• ~旅と日々の出会い~
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1話 義経は天にはばたけ、弁慶は大地に立ちつくす ― 松江生まれ、文武を会得した『弁慶』物語 ―

目次 
序 弁慶伝説のはじまり
壱 弁慶誕生の巻 三月三日桃の節句
弐 弁慶成長の巻 強い弁慶には訳がある
箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉)
  ①伝説に向かいし群像たち
  ②一瞬を駆け抜けた群像たち
参 弁慶凱旋の巻 義経の元を離れた訳は
箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉)
  ③『四都伝説』の意義 ―旅の心得―
四 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経北帰行の道)
五 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経飛翔伝説の道)
跋 弁慶、義経、静御前、永遠に

四 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経北帰行の道)

松江生まれの弁慶にまつわる「弁慶誕生伝説」。幼年から少年期と暴れん坊だった弁慶の人となりを理解する意味で、義経とともに平家と戦い、頼朝との軋轢から北帰行という逃亡の日々(義経北帰行の道)、そして義経伝説となる平泉からの北行逃亡の路を辿ってみましょう(義経飛翔伝説の道)。幼年・少年期の弁慶の心を探るカギがあるかもしれません。

栄光の戦い

京の五条の橋で出会い、五条通の東山の麓清水寺にて運命を決した弁慶と義経。奇しくもこの五条通りが、日本海側に沿って島根県に進む山陰道、現在の国道九号線です。

二人の歴史を振り返ってみましょう。
1151年3月3日、松江市の枕木山に生まれた弁慶は、15歳の時(1166年)、京に向かい、比叡山にて修行を重ねます。
1159年、源義経は京にて、朝廷に矢を引いた源氏の棟梁義朝と見目麗しき常盤御前の間に生まれます。反逆者の子として殺されそうになったところを、平清盛の慈悲(あるいは欲)と常盤御前の美貌によって死罪を免れました。
1174年(15歳)のとき、義経は鞍馬山より奥州平泉の藤原秀衡の元へ奔走。その後、父の仇平清盛や平家の動向偵察で何度か京に上ったと推測されています。この時期に、義経と弁慶は清水寺で無欲の主従関係を結んだのでした。義経が16~20歳。弁慶が24歳~28歳の頃です。

1180年、義経21歳のとき、義兄の頼朝挙兵を知り、奥州平泉より弁慶とともに馳せ参じ、黄瀬川で頼朝との初対面を果たします。

1180年、源氏の亜流・木曽義仲の軍勢は平家一門を西国に駆逐しつつも、京の町で略奪狼藉を働き、挙句の果てに後白河法皇を監禁します。

1184年(24歳)1月20日、頼朝の命で、京の宇治川の戦いにて木曽義仲を打ち破った義経軍でした。木曽軍団を追い出した義経と弁慶は、懐かしの京の町に凱旋します。秩序を取り戻した京の人々にも歓迎され、後白河法皇以下公家たちから身に余る接待を受けます。有頂天になったことでしょう。粟津で義仲は討死します。

1184年2月7日、源平合戦の序幕となる一の谷の戦いで義経は平家に勝利します。再び凱旋する義経を待っていたのは、後白河法皇からの官位という褒美でした。家臣たちにも与えられます。

8月6日に左衛門少尉・検非違使に任命。9月3日に従五位下に叙位。政治センスのない義経は、頼朝が主君である意味も、そして頼朝の描く武士体制(鎌倉幕府の体制)もまったく理解していません。受けてはならない官位を、後白河法皇から受けたのです。言われるがまま鎧兜を脱ぎ捨て公家の衣を着け、馬から牛車へと変わりました。頼朝に告げ口するものもいます。怒る頼朝ですが、軍人としての秀でた能力は利用に値します。

1185年(26歳) 2月17日の屋島の戦い、3月24日の壇ノ浦の戦いと平家に連覇し、滅亡に追い込みました。
魑魅魍魎が住む政治の暗闘に明け暮れた後白河法皇にしてみれば、義経や欲の塊の東国武士を手玉にとることなど簡単なことです。またもや有頂天となる義経でした。
誰の家臣で、何のために戦ったのかなど忘れています。というか義経には敵討ちという考えしかありません。武士社会を目論む頼朝にすれば、「この、ばかたれが~」です。

奢れるものは久しからず

1185年(26歳) 5月15日、平宗盛を護送して鎌倉に出向きますが、頼朝の怒りは収まらず鎌倉に入れてもらえません。詫びという、言い訳の『腰越状』を書き、弁慶が届けます。全体を理解できない義経の文面に頼朝の怒りは激増するだけでした。面談は叶わず。
1185年6月21日、平宗盛を連れて京へ。途中の近江にて斬首(6/21)します。

□この期間(7月初~9月末)に弁慶は、出雲に里帰りします(仮説)。義経は堀川の館で静御前と暮らしはじめます(ドラマにも歌にもなった上村一夫の『同棲時代』ですね)。

1185年8月16日、伊予守仕官、検非違使・左衛門少尉を兼務。頼朝に会ってもらえぬ当てつけか、後白河法皇からの伊予守任命を受けます。これで二人の関係は徹底的に決裂となりました。9月には頼朝の腰巾着の梶原景季と京で会いますが、元々が犬猿の仲、話などできなかったことでしょう。さらには弁慶がいない間、義経は後白河法皇の思いのままで、鎌倉など忘れています。

1185年 10月17日、頼朝から義経暗殺の刺客・土佐坊昌俊たちが送りこまれます。弁慶たちの応戦で追い返します。しかし、頼朝の本気度をまざまざと知ることとなったのです。弁慶の戻って来るのが「遅かりし由良之助です」。

刺客に、さすがの義経も現実を理解したのでしょう。ところが取った方法が、これまた政治センスもバランス感覚も皆無の策でした。軍人義経としての軍事対決です。
1185年10月18日、義経は後白河法皇に頼み込んで、頼朝追討の命を受けます。後白河法皇にしてみれば、既に政治決着は頼朝にありと確信していますが、共倒れを狙い。「あんさん、やってみなはれ」というところでしょう。一方、頼朝の義父・北条義時は、義経追討で挙兵します(11/6)。義時の後白河法皇との交渉が、鎌倉幕府の土台を築きます。

1185年11月3日 、義経一行の都落ち。フォークソングで歌えば「今日(京)の日はさようなら」「また会う日まで」「なのにあなたは京を出るの(に行くの)」と言ったところでしょうか。

●1185年11月、頼朝、全国に守護地頭を置く権利を得る(実質的な全国を軍事的な支配下に置く)。鎌倉幕府成立。

義経西国行き

「義経都落ち」と書くと敗北感と哀愁が漂います。暫くは義経側の発想で「西国行き」としてつづります。

1185年11月3日、義経は後白河法皇の命令の元、弁慶や静御前など二百騎ほどの軍勢で四国と九州を治めるために西国へと向かいます。格好つけなくてもよいのですが、平家連覇の栄光の一年と後白河法皇や公家からの賞賛が義経には刷り込まれているのです。
実際は、頼朝の脅威に怯えた後白河法皇がていよく追いだし、頼朝にすれば西国統治の種まきに義経を放ったようなものです。弁慶は十分に認識していたことでしょう。

平家を西に追い詰め滅ぼした義経は、こんどは西国へ追われる身となったのです。
陸路を西へ進み、摂津国大物浦(尼崎)から船に乗り、四国を目指したのが11月5日のことです。歌舞伎の『船弁慶』などご覧になれば面白いかと思います。

出版 白竜社

おだやかな船旅でした。ところが播磨国の書写山が見える頃、暗雲が立ち込め、強い風が吹きつけてきます。荒れ狂う波間から平知盛を長とした平家一門の怨霊が現れます。恐れおののく義経一行。しかし、「腐っても鯛」、義経は良いことを言うのです。「悪行のかぎりを尽くし、神や仏に背いた報いで自ら滅んだような者たちのやること、いまさら驚くに値しない」と。ここに親の敵とたちあがった軍人義経の生き様が現れています。弁慶は仏法に従い祈祷します。

都落ちから奥州平泉への逃走 (義経北帰行の道)

弁慶の祈祷か、義経運か、船は転覆をまぬがれます。しかし帆柱を失い、舵も壊れた船は闇の中を漂い続けます。一夜が明けると陸地に漂い着きました。ところが出発した同じところです。(11/6)
全てを失い、みなは絶望します。しかし、頼朝と戦い敗れた訳ではありません。義経一行は、摂津から大和を越え、吉野へと向かいます。ここで運命の静御前との『吉野の別れ』があります。

11月11日、後白河法皇は義経追討の命を頼朝に下します。これが政治と言うパワーバランスでしょう。義経は朝敵となり、頼朝は官軍となりました。

「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」です。
すべてを失った義経一行は、一度、京に戻り鞍馬・岩倉へ(1186/4/20)。そして弁慶が修行をした比叡山に匿われたのです(6/20)。京のスズメは歌います、「義経が京にいる」と。
ここも安住の地ではありません。頼朝の支配も未だ及ばぬ西国に再度向かうか、それとも弁慶誕生の地であり、義経の三代前の源義親が島流しになり反乱を起こした出雲・隠岐か、義親の父源義家に助けられ、かつ幼少の義経を育てた奥州平泉の藤原かでした。

義経一行が選択したコースは、比叡山を滋賀県側の琵琶湖に下り、木曽義仲が平家の大軍を打ち破り京への道を開いた「倶利伽羅峠の戦い」砺波山方面でした。ただひたすら奥州平泉へと向かいます。歌舞伎でも有名な安宅の関の『勧進帳』です。

さて、その頃、最愛の愛人(正妻ではありません)、白拍子の静御前はどこにいたのでしょうか。
1185年11月17日、静御前は頼朝側の家臣に吉野で捕らわれ、京に幽閉監禁されていました。静御前奪還に向けて義経一行は京に隠れ忍んだのでしょうか。弁慶にはそんな心意気もあったでしょう。しかし軍人義経にはありません。ただ己が生き延び、頼朝を討つ道のみが義経の課題でした。

1186年春、義経の子供を宿した静御前は、窮屈な駕籠に入れられ鎌倉に護送されます。鎌倉に着いたのが3月11日のことです。義経は京に隠れています。
1186年4月8日、義経の子を身ごもる静御前は、鶴岡八幡宮にて、頼朝や政子の前で舞うことを強制されます。
「吉野山、峰の白雪、踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづ、しづのおだまき、繰返し、昔を今に、なすよしもがな」。なんと健気な女子(おなご)でしょうか。その頃、義経は比叡山辺りで酒でも飲んでいたのではないのでしょうか(邪推です)。儚くも一途な静御前に涙するのは私だけではありません(?)。

屈折した性格の頼朝は激怒します。頼朝を褒め、命乞いでもすると思ったのでしょう。女子の気持が理解できないのは源兄弟のDNAでしょうか。それとも当時の男の鈍感さだったのでしょうか。あるいは政子という北条家の尻に敷かれた頼朝の、義経に対する嫉妬かもしれません。
静御前は妻政子の口添えで一命を助けられます。静御前の生き様に共感したと伝えられています。どうでしょうか? 政子も嫉妬深く独占欲の強い女性です。頼朝の憎悪が欲情の裏返しだと悟ったのでしょう。
出産した義経の男児は由比ガ浜に沈められました。静御前はその後、京に戻ったとも、子供を追って自害したとも、義経を追って平泉に向かったとも伝えられています。埼玉県には、静御前のお墓があります。

奥州平泉への道 (衣川の戦い)

1187年(29歳)2月、藤原秀衡を頼って奥州平泉に落ち延びた義経一行でした。静御前が頼朝の前で矜持の舞をした一年後のことです。さて特筆すべきことは『吾妻鏡』の一文です。弁慶たちに守られた義経は、正妻の郷御前(頼朝の家臣河越重頼の娘。母は頼朝の乳母である比企尼の次女)と子供を伴って平泉に身を寄せたのです。「おいおい、静御前はどうなるんじゃあ」ですね。

「業(郷)や業、業の定めを、繰返し、昔も今も、好きな性の径(みち)」とでも義経に詠わせましょうか(郷御前は「さとごぜん」と読みます)。それとも健気に、「しづやしづ、しづの名前を、繰返し、衣川を堀川に、流れ変えたし」としましょうか。(堀川は、静御前と暮らした京の館があったところ)

ところが、この年の10月29日、頼りとした秀衡は病死します(?)。ほんまかいな。

後を継いだのが藤原泰衡。義経が平泉に身を寄せている幼年期の頃、ともに学び遊んだ義兄弟(血縁関係はない)です。頼朝は泰衡に、義経を撃てと命を下します。父秀衡の遺言で義経を匿う泰平でしたが、ついに屈服したのです。1189年4月30日、襲撃を受けて衣川館にて義経は弁慶の仁王立ちに守られ焼身自決をします。

兵どもが夢の跡

江戸時代の1689年5月18日、松尾芭蕉は門人の會良をともない、江戸千住から150日の「奥の細道」の旅に出ます。義経が亡くなったと言われる1189年から丁度500年後のことです。

衣川館の前に立ち尽くす芭蕉のなかを、杜甫の『春望』が過ります。
「国破れて山河在り。城春にして草木深し。時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ。別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり。家書万金に抵(あた)る。白頭掻けば更に短く。渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す」
いつ読んでもしみじみと響く漢詩です。

芭蕉は、栄華を極めた藤原三代、輝かしい一瞬を駆け抜けた義経の、虚しく散った威光を燃える夏草の果てに陽炎として見たのでしょう。

芭蕉は、栄耀した藤原三代と義経を『春望』を引用して『奥の細道』のなかで詠ったのです。
「泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口を固め、夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と。笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」

さて、悲運の名将義経と共に弁慶は亡くなります。
で、終わってしまっては『弁慶伝説』は面白くありません。これより『義経北行伝説』(義経飛翔伝説の道)が始まります。義経たちはここで亡くならず、泰衡のはからいで生き延びるのです。平泉から三陸海岸へ、そして北海道から大陸へ。それが『弁慶伝説』後半の始まりです。

次回は、いよいよ艱難辛苦の旅、新しき伝説の始まりです。『義経北行伝説』(義経飛翔伝説の道)に、弁慶幼年期の人間形成の解が、そして山伏姿の父の面影が・・・。

つづく

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