• ~旅と日々の出会い~
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小泉八雲の歩いた径をたずねて② -『日本の面影』の出雲國のご案内-

一話 卵ありますか、美保関

はじめに

小泉八雲の妻セツが書いた『思い出の記』にこんな一文があります。
「ヘルンの好きな物をくりかえして列べて申しますと、西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、寂しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御碕、それから焼津、・・・」(小泉節『思い出の記』より)

『小泉八雲の歩いた径をたずねて』の一回は、海水浴にもよく出かけたと伝えられています「美保の関」にします。
現在は市町村統合で松江市になりましたが、小泉八雲のいた明治は美保関町だと思います。
当時の交通の手段は、老舗割烹館「美保館」に展示された写真を見ると蒸気船です。海洋交通の要として、えびすだいこく両参りの御利益観光として、それはそれは栄えたようです。繁栄ぶりは美保関資料館「鷦鷯(ささき)」の展示品を是非ご覧ください。千両箱ならぬ万両箱には驚きました。(※ 当コーナーの「神話と交易、人と海に織りなされた美保関町」も合わせてご一読ください)

それでは、小泉八雲『新編 日本の面影Ⅱ』(訳・池田雅之、角川ソフィア文庫)を引用しながら、小泉八雲が訪ねた明治と今の美保関をご紹介します。本文中の引用はすべて『新編 日本の面影Ⅱ』からです。

『新編 日本の面影Ⅱ』表紙
事代主神(ことしろぬしのかみ)と鶏とワニ(サメ)

「美保関の神様は、鶏の卵がお嫌いである。・・・それで美保関には、雄鶏も、雌鶏もいないし、ひよこも卵もない」」で、『日本の面影』「美保関にて」は始まります。

 小泉八雲が美保関に訪れたのは、1891年(明治24年)8月25日のこと。町はずれの旅館「島屋」に投宿します。(現在は公園)

さすがに今では卵も肉も売っていますが、美保神社の祭りには踏襲され、頭屋にあたる家は、一年間、卵も鶏肉も口にしません。もちろん卵が含まれた料理も同じです。

その訳を、小泉八雲は神話と昔話で紹介し、言い伝えを破ったがために難破しそうになった蒸気船のエピソードを紹介します。穏やかな描写とともに美保関と安来では鶏に対する扱いが真逆であることをユーモアたっぷりに表現しています。

神話の詳細は、出雲神話か『島根国』の当コーナー「『中海』、ぐるりと半周、不思議いっぱいの旅」をご覧ください。

美保神社

 

えびす参りは船で行く

「天気のよい日に松江から美保関まで蒸気船で行くのは、なかなか楽しい旅です」。『三』の冒頭の文です。

美保関の美保館に展示されている品々の中に美保神社参りの乗船客で溢れた蒸気船の写真があります。いまでこそ松江市内からの道は舗装されて快適なドライブコースですが、海岸沿いの道が開通したのが明治44年のこと、小泉八雲のいたころは山越えしかない難儀なところでした。参拝者を運んだのは、宍道湖湖畔から大橋川を抜けて中海の島根側の岸壁に沿って進む蒸気船です。

松村友視『時代屋の女房・怪談篇』で、ぶらり旅に出た女房真弓は幽霊の操縦するモーターボートに乗り岸壁に沿って走り抜けます、松江から美保関に向かって。夏目雅子で映画を作ってほしかったですね。

現在は道路も整備され、残念ですが船の運航はなくなりました。復活すれば、美しい湖岸の風景を楽しむ時間になると思います。

というのも昨年2022年の夏、私たちは朝酌(あさくみ・大橋川沿い)発の『中海の朝焼けモーニングクルーズ』を取材する機会に恵まれました(※)。大山(だいせん・鳥取県)脇に上る朝陽とともに、古のころよりの農業や漁業と陶器製作を営んだ一帯を中海より眺めることができたのです。中海一帯の朝焼けの美しさとともに人々の営為を堪能できる貴重な体験でした。(※ このコーナーでも「朝酌発、中海の朝焼けモーニングクルーズ」としてテキスト紹介と動画配信にて紹介しています)

朝焼けモーニングクルーズ
美保関には、砂浜はない

蒸気船が美保関の入り江に入り碇泊するまでの風景を小泉八雲は情緒的に、そして簡潔に表現します。

「今まで視界から隠されていた、この世のものとは思えないほど可愛いらしい小さな入り江に入る」
「美保関には、砂浜はない」
確かに今でも美保関には砂浜を見かけません。釣り船が、漁船が小さな入り江の奥に接岸しています。小泉八雲はここを泳ぎます。この「可愛らしい」入り江で、諸手船神事の祭礼も行われます。

入り江

小泉八雲が見た「防波堤の突端にある」石灯籠や太鼓橋に弁天様のお社は、今も見ることができます。
ここから見る美保関の可愛らしい入り江に迫る崖と悠然と構える美保神社の鳥居から、日本海の荒波や風雪に挫けることもなく北廻り船や人々を向かい入れた雄々しさとは異なる、自然と営みが醸す精霊的な気配を感じます。それは小さな町に語り継がれた神話とともに、沢山のお祭りの継承が人々の営為の中に幾層にも刷り込んだ歴史でしょうか。

石灯籠
透明な海
卵はありますか

小泉八雲は卵にバター、牛乳が大好きで、毎日大量に食べました。島屋旅館に着くと給仕の娘に尋ねたのです、「『あのね、卵はありませんか?』」。『四』の冒頭です。
「『へえ、あひるの卵が少しございます』。何という嬉しい丁重な対応ぶりだ」
ほっとする小泉八雲です。

松江を選んだ理由のひとつに、牛乳やバターが容易に入手できることです。現在も松江大橋の北詰にある漢方薬の「山口薬局」、小泉八雲がビールを買いに来たそうです。この漢方薬屋では、季節折々いろんな品の展示をします。博物館とは異なる庶民の生活や明治大正のモダンを味わうことができます。

小泉八雲には日本の衣食住を好みながらも卵に牛乳は必須の品でした。

山口薬局入り口
展示品
八雲が見なかった美保関

美保関を旅すれば、美保神社を参拝し、青石畳通りを散策し、国の重要文化財の五体の仏像が祀られている佛谷寺を拝観してから日御碕灯台へ向かうのが自然なコースです。
ところが小泉八雲はさらったと流し、また触れてもいません。時代的なこととともに、そこには文学者小泉八雲の感性とジャーナリスト小泉八雲の視点と価値観が見え隠れします。

・事代主が釣りをした美保関沖

美保関灯台は無理もありません。完成したのが1898年(明治31年)で、小泉八雲が松江を離れて熊本の中学に転任したのが1891年のこと。翌年から『見知らぬ日本の面影』を連載します。知らないのも当然でしょう。といっても事代主の釣りや大国主命と少彦名命の出会いの神話はきいたことでしょう。

美保関沖

・解せないのが佛谷寺の表記なし

美保関の町は二度の大火に見舞われました。一度は戦国時代の毛利と尼子の合戦(1570年)で美保神社や町並みは焼き尽くされました。二度目は1800年の大火事です。

佛谷寺には、平安時代に彫られた一刀彫の五体の仏像があります。現在は「国の重要文化財」に指定されています。その仏像、大火事のときには、美保関の人々が担いで山越えしたおかげで焼失から免れたのです。
また佛谷寺は、後鳥羽上皇や後醍醐天皇の隠岐配流の風待ちの御座所となります。井原西鶴の『好色五人女』にも取り上げられた八百屋お七が恋した吉三郎の墓もあります。
生活に根付いた信心話や庶民の人情話を好む小泉八雲、興味をもったと思います。ところが、このお寺にはまったく触れていません。
(※ このコーナーでも「人々が戦火から守った仏像群『佛谷寺』」としてテキスト紹介と動画配信にて紹介しています。是非、ご覧ください)

『鎌倉・江の島詣で』では、円覚寺に始まり長谷寺迄と語りつくした小泉八雲です。どうしたのでしょうか。このあたりについては専門家の皆様にお尋ねすることにします。皆様は是非、拝観してください。

佛谷寺仏像
探してみましょう、八雲が好んだ景色

『新編 日本の面影Ⅱ』を片手に散策しましょう

・移り行く青石畳通りの風情と小路

青石畳通りの石が敷かれたのは江戸時代から大正にかけて、美保神社の門前町として栄えました。

青石畳通り

少し長くはなりますが、引用します
「この町は、海と山とがせせこましく迫っているので、通りらしき通りは一本しかない。その通りの狭さと言ったら、海和寄りの家の二階から向かいの家の山寄の家の二階へ、ひょいとひと飛びで渡れるくらいである。・・・この目抜き通りから幾筋かの小路が水際へと下ってゆき、そのはずれは、石段となって尽きている」

この一本しかない通りが今の「青石畳通り」のことです。現存する当時の建物は、明治41年築の美保館(以前は廻船問屋の泉谷屋)など数軒ですが、家並みや路に明治・大正の雰囲気を感じることができます。

『時代屋の女房・怪談篇』でも、水際への小路をアウトローの姿をした幽霊と真弓が白いかの刺身を求めて歩きます。

海へと続く小路

現在は建物と海岸の間には大きな道がありますが、小泉八雲が訪ねた頃、この道はなく、家々から釣り糸を垂らし釣りができました。

・小泉八雲が好んだ小物

人びとの自然への信仰や家並みの雰囲気とともに小物にも興味を寄せています。
青石畳通りの店で売る美しい「竹で編んだ籠や道具箱」。美保神社で売る「米粒を入れた小さな紙袋」。「お祈りを唱えながら米粒を蒔けば、望むものが何でも、この米粒から生えてくる」。そして小泉八雲が最も好んだ物が「宝寿寺のペンダント型の仏様の飾りものの瓔珞(ようらく)」です。

宝寿寺の「日本の乙女のやさしさと清らかさを象徴する慈悲深い女神である」三十三体の観音像と小学生の女子生徒たちが寄進する品々に、小泉八雲を傾注します。

美保神社裏山
眠っているように静か

『七』の冒頭で、美保関を民俗学的な観点で伝えます。それは次に述べる「夜」の美保関の対比というより枕詞にも受取れます。

「美保関は、日中は眠っているかのように静かである。子供たちの笑い声は、ごくたまにしか聞こえない。また時折、舟をこぐ船頭が、歌う舟歌が、聞こえてくることもある」
小泉八雲は西インド諸島の海で耳にした古い民謡を思いだします。
仕事に関わる歌や民謡は、難解な歌詞のせいかもしれないが、その旋律に聴き入ってしまいます。それはまるで感性も営為も異なる世界の歌のようでもあります。

私は、美保関は陸と湊に織りなされた町だと思います。どちらが欠けても美保関にはなりえません。焼きイカだけでなく、醤油も、味噌も美保関という潮風によって醸成されています。

その昔、海中から三つの怪火が現れ、人々は三火(みほ)と呼んで恐れました。それを行基菩薩が封じて仏像を造り、佛谷寺に奉納したという話があります。
青石畳通りの端と端にある美保神社と佛谷寺。子供の声も静かになるのもなんとなく頷けませんか。

青石畳通り
賑やかになる夜も、穏やか

「夜になると、美保関は西日本で最も騒がしくて賑やかな港町に変化する」

昼間は静かで、黒柿色と紺碧色の二色の町並みが、夜ともなるとあらゆるたがが一挙に外れ、白粉花が一斉に咲き誇る。
小泉八雲は描写します。
「町並みの一方の端からもう一方の端に至るまで、宴会用の燭台がずらりと並び、水面に映っている。町中が酒盛りのさんざめきで沸き立っている。どこへ行っても、芸者衆の鼓の音や哀調を帯びた唄声、三味線のつまびく音、踊りの手拍子、拳に打ち興じる連中たちの大きな哄笑が、こだましている」

海底にしのぶ「三火(みほ)」が見たならば、それは大きな夜光虫がいる陸に見え、恐れをなして逃げうせたことでしょう。

小泉八雲は冷静に観察し、楽しみます。「礼儀作法も心得」た「上流階級の人間のようにねんごろに酒盃をくみかわしていた。芸者への接し方も、いたって丁寧である」
そして小泉八雲は日本人への思いを語り、警告します。そこは皆様でお読みください。

小泉八雲が好きになった美保関。この夏、三日月の形をした愛らしい入り江を端から端へと歩きました。いろんな角度から見る美保関は、いろんな表情を見せてくれました。小泉八雲が愛した夜の美保関は、もしかしたら透き通った青い海に映った、本当は存在しない小泉八雲が想像する、あるいは幻想の港町だったのではないのでしょうか。

そして、美保関の町は、岩肌に沿ってある町とは別に海の底にも奇麗な美保関の町があるのではないのでしょうか。エビスさんもワニに足を食べられたのではなく、ついつい海底の美保関で遊びすぎ、閉まり始めた扉に挟まったのでは。そうです、浦島太郎のように。

美保関の海
おしまい

小泉八雲と一緒に旅すると、いろんな物語が生まれ、ついてきます。

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