ぴょう性と不可解性で解釈も多岐にわたる「千姫救出・悲恋」事件でしょう。

関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康側についた坂崎直盛は、功績で3万石を与えられ津和野藩を立藩します。1615年の大坂夏の陣、落城する大阪城から千姫を救出したものには千姫(※)を与えるという家康の命に見事に救出、無事に届けたのでした。1万石を加増されて4万石となりましたが、千姫を与えるという約束は反故にされ、千姫は本田忠刻の元に嫁ぐことになりました。怒った坂崎は千姫の御輿入れの籠を襲い返り討ちにあったとも、諫められて腹を切ったとも諸説がありますが、この事件によって16年の短命で終わりました。これが千姫事件です。

一説には醜い顔を千姫が嫌った話がありますが、それは今の世の考えで、政略結婚の時代、家康にとって与えるほど価値のある藩ではなかったのでしょう。それに豊臣側についた毛利に隣接する津和野藩、いつ裏切るか、何が起きるか分かりません。信用できない長州藩の隣には嫁がせたくなかったでしょう。

※ 千姫 徳川家康の孫娘。父は秀忠、母はお市の方の娘・お江。徳川家、織田家、浅井家の血を受け継ぐ女性で、6〜7歳の時に豊臣秀頼に嫁ぎます。

 ・亀井政矩 (毛利・長州対峙の最前線に生きる)

亀井政矩の父にあたる因幡鹿野藩初代藩主・亀井茲矩(これのり)について触れます。というのは、ここから亀井家の生存をかけた権謀術数の生き方が始まるからです。

毛利尼子の合戦で尼子側についた亀井茲矩は、尼子が滅ぼされても運よく羽柴秀吉(豊臣秀吉)に拾われ毛利対峙の前線の城を任されました(捨て駒かもしれません)。天正4年(1576)、織田信長は、足利義昭が毛利領国に下向すると羽柴秀吉に中国方面攻略を命じました。天正8年(1580)、毛利側の鳥取城を攻め、城主山名豊国は降伏しますが、秀吉が帰陣すると重臣らは山名豊国を追放、再び毛利側の吉川経家を鳥取城主に迎い入れ反旗を翻します。

毛利側が攻め立てる中、秀吉側は再び鳥取城を包囲、鳥取城側は援軍を待ちつつ立てこもりました。硬直状態の続くなか秀吉側は商人をつかい、北陸は飢餓でコメ不足、商人が貯蔵の米を高く買うと嘘の情報を流し、実際に商人が高値で米を求めに来ました。まず売ったのが秀吉側の亀井茲矩藩主の鹿野城(鳥取市鹿野町)などでした。これも包囲網戦略のプロパガンダのひとつ、亀井は備蓄の米など売ってはいません。しかし、噂を聞いた鳥取城の家臣たちは目先の利益に売ったのです。簡単に信じるほど秀吉が芝居上手でプロパガンダに長けていたのか、それとも商人の口車に切羽詰まった演技力があったのか、はたまた目の前の黄金色の金に惑わされたのか、どちらにしても籠城に必須の米を売りさばいたのです。何と迂闊な。

秀吉側の包囲網を抜けて入城した吉川経家でしたが、圧倒的優位な秀吉の軍勢にくわえ城内の食料不足。戦い方を知らぬ鳥取藩士の無知に嘆きつつも毛利の正規軍が来るまでの持久戦・籠城を決めたのです。この時、吉川自身、秀吉側も米を売ったと思い込んでいたようです。

秀吉は包囲網を強化して補給路をすべて遮断しました。さらに因幡国一帯は前年の秀吉軍による略奪や苅田で田地が荒廃し米不足、地元の農民さえ手に入らない状態です。鳥取城内の備蓄も底をつき、そこに秀吉の軍に追いやられ避難してきた民衆も入り四千人程度が立て籠もることになりました。城の外からは羽柴側の米を炊く匂いがし、「うめい、うめい」の歓声が上がります。10月下旬、兵糧が底を尽き痩せ衰えて戦う力さえなくなりました(悲惨な話が伝えられています)。吉川経家は籠城衆の命を助けること条件に自刃し、城を明け渡たしました。

秀吉側の戦略は軍事力だけでなく、プロパガンダ、マーケット戦略、商業ルートの支配と農作物地の破壊よって「生き」糧すべてを奪ったのです。さらには自軍の兵力にはまったく被害がありません。

籠城攻めが悲惨で徹底を極めたのは、飢餓状態で救出された人々が出された粥を急に食べたことで多数亡くなったことです。リフィーディング症候群。これが世に言う凄惨な『鳥取城兵糧攻め』です。

亀井茲矩はこの戦いの功績で城を与えられるのですが、それは毛利との最前線に位置する城でした。出雲(今の玉造温泉)に生まれたが故に出雲から離れなられなかったのか、その武勇故に常に矢面に立たされたのか、主君の天下統一の野望に位置付けることしかありません。最前線を担うものは決して裏切らなくて、忠義を尽くすことで這い上がろうとするもの。

豊臣秀吉に重宝された亀井茲矩ですが、関ヶ原の戦いでは徳川家康側につき、その功績で子どもの亀井政矩は津和野藩主になります。ここもまた徳川がもっとも注意する長州藩の隣でした。

亀井家は主君が尼子・豊臣・徳川に代わっても、常に敵対する毛利・長州藩との最前線の守備に追いやられ、捨て駒的な使命は変わることなく続いたのです。ここに津和野の独自な生き様の風土の根源を見ることが出来ます。

※ 亀井茲矩の妻は尼子勝久の家臣・山中鹿之助の養女です。このあたりは石見銀山の歴史と絡めて俯瞰するといろいろなものが見えてきます。

養老館

幕末の津和野

さて、幕末の弱小津和野藩は新体制を見据えた存亡をかけた時代であり、維新後は新たな神道を打ち立て、キリシタンとの宗教論議へと舵を大きく取り替えます。それがすべて毛利・長州対峙の最前線の捨て駒であり、討幕佐幕の狭間の中で耐え忍び、活路を模索してきた津和野藩の運命でしょうか。

書籍・津和野百景図

ライトアップの津和野城

夕食を終え夜の津和野の町を散歩しましょう。通りの店は灯を消し、開いている店もありません。走る車の音も、乱れた足音も人声さえ暗闇に吸い込まれたかのように消え、静寂な闇が続くだけです。なんと神秘的でしょうか。

養老館の橋のたもとで見上げると視界にオレンジ色の灯が映ります。山の上の津和野城をかたどったライトアップです。おとぎの国へと誘う幻想的な灯は、あたかも歴史という名の送り火のように照らし、町を季節の闇空に吸い込むのです。

宿に向かって歩きます。教会が鮮やかにライトアップされています。ここだけがクリスマスでもあるように。でも人通りはありません。堀の鯉すら足音に気づこうともしません。寝酒にと思った造り酒屋も堅く板戸を立てています。

津和野は物静かな町です。そしてひとり歩く足音を消すかのように後から闇がついてきます。

津和野城、700年

時代に翻弄された津和野であり、強く生きようとした津和野でもあります。津和野の旅をお楽しみください。

ライトアップの津和野城

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