• ~旅と日々の出会い~
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夫婦神の相愛と樹霊の宮 熊野大社(松江・八雲)

― 交易の要として発展する意宇郷と古をまとう八雲の里 ―

はじめに 雰囲気

なんか、いつもと違う。教室や部室、あるいはアルバイト先に入った時、微妙な変化を感じた経験がありませんか。

話し声がしていたのに急に皆が黙り込む。挨拶したのに誰も返事をくれないし反応もない。視線さえ合わせてくれない。このシカトが重い空気となって貴方だけを包み込む。自分では払いのけることも、吹き飛ばすこともできない重い空気、いたたまれない雰囲気。集団シカトのはじまりです。

よろしくないシカト、率先して行うのは少数で、大半は成り行きを眺め、言われるままに沈黙で従っています。そして、わずかにどちら付かずの人。

パレートの法則の「2対8」を継承した「2対6対2」の法則があります。優秀な上位の2割、下位の2割、そして中位の6割。企業の組織作りでは、6割の中位を優秀な2割に近づけるための教育を行います。ほっておくと下位(楽な方)に向かうのです。下位の2割は気づきを待ちます。

じゃあ優秀な人だけ、あるいは下位の人だけを集めたらどうなるか。そこでも2対6対2の法則が成り立つのです。

2割の積極的なイジメ者がいて、6割の中位を煽るのです。6割は積極的ではなくても一緒になってシカトを始めます。従属的な立場に見える6割の中位が、実はシカトの雰囲気を形成する主体となるのです。無意識の罪(賛同)というやつですね。

今回の熊野大社参拝、あるいは見学にあたって、この「「2対6対2」の法則を当てはめて眺めてみましょう。仮に熊野大社とその周辺の八雲町を上位の2割に置き、古の意宇郷にあたる「八雲立つ風土記の丘」周辺(神魂神社や国分寺跡等を含める) を中位の6割に置き、下位の2割は歴史文化と関係ないモノとします。時代の変化のなかで上位と中位の関係の見え方が変わってきます。その感覚で今の熊野大社をご覧ください。

今回は熊野大社の紹介というよりは、周囲との関りや変化について紹介します。

境内独特の気配

神社の鳥居をくぐり一歩踏み入れると何とも言えない冷たい風を感じませんか。それを「気」という人もいれば、「精霊」とよぶ人もいます。神様が宿る「息吹」と表現する人もいます。どこか「厳粛」で「げんこたる」雰囲気は、ある種の権威さを醸すのです。

崇拝し、信仰するに値する。だから皆さん、賽銭箱にお金を投じ沢山のお願い事をするのです。お守りを買い、御神籤を見、一喜一憂しつつも「御加護」を期待するのです。

もちろん何も感じない人もいれば、何も感じない神社もあります。でもほとんどの神社では鳥居の前後では異なる雰囲気を感じます。この雰囲気の違いは何でしょうか。なぜ生まれるのでしょうか。

熊野大社の鳥居

五分刻みの時刻表で熊野大社のお参り

今にもパラっと小雨が降りそうな朝でした。JR松江駅の構内にあるスターバックスでパソコンを取り出したところで過ったのです、「熊野大社に行こう」

真っ黒の液晶画面に素戔嗚尊(スサノオノミコト・以下スサノヲと略)が映ったのでしょうか、それともスサノヲによって八岐大蛇(ヤマタノオロチ・以下オロチ)から助けられた奇稲田姫(クシイナダヒメ)が過ったのでしょうか(スサノヲの妻)。

私の旅はいつも衝動的でした。それに体力以上の無理をしてしまうのです。

昨夜飲み過ぎた松江の酒が身体の至る所に残っています。でも、朝食に頂いたシジミ汁と温泉の柔らかみが励ましてくれます。それが熊野大社に行かなくてはと決心させました。

熊野大社

丁寧な案内、五分刻みのスケジュール

駅前の「松江国際観光案内所」に電話をかけ、熊野大社行きのバスの時間を尋ねました。交通の便を理由に午前中の参拝を進められ、私が駅前にいることを話すと「バスの時刻表を用意しますから直ぐに来られますか」と問われたのです。

そうです、その時、「熊野大社」に向かうバスの出発10分前の9時50分でした。

パソコンをリックサックに詰め、まだ口を付けてないアイスコーヒーを一気に飲み干し、走ります。観光案内に向け走ります。駅前のターミナルには続々とバスが来、お客を下し乗せると出発します。

飛び込んだ私に案内所の方が手を振っています。熊野大社に出掛ける顔をしていたのでしょう。それとも服に落としたスターバックスのコーヒーの濡れたシミに気づいたのでしょう。

「ハイ」とカウンター越しに渡された熊野大社を往復する時刻表。丁寧に行きと帰りの時刻ダイヤにマーカーで印がつけられています。

時刻表 令和4年10月改正版

「あと五分です」。時計は10時5分前を示しています。バス停を指しながら、4番乗り場から「八雲車庫」行きに乗り終点で下車、そこで地元の八雲コミュニティーパス「熊野大社」行きに乗り換えることを教えられました。帰りの時刻表にもマーカーが付いています。

優しく、丁寧な案内が背中を押し、「いってらっしゃい」が見送ってくれたのです。

走ります。真新しいTシャツについたコーヒーのシミを気にしつつ、踊りだした胃袋を諫めるように。あと三分。

30分のバスの旅

平日だからでしょうか、一畑バスに乗ったのは私を含めて三人。

見慣れた松江の町並みを南へと進みます。松江工業高校、松江市立病院、乗客は一人になりました。八重垣神社の杜が右手に見えます。そこには寄らないバスです。

家並みが途切れると車窓は明るくなり左手に田畑が広がります。文化財が集中する古代出雲の中心地「八雲立つ風土記の丘」、保護指定地域です。右手に「神魂神社」「風土記の丘」「かんべの里」の看板と共に「熊野大社」の標識が見えます。この一帯を6割の中位と置きます。

風土記の丘を過ぎ低い神納(かんな)峠を越えると道も狭まり、道は意宇(おう)川に沿って進みます。小山が近づいたせいでしょうか、どことなく雰囲気も変わってきます。これからを2割の上位とします。

全体のマップ

定刻の10.32、八雲社車に着くと一畑バスの運転手さんが、コミュニティーパスの到着場所を教えてくれました。八雲車庫発11.30、熊野大社着11.42。

松江市ではない町

樫と杉で造られた待合所で周辺を散策しました。神納(かんな)峠を越してから風景と雰囲気は、松江市内でもない、平野の意宇郷でもない、川に沿った山間の独特な静寂さをもつ集落です。

宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)に、父からの手紙(旅の心得)にこんな一節があります。

「一、 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ・・・」

駅に置かれた荷物や人びとの服装を観察し、小高いところに上って見渡し、時間があったら歩き、金に余裕があれば土地の名産を食べると続き、旅は観察すること、考えること、そして人々と話すことだと教えます。

コミュニティーパスも私一人。運転手さんが時折、道々の風景を案内します。

神納峠がまるで関所でもあるかのように景色も雰囲気も変わります。家々の間には田畑や空き地があるのに、家々の並びから片寄せ合うようなひっそりした気配をかもしています。地に根を張る大地であるのに流されていくような儚さをまとっています。でも中国山地の村々のような孤立した山里の静寂さではない、樹木に包まれた物静かな息吹を感じます。それが熊野大社のある八雲の里です。

「2対6対2」の法則。意識すればするほどに、ここはスサノヲを祀つる熊野大社の入り口になる世界に見えてきます。この先に熊野神社があると知っているからこそ強く意識するのでしょうか。それとも古(いにしえ)から刷り込まれてきたスサノヲの神がかりでしょうか。

熊野神社と意宇の里

・天狗山

八雲町と安来市広瀬町の境に、このあたりでは最も高い610メートルの天狗山(てんぐやま)があります。その昔、熊野山とも熊成山とも呼ばれていました。天狗山に熊野大社の神々が集ったと昔話があります。

熊野大社についての最も古い記録は、720年編纂の『日本書紀』の斉明天皇5年の659年に「出雲国造に命じて厳かな神の宮を建てさせた」とあります。

・熊野大社の祭神

『延喜式』(927年)によると大和国(奈良県)には286、伊勢国(三重)には253、出雲國には187の神社がありました。その内、熊野大神、野城大神、佐太大神、杵築大神で、熊野と杵築は大社という高い位に位置付けられ、熊野大社は「出雲国一の宮」です。

熊野大社の祭神は、イザナギの剣より成られた三貴神のスサノヲと妻神のクシイナダヒメです。

※出雲神話については、『島根国』の「出雲神話と神々」をご覧ください。

・意宇の里

どうしてこんな山間に「出雲国一の宮」を造ったのでしょうか。深く関わるのがバスで通過した現在の「八雲立つ風土記の丘」一帯、古代では「意宇郷」です。熊野大社を知れば知るほどこの6割の存在が重要な意味を占めます。そしてこの二つの感覚の違いが古代出雲を際立てるのです。

意宇郷は、中海に注ぐ意宇川の氾濫でつくられた平野で、古代の早期から開かれた一帯でした。また中海に注ぐ大橋川の対岸は交易の要として、稲作や陶器の生産地として栄えた朝酌郷です。

※『島根国』の「心に残る島根の風景」「朝酌(あさくみ)発、中海の朝焼けモーニングクルーズ【動画配信】

五世紀、古墳時代全般にわたって栄え、大和朝廷の全国統一後も出雲氏は「国造(くにのみやつこ)」(今でいえば知事)として政治や祭事をまとめてきました。

しかし大化の改新(645年)以降、中央権力の地方統制がすすみ、律令国家として政治的な支配については大和朝廷から来た「国司」が治めるようになり、「国造」の力はどんどん弱まってきました。それでも出雲国造家は特別な力をもち続け、国庁の郡司や要職に関係者をつけることができました。そのひとつの事例が風土記の編纂です。ほかの国では大和朝廷から送られた「国司」が制作したのに対し、出雲国風土記は地元の出雲国造の出雲臣広島の監修で神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)が編纂したのです。

出雲国風土記(古代出雲歴史博物館)

しかしそれも過渡期的なことでした。営業術や交渉術での「フット・イン・ザ・ドア」。一度開けたドアはどんどんこじ開けられていく。消費税の導入と同じです。導入を一度認めたら何%の値上げには鈍感になる。

国造の政治的権力を奪う「国造群領兼帯の禁」(798年)が発令されると、国造は祭事の領域でしか残る道はなくなったのです。国造は国庁の意宇郷に留まることはできず熊野大社を残して杵築の地へと移りました。

交易の要となった意宇郷は、生産物の消費だけでなく貯蓄と流通を介して利益と価値を拡大します。中央権力による制度確立は富をさらに集中し、権利を保障し増々栄えるのでした。神納峠で狭まったその先の祭礼を担う熊野大社一帯は、意宇郷とは真逆で利益も存在理由も失っていくのです。残ったのはただ「出雲国一の宮」の権威だけでした。

再び「2対6対2」の法則で旅を考えてみましょう。中心は上位2の熊野大社で、意宇郷(八雲立つ風土記の丘一帯)は中位の6です。かつては密接な関係があった熊野大社と意宇郷。熊野大社視点で見ると、意宇郷(八雲立つ八雲風土記の丘一帯)は栄えるとともに中央権力に組込まれ熊野大社を捨て、独自の道を歩みだしたのです。熊野大社と一帯は、自然と歴史の意識の中で蘇生し神秘的な形成を遂げることを選択しました。寄り添った二つが分かれていく。これまでの宗教的な権威が、中央権力の進出と経済成長によって分断されたのです。

その視点で、神納峠を越えた八雲町の風景と風習を眺めてください。そして江戸時代以降、松江城と城下町形成によって廃れていく意宇郷についても。熊野大社と意宇郷が二つに分かれ時代に翻弄されていく姿を。

意宇の道

熊野大社参拝 社殿へ

道向かいの停留所を指して「戻りは11時15です。そこのバス停に来ます」と丁寧に教えて下さったバスの運転手さん。現在の時間は11.42。三十分の参拝。それを逃すと13.05までバスはありません。神社横の温泉(ゆうあい熊野館)を知ったのは帰りのバスの中でしたが、その日は定休日でした。

バスを見送ると来た道を振り返りしばらく眺めました。

山間の川に沿って生まれた町というのではない、かつて古代、意宇(八雲立つ風土記の丘)郷から熊野大社に参る人々や牛車が踏み開いた道だからでしょうか、それとも中央権力との戦いに敗れ国司が杵築神社へと去った後のさびれた街道の嘆きでしょうか、時代の喧騒が風となって流れています。

・朱色の欄干

駐車場の正面に本殿が見えますが、駐車場の右横の大鳥居をすすみます。砂利を踏む音に邪気が去っていく気分です。大鳥居と赤い欄干の橋の先に、杜に包まれた熊野大社の本殿が見えます。左側に「熊野大社」と彫られた岩、右手に熊野神社の御祭神と御由緒、御祭日を記した看板があります。

どことなく松江の北側にある佐太神社の配置に似ています。

 ※『島根国』 「出雲神話と神々」の「風土記神話二話 加賀の潜戸と佐太神社

意宇川に架かる朱色の八雲橋と唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、深緑の樹木に生え、土手に飛び火した朱は曼珠沙華となって連なっていきます。赤い曼珠沙華の花言葉は、「情熱」「思うのはあなたひとり」「あきらめ」。白い曼珠沙華なら「また会う日を楽しみに」。

幾度も氾濫し人々の生活の糧を奪った意宇川に、古(いにしえ)に置いてきぼりされた熊野大社に、赤い曼珠沙華が似合います。八雲の町にも赤い曼珠沙華は似合います、「思うのはあなたひとり」

八雲橋

・隋神門から拝殿へ

八雲橋を渡り大鳥居の前の左端で一礼。雑念がざわめき、やがて先ほどまであった赤い曼珠沙華が心からも消えます。ここが古(いにしえ)と現生の境目、観念と現象の境目。深く呼吸をして一歩踏み入る。手水舎で手を清め、心を清め、石段を登って隋神門の前で一礼。いつものように静寂な気配に涼しさを感じています。

八雲の町を振り返ります。かつて多くの人が列をつくって参拝した通りを。そして既に形も気配も霧散した人々の群れを。歴史という意味を思い浮かべています。貴方たちは何処に行ったの? 

隋神門をくぐり境内へ。正面に拝殿と幣殿、本殿からなる社殿が、右手に舞殿、左手に鎮火殿。ここでの参拝の作法は、二拝・二拍手・一拝。ただし初めと最後に一揖(ゆう)、ちょこっとお辞儀をすることです。

静寂と厳粛、森閑と寂び、今と過去を一緒に感じる時です。意識して腹式呼吸をしています。どことなく腰を少し落とし重心を下にして、背筋を伸ばして顎を引く、いつのころかこの姿勢で呼吸をすると「感謝」の念が湧くのです。

ここは歴史と文化と民俗をまといし空間。精神は自在に飛んでいく。ここで古の熊野大社と風土記の丘周辺に戻りましょう。

拝殿

栄える杵築大神、衰える熊野大神

出雲国造が意宇郷から杵築に移っても熊野大社が「出雲国の一の宮」であることには変わりはなかったのです(834年、令義解)。しかし時代は変化します。中央権力の仕組みや制度の変化とともに杵築大社は独自の活動で栄え、徐々に熊野大社は衰えたのです。それに拍車をかけたのが奈良時代から鎌倉時代にかけての土地所有を認めた荘園制度の実施と拡大です。開拓の手段と軍備をもつものへの富の集中です。

・荘園制度による富の集中

祀りごとより財の蓄積こそが権力を強化します。そして財の集まる所で商いは盛んになり、交易と交流のあるところに人々は食と職を求めて集まります。経済構造がつくる社会の誕生です

領地をどんどん増やす杵築大社に比べ、わずかな領地しか所有できなかった熊野大社は廃れていくのでした。

・二つの熊野 熊野大社と熊野三山

歴史のはじまりは、消費(生きる為に食べ物を採取する)への欲から働くことをはじめたことです。やがて働くことは余剰をうみ、富をもたらし、富を得たものはその永続を求め、生命の継続を求め、さらなる欲の実現として消費を繰返します。サービス(美・娯楽・快楽・信仰等)という価値のはじまりです。神社仏閣の意味も変化しました。

熊野と問えば、多くの方が和歌山の世界遺産、「熊野三山」「熊野古道」「那智の滝」と答えます。熊野大社と熊野三山の関係は専門家の調査研究にたよるところですが、ただ話題・物語・ブームを作るのは熊野三山がはるかに優れていたようです。莫大な経済的な価値と知名度を熊野三山にもたらしました。熊野三山の台頭が、名前が似ているばかりに熊野大社の衰退を一層強めたのです。

熊野信仰のはじまりは、平安時代以降、行者の修行の地として神聖化され、その考えが貴族層の「熊野信仰」へと高め、11世紀末ごろから民衆にとっても「伊勢へ七度、熊野へ三度」と熊野詣が盛んとなりました。江戸時代になると紀州藩の支援もあって熊野三山が復興し、「蟻の熊野詣」と言われるほどの最盛期を迎えました。今の世界遺産の認定も自然の美しさと共にそんな歴史に裏付けされているのです。

杵築大社が繁栄し、熊野詣が全国的に普及する中で、出雲国の熊野大社は廃れていったのです。

・意宇川の氾濫

意宇川の脇に立つ熊野大社は何度も水害にあい被害を受けました。なぜ天狗山に戻すとか、小高い丘に移転しなかったのでしょうか。財力のなさも影響したのでしょうか。時の支配者の重要度の加減もあるでしょうか。しかし、信仰の要として大切な熊野大社であったはずです。

こんな調査があります。

東京工大大学大学院の皆様による調査報告『東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究』(土木学会論文集F6・安全問題 2012)インターネット

宮城県の海岸線にある神社215社の内53社が被害を受けました。しかしスサノヲを祀る17社の内被害を受けたのは1社でした。これはスサノヲ信仰の無病息災信仰から災害を免れる位置に配置したことからだと推理されています。

だとすると、どうして水害から免れる高台に熊野大社を移転しなかったのでしょうか。東北と島根の違いというよりは、熊野大社の政治的な意味と、財政難が影響しているのではないでしょうか。あるいは熊野大社の意義はほかにあったのでしょうか。ここでは問題提起で留めておきます。

水害にあい復興にむけ地元の人々が貢献してきた熊野大社を思いつつ境内を回ります。

熊野大社参拝 スサノオウとクシイナダヒメ

本殿に向かって右にクシイナダヒメを祀る摂社稲田神社、左にスサノヲの御母神・イザナミノミコトを祀る伊邪那美神社があります。このイザナミノミコトが祀られていることが天津神の存在として認められ、杵築大社を差し置いて「一の宮」になったとも推測されます。

伊邪那美神社
摂社稲田神社

・荒神社

スサノヲを祀り、「甘雨を降らし霧雨を止める神」。杉の大木の根元から流れ落ちる水滴と伸び切った杉の木がつくる清らかな湿り気から、どことなくスピリチュアなパワーを感じます。ついつい暫し見上げていました。お薦めのスポットです。

荒神社

・鎮火祭

毎年10月15日に行われる鎮火祭。これは出雲大社の宮司が古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)で使用する火を起こすための火鑽臼 (ひきりうす) と火鑚杵 (ひきりぎね) を出雲大社へ送り出す祭りです。現在でも行われています。

ちなみに熊野大社の「熊」の「点々四つ」は、「烈火」と読み、「火」の意味です。

鎮火殿

おしまい

熊野大社について紹介してきました。

最初に説明した2対6対2の法則。熊野大社を中心に八雲立つ風土記の丘全般を眺めると、奥座敷として存在する八雲町の熊野大社の存在意義や位置、そして歴史に翻弄されつつも儀式を引き継いで来た文化と風習を理解して頂けたと思います。

その時代の存在意味と経済成長によって神社周辺は大きく翻弄されます。古事記編纂1300年記念事業前の出雲大社参道のさびれた風景、木造建築の国鉄「大社駅」があった時代、そして今の出雲大社参道。神社だけでなく、周辺に、さらに歴史的に関わりのあつた地域へと興味は広がります。

出雲国の歴史の概要を読み、熊野大社誕生の意味を考え、日本の歴史の推移に照らし合わせて理解されることをお薦めします。すると見ている風景さえ異なって見えてきます。

出雲国を旅する皆様にとって、旅の最後に(あるいは初めに)熊野大社をご覧になることをお薦めします。『神納峠』こそが意宇郷(=八雲立つ風土記の丘)の奥座敷として、そして直接庶民とは触れない神聖な地として存在したことが体感でき、その体感から歴史を感じ取って頂けると思います。

旅の愉しみは、その存在理由を、五感を通して知ることでもあるのです。

八雲町、そこは意宇郷であって意宇郷ではない、松江市であっても松江ではない、歴史に取り残されつつも重要な神儀を担う町です。熊野大社のその先に大東(雲南市)の須我神社があり、スサノヲが降臨した奥出雲の鳥髪山へと続きます。変化と不変を感じて頂ければ幸いです。

■参考文献 
『熊野大社』(熊野大社)、『熊野の大神さま』(川島芙美子、熊野大社)

■出雲國一之宮 熊野大社
〒690-2104 島根県松江市八雲町熊野2451
TEL 0852-54-0087
http://www.kumanotaisha.or.jp/top.htm

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