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『古代国家の形成と出雲国の誕生』学術書をヒントに謎解きの旅へ

『出雲国風土記』と加賀の潜戸と佐太神社 ―

書籍紹介

古代国家の形成と出雲国の誕生-一大王権の確立と部民制の進展―。著者・吉松大志、発行・松江市、発行日・2024年3月29日、定価・800円(税別)、A5判106ページ

書籍表紙

はじめに 古代史研究書から魅力ある観光地を発見

古代史の学術書から旅物語の道案内を導くには、それ相応の知識と観光スキルが必要だと思います。ところがときに、古代史謎解きのヒントを丁寧に示した学術書の文章に出会うことがあります。素人の私など浮かれてしまいます。とくに出掛けたことのある所や、これから出掛けようと計画している所ならば心ワクワクです。

『古代国家の形成と出雲国の誕生』(以下本書と省略)は、書名からわかるように名所旧跡や旅行案内の書籍ではなく学術書です。「発刊にあたって」で、松江市長の上定昭仁氏は次のように述べています。
「松江市は、古代から現代にいたるまで、出雲国ならびに島根県域における政治権力の中枢機能が置かれた場所であり、政(まつりごと)に関する貴重な遺跡や、国宝松江城天守閣をはじめとする唯一無二の文化遺産が数多く残されています」「紀元6~7世紀のヤマト地方を中心とした中央と、出雲の豪族たちとの関りについて、宮内庁書陵部編修課主任研究官の吉松大志先生に執筆していただきました」。専門的なことを分かりやすく古代史好きの素人ファンに紹介した書籍です。

「島根に暮らす人と島根を旅する人のコミュニケーション・サイト」の『島根国』で取上げたのは、本書で紹介された島根半島のとある地域を是非、直接訪ね、五感で感じ、考えてほしい、そんな箇所を発見したからです。吉松大志氏(以下、吉松氏と省略)も本書48ページで「余談ですが」とページを割いて説明します。

また、今回は省略させて頂きますが、本書の「はじめに」に綴られた、いわゆる「つかみ」が、素人の私の好奇心を魅了し、古代と現代の構造的な共通点も意識させてくれました。

「昭和に繁栄を極めた地方企業や百貨店は、中央の大企業や大型ショッピングモールの勢いに押され、併合・撤退を余儀なくされています」。全国どこでも同じで、「経済性・利便性を優先した没個性な社会へ突き進んで」います。ところが「地域でつくられた地元の商品も数多く陳列されています」。地方に寄り添った経営を行い「地域文化が色濃く残されているのです」。
中央の資本の側も学んでいます。かつての大量生産・大量消費を背景とした効率と利便を追求したバブルの時代の戦略では、企業間競争に勝ってもビジネスに敗北すると理解しています。地方の独自性、消費者の求める個性を大切にし、社会的な責任(SDGs等)を押し出します。

吉松氏は続けます、古墳時代は「中央の制度・技術・文化が大量に地方に流入した時期で、地方がそれをどのように許容・消化し、また自らが維持してきた古来の文化と融合させていったか、という意味で現在と非常に似通って」います。

この個所については古代史の解説よりになりますので、別の機会に紹介させて頂きます。ただ松江を訪れたなら本書を購入して頂きたいので「つかみ」(さわり)の部分を紹介した次第です。(購入は松江市)

旅行者の皆様には、「余談」の部分を掘り下げてご紹介します。「古代出雲にあった、覇権争い。ブルータスお前もか」。ちょっと大げさな言い方ですが、シーザーかクレオパトラにでもなった気分で読んでください。

松江城

出雲国風土記でぶつかる二つの勢力

今年(2024年)4月28日、衆議院島根一区の補欠選挙での自民党VS立憲民主の戦いは全国区の話題になりました。流れを止めるか、流れが本流となるか。中央が地方をコントロールできるか、地方の創造性と独自性が凌駕するか。結果はご存知のことなので省略すます。

歴史は繰り返されると言います。なぜ繰り返すだけで歴史から学ばないのでしょうか。人類の愚かさであり、無知からでしょうか。社会変化の節目、時代の潮目、これを見誤っているのでしょうか、それとも根本的に欲が勝るのでしょうか。

・吉松氏が指摘する疑問

吉松氏が「余談だが」(48ページ)と述べたのが、次の疑問です。
「『出雲国風土記』は、なぜ秋鹿郡に住む神宅臣金太理によって編集されたのでしょうか」。もちろん学識も人脈もある人物ですが、「編纂責任者である出雲国造は、なぜ自らが大領を務めた意宇郡の人物を選ばなかった」のでしようか。
まず、古代史の地名「秋鹿郡」と「意宇郡」の位置を確認します。「秋鹿郡」は宍道湖に面した島根半島、「意宇郡」は国道9号線の歴史豊かな「風土記の丘」のある地域です。古代出雲国の中心は意宇郡でした。

古代の出雲国・地図

さて、人選についてのたとえ話です。
とある国の王様が、周りの国と同じように自国の文化風土や習慣を調べることにしました。もともと力もあり文化を持っていた王様は、監修者(編纂者)は自国の家臣にしました。ところが資料を集め整理する現場責任の編集者を最近居ついた隣の国の者にしたのです。自国にも優秀な編集者はいます。隣の国の王様の家臣が編集することを疑問に思うものや、不安に思うものもいましたが誰も反対できません。王様は隣の国の王様に弱みでも握られているのか、それとも隣の国に服従させられたのか、家臣たちは蔭で話しました。やがて国の要職は隣の国の者に奪われて、ついには王様も山の奥へと追いやられました。編纂の話が上がった時から、隣の国の王様はこの国を奪うつもりだったのです。王様は分かっていても反対できなかったのです。

この謎を面白おかしく解くために、権力闘争に触れる前に『出雲国風土記』と古代出雲の神話と地理について簡単に触れておきます。

・そもそも『出雲国風土記』とは

日本の古代文学の頂点といえば、いろいろな考えもあるのでしょうが、大河ドラマの「光る君へ」の紫式部の『源氏物語』と、『徒然草』『竹取物語』あたりでしょうか。日本国の骨格を成した国造り物語となれば、次の三冊、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)、『風土記』(出雲国風土記は733年)できまりです。

『出雲国風土記』は、ほぼ完本の形で今日に伝わる唯一の「風土記」です。

713年(和銅6)に、中央権力より諸国に風土記の編纂命令が下されました。①郡郷名の由来、➁産物の品目、③土地の肥沃の状態、④山川原野の名の由来、⑤伝承の旧聞異事を記載しなさいと。今風に言えば文化人類学のフィールドワークです。

出雲以外に現存する風土記は、常陸(ひたち)・播磨(はりま)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)の五つの風土記です。

『出雲国風土記』の末尾には唯一、編纂者や完成年月日が記されていました。この記載が残るとは凄いことです。こうなると出雲国はすべからく神がかってきます。

中央から派遣された国司が風土記を編纂した他国とは違って、出雲国風土記の編纂者は地元の出雲国造・意宇郡の出雲臣広島で、資料を集め編集したのが秋鹿郡(あいかのこおり)の神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)でした。これまでこの態勢を流していましたが、吉松氏に教えられました。地方権力と中央権力のパワーバランスが集約されています。

出雲国風土記(古代出雲歴史博物館)

・国引き神話と実際の島根半島

『出雲国風土記』には、『古事記』『日本書紀』で取上げられていない「国引き神話」がありますが、逆に『古事記』『日本書紀』で取上げられた国造りの戦をイメージする「八岐大蛇伝説」や「因幡の白兎伝説」はありません。

国引き神話の詳細は『島根国』の「出雲神話と神々」をご覧頂くとして、概要を紹介します。

造り上げた出雲国を見た出雲の神様・八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅヌノミコト)が、須佐之男命や大国主命の子孫です、「小さい島だ」とつぶやき、朝鮮半島や隠岐の島、石川県の余っている土地を引き寄せて、今の島根半島を造られました。スケールの大きな神話です。

  風土記神話一話  国引き神話 ―出雲風土記より―

この神話、神話だけで終わりません。実際の島根半島にも三つの断層があり、明らかに異なる四つの地層でできています。神宅臣金太理が住む秋鹿郡は、この四つの地のひとつ「狭田の国」です。

四つの地で成り立つ島根半島

古代出雲史での中央と地方の攻防

・吉松氏が秋鹿郡にこだわる理由

これこそが本書のテーマである「部民制」と中央権力「継体天皇」(出生の秘密も含め関裕二氏の書籍を推薦します)の関係です。「余談」と断りながら、地方権力と中央権力の戦いが現れています。少し長くなりますが本文を転記します。
「当時の秋鹿郡の郡司は、刑部臣、蝮部臣、日下部臣といういずれも継体系王族やそれを支持する豪族により設定された部民の後裔豪族で占められており、さらにそこにはミヤケが設定されていたわけです。秋鹿郡が出雲国の他郡に比べて継体系王族の影響が強い特殊な地域」(47ページ)だったのです。中央権力の尖兵です。

・やがて壊れるパワーバランス

「ヤマトの王族の影響の色濃い秋鹿郡の人物が編集担当者となった背景には、継体を祖として血縁継承を重ねてきた天皇家と、それを支える奈良時代の朝廷の意向があった」(49ページ)のです。中央権力の絶対的な力を背景としたというより、傀儡でしょうか?

やがて出雲国国司の力も中央権力の前に弱体化し、今の出雲大社周辺へと追いやられます。それとともに熊野神社の勢力も弱体化したことは、すでに『島根国』で述べたとおりです。

   夫婦神の相愛と樹霊の宮 熊野大社(松江・八雲)

中央と地方の支配権確立の前哨戦でもあった『風土記』編纂の指導権とヘゲモニー抗争は、吉松氏が「はじめに」で指摘された「歴史の繰り返し」として見ることができます。中央と地方の軋轢というより「支配」の綱引きを考えると、『出雲国風土記』の「国引き神話」の見え方も少し変わってきます。編纂は過渡期的には出雲国の長に任すしかないが、情報はすべて把握し、文章作成の編集権も確保しろと、中央権力は指示したのでしょう。

すこしだけ道がそれますが、かつて文化人類学のフィールドワークにアメリカのとある特殊機関から多額な資金が堂々と出ていた時期があります。侵攻し支配する国の情報の収集です。軍事侵攻をスムーズに進めるだけでなく、権力者のみならず大衆の統治と文化的なコントロールのためです。太平洋戦争末期、アメリカは敗戦国となる日本の文化・風習はもとより生活や気質まで調べ切っていました。これが占領下の政策に活かされたのです。天皇の国民にとっての意味と歴史性、軍国主義と民主主義、家父長制と女性・嫁の地位、もしかすると子供を手なずけるにはお菓子だと調べていたかもしれません。捕捉しますが、文化人類学学会はあらゆる資金の援助を断ち、学問の自立を宣言しました。

『古事記』『日本書紀』において、中央権力の歴史観の体系化と正当性を示すことで地方豪族に制度の体系化と価値・文化の統合と画一化を図ったこととは真逆で、いかにして地方の政治・経済情報や文化・生活情報を隠さず吸い上げるか。とりわけ国司の力が強く、なにかあれば『祟る』力を持つ(※藤岡大拙氏)出雲国で推進するには、国造りの神話ではなく、また須佐之男命や大国主命のように戦う神ではく土着の力の強い神を奉ることからはじめたのでしょう。更には、自分たちは外からやってきたと媚びたのです。

  島根つれづれ草「20.中世杵築大社の霊威」 藤岡大拙

出雲国以外はすべて中央から派遣された「官僚」が編纂・編集したのに対し、出雲国は地元の有力者が指示し編纂しました。中央権力には猜疑心も不信感もあります。そこで、お目付け役というか監視役というかスパイを送りこんだのです。そして情報を実質的に把握し、次は滅ぼす手順をつくった。それが誰であったか。それこそが継体天皇の配下、秋鹿郡の神宅臣金太理とその一族でした。

本書の楽しみ方は、吉松氏自ら話された「中央と地方」の戦いです。それは経済的であり、政治的でもあり、そして文化・生活的でもあるのです。その古代の実証として、専門的な個所もありますが、なぜ画一化しなくてはならないか、地方の独自性をのこす方法はないのかと「考える」古代史ともなっています。

意宇の杜

おわりに 古代史は面白い

古代史は面白い。それは古代人が書き残した歴史ではなく、後世のひとたちが、遺跡や発掘品から物証的に推理した、想像力の結集だからです。もちろん、当事者は発掘品や地層分析から「科学的」だと説明されるでしょうが、所詮はいま発見された「物」に規制された推理に過ぎないのです。そのいい例が荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の発掘によって消えた単一王朝説です。

考古学を補うのが、政治学や経済学、哲学や社会学の視点でしょう。今回ならば政治権力のバランスシート。ところがこの考えは仲の悪い対立・戦争の社会を前提としています。もし共存を求め平和主義な関係であったならどうなるのでしょうか。支配者と被支配者が描く古代史の歴史とは真逆です。古代史研究の大方は、今の概念や状況に規制された思考をするのです。ヨーロッパ主義で概念に規制され思考については、クロード・レヴィ=ストロース辺りを読んでください。

吉松さんの問題提議は、まず自分の周りから歴史を考えてみる、そして他の人の意見や考えを否定するのでなく受け入れてみる。それが「おわりに」の文末の一節です。
「物事が単純化されがちな現代において、私たちがよりよい社会に変えていく鍵が隠されているとも感じます。簡単に答えは出ませんが、本書がそうした課題に対するほんのわずかな解決策につながることができるのならば、こんなに勝る喜びはありません」

みなさん考えてみましょう。そして自分なりの仮説をたててみましょう。そのためには無理のないレベルで勉強もしましょう。その最善の方法が固まった思考を壊すためにも直接訪ねることです。それも自分の金で(しつこいかな)。

そこで「おわりに」で締めた後に、秋鹿郡の二つの名所を紹介します。加賀の潜戸と佐太神社・田中神社です。是非、お訪ねください。ここに反出雲国・中央権力派の歴史があったと絵を描き訪ねてみると、貴方の想像力も高まるでしょう。

加賀の潜戸と佐太神社

・加賀の潜戸(かかのくけど)

  古代史の散策 神話と大地の神秘!神の生まれた洞窟「加賀の潜戸(かかのくけど)」

加賀の潜戸

・佐太神社

  風土記神話二話 加賀の潜戸と佐太神社

佐太神社

・縁切りと縁結び田中神社

佐太神社の近くに田中神社はあります。磐長姫と木花之佐久夜毘売を祀っています。

姉妹は天孫降臨した邇邇芸命(ににぎ)に嫁ぎます。ところが美しくない磐長姫は送り返されます。親の大山津見神は怒り、磐長姫を送り返したことで天皇家に寿命が出来ました。

磐長姫のお社は、邇邇芸命も祀られている佐太神社に背中を向けていて建っています。縁切り神社です。木花之佐久夜毘売のお社は佐太神社に向かい合って建ち、縁結びです。

田中神社

・意宇郷

  出会いと繋がりを導く神が住む郷、松江市意宇郷

最後に、出雲国風土記に関心のある方は、島根県古代文化センターが編集した『出雲国風土記』の購入をお薦めします。

古代文化センター刊行

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