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第2回 木次線は教えてくれた、「夢」は繋がる

- VIVANT堺雅人は木次線に乗って故郷・奥出雲へ -

『VIVANT』続編

2026年7月から、TBS系『日曜劇場』(毎週日曜21時)枠で、『VIVANT』が半年間放送される。主人公・乃木憂助(堺雅人)の前に赤い饅頭が置かれたところからスタートするという。

キャストは、前作品からの乃木憂助の堺雅人、阿部寛、二階堂ふみ、二宮和也、松坂桃李、富栄ドラム、小日向文世、キムラ緑等々多彩な俳優陣。原作・演出は前回と同じ福澤克維。

前回、『VIVANT』特集の配信中、当サイト『島根国』に通常の二桁も上回るアクセスがあった。その訳が、主人公・乃木憂助(堺雅人)の出生の秘密を解き明かす阿部寛(野崎守)の行動にあった。

モンゴルと日本を舞台とした作品であるが、島根県奥出雲町上阿井に現存する「櫻井家」が堺雅人の実家として使用された。堺雅人に疑問をいだき櫻井家を訪ねた阿部寛が、座敷にて話すのが乃木憂助の伯父役の井上順である。

VIVANTでは和菓子屋として設定されているが、実際はたたら製鉄の三大鉄師。現在、国指定重要文化財の家屋とともに、戦後武将塙団右衛門の末裔としての記録やたたら製鉄の品々を展示した可部屋集成館が公開されている。

この繋がりからVIVANT特番やネットでの発信のたびに、検索から当サイトへの異常なアクセスとなった訳である。次のコンテンツである。

webサイト『島根国』、是非、ご覧頂きたい。

■『地方創生とSDGs』

  経営の原点から地方創生の未来へ―櫻井家に流れる経営の考え ~経営の原点から地方創生の未来へ

■文化産業遺産 たたら製鉄

今回の放映にあたって、『島根国』としてもアクセスの増大を期待する所以であり、また奥出雲に限らず島根県の知名度アップ、さらには旅行者(関係人口)の増大を願う次第である。

この櫻井家を訪ねる方法が、木次線出雲三成駅からのタクシーである。

そこで三大鉄師の櫻井家繋がりで、「たたら製鉄と木次線」について紹介する。

日本酒『VIVANT』(奥出雲酒造)

木次線の誕生

木次線は、山陰本線の宍道駅から中国山地をスイッチバックで越えて広島県の備後落合駅を結ぶ全長81.6キロのローカル鉄道である。

JR木次線の歴史において忘れてはならないのが、櫻井家と並ぶ奥出雲の三大鉄師(田部・櫻井・絲原)のひとつ絲原家の絲原武太郎(いとはらぶたろう1879–1966)である。

13代目絲原武太郎は、奥出雲の開発と山陰・山陽の経済交流(鉄や産業資材の運搬)のためには中国山地を越える鉄道路線が不可欠だと分析、同調者とともに木次線の前身となる「簸上(ひかみ)鉄道」の設立と建設を主導した。 

1914年(大正3年)、簸上鉄道株式会社を設立

1916年(大正5年)、宍道〜木次間が開業

1932年(昭和7年)、 木次駅 – 出雲三成駅間が開業

1934年(昭和9年)、簸上鉄道が国有化。宍道駅 – 出雲三成駅間が木次線となる。同年、出雲三成駅 – 八川駅間 (14.8 km) が延伸開業

1937年(昭和12年)12月、八川〜備後落合間が開通。山陰本線と芸備線が繋がる

これこそが 13代目絲原武太郎たちが描いた、産業振興とは別のロマン、出雲大社(島根)と萩の宮島(広島)をつなぐ夢の実現であった。

  ■webサイト『島根国』『地方創生とSDGs

来年の2027年が木次線全線開通90年の年にあたる。東海道新幹線開通が1964年(昭和39年)の第一回東京オリンピックの年。2027年から63年前のことである。東海道新幹線開通と比較して、えっと思うかもしれないが、この百年は戦争を挟んで激変の時代であった。

木次線とたたら製鉄と深い関りがあるが、そんな時代に山陰と山陽を繋いでいた鉄道である。

木次線の詳細は、『木次線利活用推進協議会』のサイト

https://kisuki-line.jp/database/history/

櫻井家・絲原家については、『島根国』YouTubeで。

https://www.youtube.com/@shimanekuni

木次線

黒い構内の無限の蟻たち

神社の形をしたJR木次線の出雲横田駅を正面に見て左側、現在「算盤記念館」が建っている辺り、昭和40年代までは中国山地から切り出された木材置き場だった。

戦後、焦土の都市部に向けて大量の木材が、奥出雲から木次線やトラックをつかい運搬された。今は一人しかいない出雲横田駅も、その頃は十数人の駅員がいた。また、材木置き場には貨車に材木を乗せる多くの労働者がおり、黄の色を塗った日通の大型ラックも数台停まっていた。

運搬したのは木材だけではない。多くの人々とともに、後に仁多牛とブランド化された牛、たたら製鉄の砂鉄も運ばれた。

その材木置き場の土地は、粘土質の赤土でも、材木の樹皮の茶褐色でもなく、黒々とした土地だった。焼かれた炭のカスでも、汽車の燃料である石炭でもない、山々から採取された砂鉄である。

同じところに積まれ、こぼれ落ちたのだろう。理科の実験用に買い与えられた磁石をもって歩くと、面白いほどに黒々とした短い針に似た砂鉄が付いた。付いたというより磁石が、あたかも蟻に食いつくされる昆虫の死骸のようにむしり取られるのだった。それほどの幾重にも積み重ねられた黒々とした絨毯だった。

幼稚園児の私に南極を教えたのが南極観測船「宗谷」ならば、北極と南極の概念をおしえたのは磁石にはりついた砂鉄だった。

まだ道も舗装されない砂利道の頃、もちろんアスファルトなど見たこともない子供には、砂鉄の道は神秘の遊び場であった。また、樹木の年輪から生命の成長をおしえる教室であり、地球の不思議をおしえる理科室でもあった。

もちろん砂鉄は斐伊川にも堆積し、清流の中で白砂との調和でモノクロの水墨の稜線模様を描き、刻々と変化した。ときに龍となり、ときに涙となり、そして深淵の淵を描く流動する美術室でもある。

出雲横田駅

木次線にのって

既に紹介したように、1937年(昭和12年)は山陰本線と芸備線が繋がった木次線開通90年にあたる。

雲南市・奥出雲町、そして広島県側でも各種イベントが計画されていることだろう。このイベントによって、噂される出雲横田と備後落合間の廃線が白紙に戻ればと願う次第である。

今年の『VIVANT』ブームで、木次線が脚光をあび、多くの人が木次線に乗り奥出雲の人びとが迷惑するほど訪れることを期待する(迷惑にならないように)。

砂鉄の絨毯はもうないが、たたら製鉄に築かれた文化と木次線全線開津を夢見た人びとの情念は奥出雲の隅々に萌芽している。

旧国鉄の『出雲大社』駅も再建された大国主を祀る出雲大社と、宗像三女神(天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた神様)を祀る宮島をつなぐ木次線。神のご加護を賜って乗車してはどうだろうか。

もちろんVIVANTの話題も載せて。

→「文化産業遺産 木次線」に戻る


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