目次 序 弁慶伝説のはじまり 壱 弁慶誕生の巻 三月三日桃の節句 弐 弁慶成長の巻 強い弁慶には訳がある 箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉) ①伝説に向かいし群像たち ②一瞬を駆け抜けた群像たち 参 弁慶凱旋の巻 義経の元を離れた訳は 箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉) ③『四都伝説』の意義 ―旅の心得― 四 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経北帰行の道) 五 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経飛翔伝説の道) 跋 弁慶、義経、静御前、永遠に
跋 弁慶、義経、静御前、永遠に ―あの素晴らしい愛をもう一度―
大胆な仮説をしました。
夢を、大志を忘れた義経から心が離れていく弁慶。弁慶の気遣いに追い続ける静御前。思いは、ブランコのように同心円状の弧を揺れ、周期は次第に早くなり、遠心力となって飛び出そうとしています。
話を深める前に、原点となる静御前と義経の出会い、吉野山の別れからの静御前の足跡を振り返っておきましょう。そこに心変わりの理由が見えてきます。むしろ、弁慶だけでなく静御前の心移りの意味が浮かびます。
比叡おろしの吹く寒いある日、木曽義仲の軍勢が一掃され久しぶりに訪れた安寧な都大路を、従者に守られた美しく気品ある女人(にょにん)が歩いています。前方より騎馬にまたがり颯爽と駆け抜けていく若武者に立ち止まりました。
鎧兜に身を包み、日焼けした顔には青年らしい凛々しさと気負いが溢れています。自力で切り拓く荒々しさと、そこはかとなく漂う気品と憂いに、静御前は暫し佇み見送りました。淡く締め付けられる高鳴りが、まだ来ぬ春の喜びに似たときめきであることを意識するのは、数か月後のことです。
駆け抜けた若武者こそが、木曽義仲の不埒な軍勢から都を解放した源九郎義経(26歳)です。1184年、静御前16歳の日のことでした。
遡る二年前、全国は大旱魃に襲われ、都の道端も餓死者で溢れました(黒澤明映画『羅生門』をご覧ください)。寺社では雨乞いの祈祷が行われましたが、一向に雨が降る兆しはありません。
7月のことです。後白河法皇の祈雨修法の命に応じ、神泉苑にて百人の美妓による雨乞いの祈祷の舞が奉納されました(15歳以下の未婚女子)。百番目に登場した白拍子(しらびょうし)の静御前が舞い始めるや、美声は天を揺るがし、天女の舞は頑なな竜神をも震撼させたのです。天は戦慄き、空に電光が走り、篠突く雨におおわれたのでした。
後白河法皇から直々に褒美を賜った静御前です。それは白拍子としての定めを知ることでもあります。接客の舞楽だけでなく、共寝の遊女としての運命です。母・磯禅師が求めたことであり、そのための日々でした。
後白河法皇から二年の寵愛を受け、白拍子としての定めや掟も戯も染み込み、寝屋で聞く権謀術数を知りつくした静御前です。そこに颯爽と現れた義経でした。老成した男たちとは違う、自らの力で勝ち抜く純粋な猪突猛進さを感じ、ひととして、女として、悦を感じるのでした。
人の世には定めという運命があるとしたならば、白拍子の娘として生まれ、最高の芸妓と美声を披露する舞台を得る道も、苦界にいつつも「情愛」の綱を渡るのも務めです。静御前の前に、二つの運命が大きく開いたのです。
静御前が再び義経と会うのは、一の谷の戦いに勝利し、都に凱旋したのちです。
一の谷で活躍した義経ですが、頼朝による叙官から外されたのです。腐る義経は家臣を連れて江口や神崎の色里へと出掛けるのでした。都のスズメの噂話は頼朝にも、静御前にも、もちろん後白河法皇にも届きます。
静御前が後白河法皇に義経の不運を憂いたのでしょうか、それとも後白河法皇が頼朝の権力の拡大を危惧したのでしょうか。白拍子のせつない愛と後白河法皇の権謀術数が交叉したのです。それはバラバラだった義経と静御前の運命を固く結ぶ「愛」と、権力抗争に利用する「政治」の出会いでもありました。
後白河法皇は義経を呼びつけると、都警備の検非違使左衛門少尉を命じるとともに、公家作法の指南役として静御前を遣わしたのです。
堀川の館にて、二人の密事が始まります。色里にはない白拍子静御前に愛狂う義経と一途な欲情を受け止める静御前は、増長する頼朝への策をめぐらす後白河法皇の筋書きを駆け抜けるのでした。ひとつ予定になかったのは、静御前が心の底から義経に惚れたことです。一人の男を愛するとは白拍子としあるまじきことでした。
義経から寵愛を受ける静御前に、「女」としての性(さが)だけでなく、義経の生き方を支えようとする自己犠牲の精神と、他利のための自己実現の生き方が誕生したのです。白拍子静御前に、なぜ生きるかの萌芽でした。
盛者必衰のことわり。平家を壇ノ浦の戦いで滅ぼした義経は、その半年後(11月1日)、都落ちして西国へと向かうこととなります。
初めこそ後白河法皇の描いた、奥州は藤原家、東国は頼朝、西国は義経というトライアングル支配の見取り図がありました。しかし摂津河尻の戦いで家臣の大半を失った義経は、凋落の道を転げ落ちていきます。
こんな逸話があります。狩装束の恰好をした静御前が同行する11人の妻妾を警護したのです。義経への女としての思いを超越した、自己の立ち位置を明示した静御前の意思を感じます。静御前はただ男に従う「女」ではなく、運命を共にする「妻」に昇天したのです。
11月5日、大物浦を船で出発した義経たちは暴風雨に会い(『船弁慶』、ここで弁慶は松江の出身だと口上をします)、転覆。浜に打ち上げせれた義経、弁慶、静御前たちは、伝説の雪の吉野山へと向かうのでした。
連れ添う静御前の心に飛来した思いは、愛人ゆえの叶わぬ愛に惑うより、最後まで添い遂げる意思と、義経の抱いた思いを実現する共感でした。
義経の苦難に寄り添うことが静御前の愛であり思いの証しであったように、弁慶にとっても義経を守り抜き、再び夢の舞台に立たせることが忠義、仁の具体化でした。義経への二人の思いは、家臣の裏切りが続ければ続くほどに、より強固となり、やがて二人の思いは立場を越えて対立するようになります。ただ意識したのは弁慶のみでした。長く仕えたというよりは、時代に染め抜かれた唯男史観からです。
吉野山の吉永院で5日間潜居し、二人ひとつ屋根の下で過ごした義経と静御前でした。近づく頼朝の包囲網に、吉野山上千本の金峰神社に逃れるのです。これより先は、女人禁制の霊地、役行者のみ入山を許される山です。
いつの世も男は単純で、愚かです。静御前を排除するのです。義経をともに盛り立てようという大義ではなく、己の思いが一番という先の見えない自己顕示力という欲です。
弁慶は、「義経が好きならば見送るべきだ」とでも言ったのでしょうか。「白拍子の役割はここまでだ」と説教でもしたのでしょうか。弁慶は静御前を追い返すのでした。昭和の時代にも聞いた男のご都合主義です。美学化した映画が高倉健と藤純子の『昭和残侠伝』です。
「見るとても、うれしくもなし、ますかがみ、こいしき人の、かげをとめねば」
義経も薄情です。雪の吉野山に追い返すのでした。修験行者の道を進むとなれば、弁慶の知恵と人脈に従うしか方法はありません。次第に逃亡のイニシャチブは弁慶へと移行します。
時代という特殊性、時代に規制された文化・民俗・信仰を捨象して、今の価値観と心情で語ることは筆者の独りよがりの観念に過ぎません。しかし、推理してみましょう。
義経を励ますために暫くは静御前を同行させたが、いざという時、追っ手をまく「餌」(おとり)にしたのです。あるいは静御前の行く末を案じたのでしょうか。今ならば後白河法皇や母の磯禅師の元に帰れると。再び都に攻め入る時に、静御前がいた方が便利だと判断したのかもしれません。どちらにしても、静御前は都合よく切り捨てられたのです。
裏切ることのない静御前を、心の支えともなった静御前を、結束を体現した静御前を、弁慶は、そして義経は捨てるのです、無残にも雪の吉野山に。彼らは吉野山の峠は越えることが出来ても、時代という波を越えることは果たしてできるのでしょうか。
翌日、静御前は捕獲されます。弁慶義経は修験者の道と人脈を使い生き延びます。伊勢から紀州の熊野、そして奈良から比叡山へと戻ります。そこで義経は義経派の公家と連絡を取り合います。新たな決起か、次なる逃亡か。頼朝の包囲網の中でも、義経は仲間に守られ過ごしたのです。
その頃、捕らわれの身となった静御前はただ一人、ひと月に及ぶ厳しい追及を受けるのでした。開放されたのがひと月以上も立った12月の中旬のことです。磯禅師の暮らす都の北白川に辿り着いた静御前は、身も心もボロボロでした。義経弁慶に捨てられ、付き添った家臣に裏切られ、そして頼朝に忠義を尽くさんと欲剥き出しの男たちに自白を迫られた静御前でした。支えとなったのは、またいつか見ん義経のために生き抜く決意です。そして母として感じる新たな生命の息吹だったのです。
後白河法皇が建立した左京区の法勝寺に静御前は暮らします。義経の子どもを宿したことは鎌倉に伝わりました。同じ情報は、比叡山に隠れ忍ぶ義経側にも伝わっていますが、接触はありません。静御前も義経の消息を知りません。伝えなかったのは誰の意思でしょうか。
答えは、弁慶であり、磯禅師であり、後白河法皇、全員の意思です。磯禅師や後白河法皇は静御前の身を案じ、弁慶は義経を案じ、そして静御前の思いと行動を煩わしく感じたのです。
弁慶には、静御前は気が強い行動的で、愛欲の深い白拍子としてか見えてなかったのです。あるいは愛欲の先に、弁慶と同じ義経の為に戦おうとする「仁」に気づいていたかもしれません。弁慶には許しがたきことでした。自然と義経を惑わす「女」としてすり替えたのです。
1186年の2月14日、静御前は母磯禅師とともに梶原景茂によって鎌倉へと護送されます。身ごもの静御前でした。知らせは比叡山の弁慶の元に届きます。鎌倉でいかなる責めがあるか、お腹の子どもはどうなるか、静御前はどう振舞うか。道中奪いかえる策もあったでしょうが、そんな動きは微塵もありません。
静御前の義経への行動に、自分と同じ思いを感じつつも弁慶の心には、白拍子としての静御前を蔑視する思いも交差します。嫉妬深い北条政子が傍にいても、頼朝は静御前を囲い、裏切った静御前を義経追討の手段にすると。全国の義経支持派の家臣が摘発され、殺害される状況でした。
追い込まれた義経弁慶たちは結論を導き出します。奥州藤原家に身を寄せる逃亡計画です。再び修験者弁慶の経験と人脈が活かされます。戦うために生き延びるか、生きるために生き延びるか。
鎌倉での静御前の日々はすでにお話ししまた。4月8日、頼朝の前で舞い、7月29日、産み落とした男児を由比ガ浜に捨てられ、9月16日、鎌倉から都へと向かいます。着いたのは一月後の11月ごろでしょうか。
その頃、義経一行は平泉へと雪の東北の尾根を縦走します。1187年の2月ごろ、義経は郷御前と二歳の子供を連れて奥州平泉に到着します。静御前が嵯峨野の草庵に暮らし始めた頃です。運命というよりは周りの意思によってすれ違う二人でした。
赤ん坊を殺されたことは深い傷となり、再び白拍子に戻ることも、後輩の指導の意思もなく静御前は過ごします。磯禅師は身を案じ、嵯峨野の庵に静御前を住まわせました。
一年も過ぎた頃、付き添いの白拍子・琴柱(ことじ)によって静御前に、義経が奥州平泉にいるとの朗報がもたされます。静御前二十歳、1188年の晩秋のことです。
それまでにも義経の動向は、後白河法皇経由で磯禅師に伝わっていたことでしょう。伝えなかったのは磯禅師の意思であり、後白河法皇の思いです。静御前の義経への思いの深さと強さに、伝えたならば必ず行動に移すと危惧したのです。
直ぐに出発すると思う琴柱でした。ところが躊躇し、思案する静御前です。義経には妻の郷御前と子どもも一緒だと話したことを後悔する琴柱でした。
草庵に珍しくお香の紫炎が揺れます。ここに移り住んだある朝、垣根に置かれたお香です。このお香こそ、後白河法皇の使いとして義経の元に移り住む折、渡されたお香です。静御前と寝屋を共にするとき義経が好んだ香りでした。
「ほととぎす花橘の香をとめて啼くは昔の人や恋しき」
尼僧となった建礼門院(※)が大原の草庵で、壇ノ浦の戦いで入水したわが子安徳天皇や平家一門を偲んで詠んだ和歌です。
※ 高倉天皇の皇后。安徳天皇の母。父は平清盛。壇ノ浦の戦いで入水するが生き残る。
「いざさらば涙くらべんほととぎす我も憂き世にねをのみぞなく」
建礼門院を訪ね来た義父後白河法皇でした。建礼門院は生きぬことをやめ、浄土へと旅立ちを待つのです。
静御前は心の中で静かに二首を反芻するのでした。
郷御前への遠慮、弁慶への憎悪、老いた母への後悔、生れると直ぐに殺された赤ん坊への悲哀が、糸車となり回り、もつれ合う。心の綾に涙して静御前は思いだすのです。
「吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」
静御前は自問自答します。「なぜ」あなたは行くの、行ってあなたは「何を」するの。建礼門院の和歌を詠むうちに、生きている義経に生きているうちに会おうと意思がかたまったのです。あなたは「誰の為」に行くの。その「誰が」が、朝雫のように心に落ちたのです。義経の夢の為に、その夢の中にこそ亡くなった赤ん坊がいて、静御前がいるのだと。宮中で学んだ己の立ち位置と政治バランスの感覚が情念として結晶したのです。殺された赤ん坊の為にも、夢途上にて追放された義経の為にも。そして白拍子静御前として育てた後白河法皇と磯禅師のために。
嵯峨野の草庵に燃ゆる微かな火が、静御前の心にも燎原の炎となって広まって行きます。白拍子として生まれ、白拍子として生き、翻弄された日々の中で、唯一無二信じたことこそ、好きな人の為に生き抜くということであったことに。それが都大路の出会いでした。
静御前20歳の比叡おろしの吹く季節のことです。
都はるみなら、着てはもらえぬセーターでも編んだことでしょう。静御前は、一途な愛を通したのです。それは弄ばれた日々からの解放であり、精神の蘇生でもあったのです。添いとどけることに意義があるのです。
あの日、なぜ吉野山を下ったかの後悔を静御前は二度としないと決めたのでした。
東海道を早馬が走り、修験道をマタタビが駆け抜けます。静御前が動いた情報は鎌倉にも、奥州平泉にも伝わりました。
静御前と琴柱の二人は義経の北陸街道ではなく、鎌倉に運ばれた東海道を選択しました。三島・箱根を過ぎ武蔵の国に入り、やがて利根川に沿って旧鎌倉街道の古川に至ります。そこで旅人から、奥州平泉のことを知らされたのです。4月30日、衣川館の戦いでの義経たちが自害した話でした。
噂話を信じるか信じないか。行くべきか行かざるべきか迷った「思案橋」は今でも古川市の下辺見にあります。栗橋には静御前の墓があります。
躊躇する静御前に、突如、現れた汚れた法衣をまとう托鉢僧。文を渡すと小声で注げます。「利根川の川辺に行け」。草陰で文をひらくと懐かしい義経の文字で「宮古で待つ」と一言記されてありました。義経は自害していない。私を待っている。迷うことなく確信した静御前です。
草むらから現れた農夫から渡された野良着をつけ、野菜のはいった籠を背負うと肥溜めを運ぶ小舟に乗る二人でした。川岸を地元の武士が走り抜けていきます。
静御前が京を立った知らせは比叡山の修験者によって弁慶の元に届けられたのです。弁慶は迷いました。藤原泰衡と練りあげた義経自害のシナリオが崩れる危惧に。一時は旅路の露に切り捨てようとさえ考えたのです。
郷御前との子どもと無邪気に遊ぶ義経の声がします。夜は夜で寝屋に呼びつける女たちの奇声が響きます。軍人義経の姿はどこにもありません。天下人としての夢も行動もなくした、セミの抜け殻と化した義経が欲のままに月日を重ねています。一方、頼朝の藤原家への追求は日を追って強くなります。やがて頼朝の勢がくることでしょう。
しかし、なぜ逃げるのか、その解を義経から見つけることはできないのです。生きるために逃げるのか。逃げるために生きるのか。すべて虚しきことの問答でした。むなしきことの問いは弁慶を覚醒させました。
なにをなすべきか。幼少の頃の弁慶島(現在の松江市)でのことが脳裏をかすめたのです。生きるため、島を抜け出す目的のため、小石を袖に入れて運んだ日々のことが。生きて人の為に再び生きることを知った修行の日。めくるまく子供の頃の生き抜く情念と稚拙な苦悶が回転するのでした。
裏切られ、けがされ失意のままに生きる屍となった静御前が、義経の生存を知ると行動に移した思いと行動力こそが腑抜けの義経を蘇らせると。弁慶の役割は、静御前を遠ざけるのではなく、静御前の生き様を、そして愛という忠義を義経に注ぐことであると。
義経に欠けている大義を静御前は持っているのです。忠義を貫こうとする弁慶の意思と同じように、静御前は愛を貫こうとしています。相容れぬ思いではなく、共に夢を実現する原動力となる意思があるのです。
弁慶は、苦難を乗り越える静御前に涙するのでした。己の数々の過ちに、静御前の生き様に、なによりも一点の曇りもなく貫く愛に。
頼朝の影響のまだ及ばぬ東北の地の修験道者に号令を発します。静御前を東北へと無事に導けと。御身を掛けて実行せよと。弁慶が義経の断りもなく発したのです。今、担ぐべきは静御前の宿す男児だと。そのためには静御前、その人だと。
頼朝にも筒抜けでした。静御前の行動は頼朝を不安にしました。必ず頼朝を討ちにくると。頼朝も奥州追討を急ぎます。静御前に義経の子種を決して宿してはならぬと。
知らぬは波間に揺れる静御前と琴柱だけです。ただ二人には見えはしない希望の羅針盤と磁石がありました。静御前の一途な愛と夢を実現しようとする意思あり、希望の新天地です。
静御前は夢を見ました。この人の「夢」の実現を支えたい女としての静御前と、この人を通して「夢」を実現しようとする静御前です。二人は常に一緒にいることで実現できると悟ります。白拍子として生まれたことを後悔しつつ、白拍子として生きたことに感謝する静御前。「今、貴方には私が必要」と寝言に目が覚めました。朝露に濡れた目頭に手を添える静御前でした。
郷御前と子供を江刺で預けると弁慶は三陸へと急ぎます。義経には右も左も北も南もなく、ただただ動物となって続くだけです。
弁慶は急ぎます。宮古へ、宮古へ。静御前に文が無事渡った知らせは届いています。利根川の川下りと太平洋の航海の無事を願い、頼朝の追っ手を上手く巻くことです。
静御前の元に義経からの第二の文が届いたのは銚子に着いたところでした。「会える日をたのしみにおる」と書きなぐられた文字に静御前は嗚咽します。来てよかった。漁師は弁慶からだと文を渡しました。吉野山の詫びと宮古の八幡宮を訪ねてほしいと綴られています。
弁慶が詫びている。静御前を頑なに遠ざけてきた弁慶も待っている。
喜びの心とは逆に太平洋は時化ています。瀬戸内海とはまったく異なる荒々しい波に慄きつつも静御前の心は膨らむのでした。
宮古でも静御前に会えなかったのです。ここでの合流は弁慶と弁慶の手足となって走る修験者の一部しか知りません。それも漁師に、山男に、農夫に、物売りに身を隠している修験者。
弁慶は老人の鈴木三郎重家を置くことにします。韻を含め静御前が来たらこの先の浅虫で待つと教えるのでした。驚く鈴木三郎重家に念を押します。ここまで来れば弁慶の仲間が陰に陽に静御前を助けます。もし裏切って血迷ったことに走ろうとも、彼らが静御前を守り抜くのです。二度と吉野山の過ちを犯さないために。
弁慶は三陸の海を眺めています。冬の日本海とは異なる茫洋とした静けさが広がっています。ひとたび荒れると地鳴りとなってうねり、大地を削り取っていきます。弁慶の心に飛来したものは何だったのでしょうか。
義経の描いた『夢』に感動し仕えた弁慶でした。静御前も義経の『生き様』に感動して愛したのです。弁慶の『仁』、静御前の『愛』。その表現や形容は異なっていますが、義経に抱いた敬意は同質のものでした。静御前が燃えれば、弁慶も燃えたのです。恋敵というのではなく、義経への思いは自分の方がはるかに大きいのだと示し合ったのです。
ところが尊敬する義経が、吉野山を境に変わりました。それも見るも無残な日和見主義者に。
五条の橋や清水寺で戦い夢を語った義経でも、一の谷の戦いで勝ち凱旋した義経でもありません。頼朝の追討に怯え悲しむ義経であり、後白河法皇にただただ盲従する義経でした。それでも、弁慶は変わらぬ「仁」で仕えようとしたのです。静御前も「愛」で仕えたのです。自分を犠牲にしても他人(義経)を助けようとする「利他」の心です。その先には、己の不幸な生い立ちを回顧するのではなく、幸せという社会を夢見た理想の心が形成されていたからです。
私利私欲に走る後白河法皇、権力と支配に固執する源頼朝とは異なる、「親の仇」という純真な義経の心が、二人を引き付けたのです。その意味では、男と女の差こそあれ、弁慶と静御前が同時期に、義経の前に存在したことは不幸なことかもしれません。
同じような物語があります。漫画『あしたのジョー』の矢吹丈(ジョー)にとっての「力石徹」と「白石葉子」の存在です。矢吹丈がいなければ無理な減量をして死ぬこともなく世界チャンピオンになった力石徹。矢吹丈さえいなければ白石財閥の女帝として経済界に君臨した葉子。しかし、矢吹丈という存在は、それを許さなかった。義経と同にジョーには人を引き付ける魅力がありました。逆に力石徹に出会うことでボクシングという亡霊にとりつかれた矢吹丈。弁慶がいるから権力の地位に手が届くと思った。誰かの為に生きる白石葉子の心に出会ったがために、誰かのために生きる意味に気づいた矢吹丈。しかし、すべてが遅かった。義経と弁慶、静御前と同じように。
弁慶が旅立って月日が流れ、静御前は宮古に着きます。
この町には、義経の男児を授かりつつも母子ともに亡くなった逸話が残っています。
おしゃべりの老人鈴木三郎家重は孫のような静御前に話します。この逃亡劇は弁慶自身が計画し、この逃亡のコースこそ義経と静御前の新たな人生にしようとしていることを。何よりも鈴木三郎家重が告げたかったのは、弁慶が心底静御前に詫びていることを。そして虚しい事であるが、弁慶は初めて女子(おなご)を愛してしまったと。それが静御前、その人だと。
「待っている」といったのは、義経ではなく、詫びる弁慶であると知らされた静御前でした。泣き崩れる琴柱を慰めながら思うのです。そんな予感がしていたことを。私の為にこんなことをする義経ではないことを知って恋した静御前です。
「やつは愚か者だ。主君の女子に惚れるとは。それも卑しきものの出、ゆえか。己の定めというものを知らぬものか・・・」と言ったところで静御前は遮ります。
「それ以上は許しませんぞ」
「言葉が過ぎましたな」と頭を叩いた鈴木三郎家重でした。
弁慶は一回りも下の白拍子・静御前に魅かれていく心に気づきます。しかし、仏法を学ぶことはあっても愛については無知な弁慶には、心を整理する手立てがありません。ただ流れ傾く感情とともに低い方へと流れるのでした。
静御前も同じです。白拍子でもあった母の磯禅師の訓えのままに芸と身体を磨き、時の権力氏・後白河法皇にさえ身を委ねた静御前は、言葉を弄ぶのではなく実行する力強い弁慶という生き様に魅かれたのです。
運命とはいたずらなものです。虐げられた階級に生まれ、権力者の道具として生きてきたがゆえに、愛という弧線が震えても認識することはできなかったのです。落ち延びる義経の為に弁慶は、二度にわたって静御前を切り離したのです。弁慶を恨みつつも静御前は従いました。そして恨んだのです。それが今、解き放たれようとしているのです。
目的を失い刹那主義となった義経に対し、再建という次の目的をもった弁慶は「弁慶義経飛翔伝説」の経路を実行するのです。弁慶は、情ではなく主義に動いたのです。むしろ主義があったからこそ、ここまで義経に従ったのです。
島根に生まれ、島根にひとり暮らす幼少のみぎりより修行で学んだ仏法が弁慶を形成したのです。
人生とは思い通りにはならない「一切皆苦」、すべては移り変わるもの「諸行無常」、すべては繋がりの中で変化する「諸法無我」です。今をあるべきものとして受け入れつつも、あるべきもの(悟り)へと戦い(修行)続けることに生きる意味が付いてくるのです。現実と描く理想との乖離こそが、弁慶の行動の原点でした。むしろ乖離が大きれば大きいほど冴えわたり、より創造的な行動に追いこんだのです。
中海の小島に一人捨てられた幼少の弁慶に、「父と名乗る」山伏は兵法や仏法とともに、「この小島から連れ出すことは容易いことだが、自分の力で脱出しなさい」と、自分で活路を切り開くことを与えたのです。弁慶は小石を拾い懐や袖に入れ中海に運び、渡ることのできる小道を造りました。自らの力で、小さいことの積み重ねを通して、目的を持つ大切さ、それを実行することの尊さに気づきました。時に中海が荒れたため築いた道が壊れることもあったでしょう。しかし諦めることなく「一切皆苦」と受け入れました。終わらぬ石を積む行為に、時に虚しさや焦燥感を感じたことでしょう。しかし、小道を完成し、渡り終えた時に弁慶は身をもって仏法を会得したのです。道をつくることに本質があるのではないと。己は天に活かされているに過ぎないと、「諸行無常」に気づきました。それこそが自然や社会の要求に応じる「諸法無我」であることに至ったのです。
不屈の弁慶は、幼少の頃の一人生き抜くことの中で学んだ仏法を血肉化したのです。
松江市の弁慶生誕伝説の秘話は、弁慶の生涯を通し、とりわけ平泉から生き延び、北海道へと渡る「弁慶義経飛翔伝説」の旅路があるからこそ冴えわたるのです。
人間弁慶伝説は、松江誕生・成長の物語と奥州平泉からの逃走の物語がセットになっているのです。義経とともに過ごした源平合戦は義経伝説に過ぎないのです。
わざわざ島根まで来て弁慶を産んだ弁吉。懐妊すると鉄を食べ続けた伝説と、奥出雲地方・斐伊川に関わるたたら製鉄、そして蝦夷の阿弖流為が衣川での戦い(789年)で使用した特殊な鉄製の刀。阿弖流為の碑は、義経に弁慶が忠義を約束した京都清水寺の境内にあります。出雲国の弁慶伝説と東北地方の逃亡の弁慶伝説は、鉄や川の共通項によって完結するのです。偶然なのか定めなのか、皆様が決めればよいのです。
さて、舞台は前回の岬へと戻ります。
蝦夷地・北海道へと渡ったのは弁慶と義経の二人だけでした。わずかに残った家臣も十三湊で頼朝の放った追っ手との戦いで犠牲となりました。
津軽に残した修験者に託した静御前への文が願い通り渡り、船の手配が付いたならばこの岬から船影が見えるはずです。弁慶は今日も願いを込め待つのでした。
宮古で鈴木三郎重家から静御前に文が渡り、要らぬことまで話したと重家の文が修験者から届いています。それから数か月後、浅虫に忍ばせた修験者から十三湊の船宿が伝えられ、二人の修験者が旅の僧侶となり付かず離れず付き添っています。悲しいことは、八戸で琴柱が流行病に亡くなったことです。静御前の思いに共感することがなければ、都の白拍子として艶やかな日々を過ごしたことでしょう。弁慶の元にまたひとつ仏像が増えました。不器用な弁慶が流木で造る仏像は、嫌う義経の眼を避けて大木の陰に隠し供養をしていいます。
日本海の水平線は今日も、昨日も、一昨日も空と混じり変わることはありません。(ここまでは前回もお話しました)。
数日前から義経がひとり出掛けるようになりました。弁慶には有難いことです。歩けば鋭気が蘇り、再び英気が湧くものです。誰かと交わっているようです。酒気を帯び、微かに白粉の香りさえします。義経が動き出し、何処かで喜怒哀楽を表していることに安堵しています。
義経が話を切り出さない限り弁慶から聞くことはありません。義経が口を利かないのには、何か考えがあるのでしょう。あるいは北海の果てまで連れてきた弁慶を憎んでいるかもしれません。
弁慶はアイヌの民からもらった天日干ししたホッケを焼き、義経の分を残して眠りにつきました。今日も出掛けたようです。きっと食べることなく寝るでしょう。
流木を拾い薪にし、見よう見まねで憶えた保存食用の魚を干すと岬に来ました。きれいな海です。十三湊に着いたと連絡を受けてから音信は途絶えました。十勝平原を経てこの地に辿り着いて幾月過ぎたことでしょうか。朽ちた柱に刻むキズを数えないと分からなくなりました。
静御前、貴女は向かっているのですね、と呟く弁慶でした。
「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほう」
柿本人麻呂だったでしょうか。弁慶の記憶も乏しくなりました。読むことも、話すこともない日々が続いています。たまに会うここの民との会話も身振り手振りがほとんどです。
「弁慶いるか」
久しぶりに聞く自分の名前に弁慶は振り向きました。
「弁慶、俺は行くぞ」
懐かしい義経の覇気のある声に、こちらに向かう義経の姿を凝視する弁慶です。義経の後に異国の服に包まれた大男が三人つづきます。彼らの腰の刀に、弁慶の手は自然と足元の棒に伸びるのでした。
弁慶の横に並ぶと海を見詰める義経です。弁慶も立ち止まった異国の男たちの身動きに注意しつつ海を見詰めます。
潮風が義経のぼさぼさの髪を一層乱していきます。
「弁慶、こんな狭い国には飽きた。それに逃げるのも面白くない」
溌溂とした義経がいます。弁慶が求めている義経がいます。この姿を弁慶は待っていたのです。軍人義経です。
「弁慶、俺は行くぞ」
心の中を虚しい風が抜けていきます。
「行くぞ」
義経に返事をしていないことに気づきました。
「はい」
海面すれすれに海鳥が飛んでいきます、一羽、二羽、三羽と。義経の元にはこの弁慶しかいません。
腰の刀を抜くと義経は空を切ります。一の谷の義経に、屋島の義経に、壇ノ浦の義経に豹変します。雄々しく優雅な義経の太刀が蒼い北海の海を断ち切りました。
(お見事)。弁慶の中で歓喜の身震いと畏怖の震えが激しく交わります。初めて対峙した五条の橋の上の義経がいます。その時から御曹司に仕えてきました。ところが、もうひとつの弁慶がいます。静御前がここにくるまで待ち続ける弁慶が。
「聞きたいか」
吐き捨てるように言うと獲物を見つけた眼光が弁慶を射るのです。それも厳しく問うように。
「聞きたいかと訊いているのだ、弁慶」
打ち上げられた浜で、ただただ運を呪う義経ではなく、鵯越(ひよどりごえ)の逆落としを笑いながらすすめた義経です。暴風雨のなかで屋島だけを見詰めた義経であり、勝つためには手段を選ばなかった壇ノ浦の義経がいます。
「弁慶、聞きたいかと申しておるのだ」
聞けば行かねばならない。そうではない。聞かなくても行かねばならない。それが家臣の宿命というものです。弁慶の「仁」の生き様でした。
「ご出発は」
「そうではない、弁慶。聞きたくはないのか。なぜ、訊かぬのだ」
弁慶は肩膝を付き、今にも垂れそうになる頭に耐えます。
静御前を待つことはできない。それが弁慶の、静御前の定めというものだろう。義経には定めはない。取り戻した軍人義経の気負いが海風さえ止めました。真綿で首を詰めつけるような間が過ぎていきます。
「弁慶」
弁慶の肩に手が置かれた。弁慶は深く首を垂れるのでした。
「弁慶、さらばじゃ」
閉ざされた喉に、乾いた喉に、言葉がつぶれた。
「この国にも、さらばじゃ、弁慶」
唇を拭う弁慶は嗚咽を押し殺すかのように叫んだ。
「分かり申した。いつご出発なされます。弁慶も、準備を・・・」
弁慶の静御前が揺れている。これが定めというものである。出雲の国に生を受け、山伏に僧侶に教えを請うた時からの運命である。待ち望んだ義経がここにいる。その義経が事を興そうとしている。弁慶は従うのみである。待ち望んだ静御前が波にのまれていく。
「分かってはおらぬな」と爽やかな声が返った。
「行くのは、わし一人だ」
見上げた先に海を見詰める義経の背中があります。
「後ろに控える奴らと、海を渡るのはわしだけだ。弁慶はここまでだ。よくぞここまで俺を支えてきてくれた。礼を言うぞ」
話そうとする弁慶を遮り、義経は続けるのでした。義経は子供にも諭すように、穏やかに、そして饒舌でした。
弁慶が小屋を出るのを待っていたかのように三人の異国人が小屋に入ったのは五夜前のことでした。流ちょうな大和言葉を話す異人は、単刀直入に海を渡り大陸の奥地で、数万の騎馬隊を鍛えてくれと申し出たのです。褒美も官位も望むものならすべて与えるというのです。蝦夷の地の狐も人を化かすのかと、義経は「なぜ、拙者か」と問い返しました。
源平合戦の一部始終を話し、兄頼朝の仕打ちを怒り、後鳥羽上皇の陰謀を逐一説明したのです。義経も知り得ぬ話に、神が遣わした使者に違いないと信じことにした義経でした。連れていかれた先で、酒を振舞われ、久しぶりに白粉の臭いの付く女人を抱いたのです。女も異国人でした。
弁慶殿にはご内密にと口止めされもされたのです。この地であろうとも、知るものが二人になれば情報も漏れやすく、我々の危険も増すという。
海の向こうの国を亡ぼすために日本に来たと教えられたのは次の日のことです。その国を滅ぼしたなら次は源頼朝だと。そのためにも義経の力が必要だと三拝九拝したのです。義経の消えかかった炎は一挙に煽り立てられました。
数万の騎馬軍団も、異国の寝屋の女も魅力的でした。しかし、それよりも義経の心を掌握し離さなかったものは、意のままに動かせる騎馬軍団とともに戦う壮大な絵巻物語でした。
三人はこの両日に出発したいと問い詰めました。危険はそこまで来ているという。
決心すると義経は早かった。
義経は穏やかな顔で弁慶を見下ろすと腰を下ろし弁慶の手を握りました。
「そこで気が付いたのだ、弁慶。わしは腑抜け者だった。お前には随分苦労を掛けたようだ」
義経の頬を一筋の涙が伝わるのです。
「勿体ないお言葉」
「腑抜けのわしに、ようここまで仕えてくれた。礼を言うぞ」
「ならば弁慶も、お供させてくだされ」
義経は三人の異国人を手招く。
「弁慶よ」、義経は続けるのです。
二度文を書いたことを。一度は江刺を出た折、「宮古で待つ」と。二度目は「会える喜びを」と。弁慶は震える肩を押さえるために義経の手を離し、岩を握りしめました。
「あれは、郷ではなかろう」
静御前を呼ぶには、義経の自筆の文が必要でした。そこで一計を案じ、急ぐ道の途上、一言、義経に書かせたのでした。
「・・・」
弁慶は俯くことだけでした。
「責めているのではない、弁慶」
それに気づかぬ己の不甲斐なさを詫び、弁慶の機転に感謝した。
「そやつらと異国での戦いを話すうちにな、気づいたのだ。それでよい。わしは奴のことを忘れておったのだ。ちがう、捨てたのだ」
義経の前に三人は膝づいた。
「弁慶。待ってやれ。奴もそれを望んでいる」
「わたしも・・・」
「言うな。それにな、異国では弁慶の力も及ばぬ。それに彼らも俺一人来いという」
一人の男を義経が手招く。弁慶の元に金子の入った袋と立派な太刀と薙刀、そして反物が差し出された。
「弁慶、さらばだ」
「義経殿」
「その金子は二人のものだ。ここの民には十分な金子をおいた」
「わたくしも・・・」
義経は海を振り向いた。
「本当にさらばだ。弁慶。世話になったな」
「義経殿」
「奴には、俺は死んだと言え」
「できませぬ」
「弁慶、最後だ、世話になったな。縁があれば会うこともあろう」
義経は軍人でした。腑抜けとなり、おなごにしか興味を示さぬ義経でしたが、戦の匂いのする男たちが現れると戦好きの義経に戻ったのです。その義経は、新しい戦いの場を得ると颯爽と異国へと船で旅立ちました。
浜辺には浜茄子の赤い花が咲いています。花言葉は「悲しくそして美しい」「あなたの魅力にひかれます」。
義経の指示に従い、旅立つ義経を見送ることもなく、世話になった民にも告げず弁慶も旅立つのでした。亡くなったとも、連れ去られたとも、日常品のすべては風に流れ北海の岬に朽ち果てることを望むように置いたままです。
弁慶は新たな地で静御前を待ち続けます。ときおり狼にも見える犬を連れた古老が食い物を届けてくれます。話すことも、笑うこともありません。まるで時を告げる使者のように、日が昇る時に小屋の前に立ち、日が昇るのを見て茂みの中へと消えます。
静御前は来るのだろうか、弁慶を許してくれるのだろうか、それよりも義経のいないことに気づき悲しまないのだろうか、気に止む日が続きます。熊笹の擦れ合う音に、小枝の散る音に、枯草に忍ばせた刀剣を握りしめ伺うのでした。もしや義経の文かと飛び出すこともあります。
満月が欠け、再び満月となり、欠けた朝のことです。木戸が激しく叩かれました。そこにはもっこに乗る藁に包まれたが女人が横たわっていました。
「静御前殿」
吉野山で別れた静御前の面影はまったくありません。雪の中にあっても燃え続けた静御前の面影も、義経との別れに打ちひしかれても強い意思に包まれた雰囲気もありません。
艶のない髪、朝陽に照らされても乾いた土にしか見えない肌、なによりも全身から漂う腐敗臭。微かな吐息に生への執着を感じるだけです。
何者かが運んだのでしょう。姿を見せないところを見ると異国人の仲間でしょうか。油紙に包まれた小物があります。そこにはせんじ薬の調合方法と滋養食の作り方が記され文と材料がありました。
(もしや義経殿が)と見渡す弁慶ですが、静御前の身体を抱きかかえ運び込みます。この日のために準備した寝具に置くのでした。胎児のように丸くなった静御前は震えはじめました。囲炉裏に薪をくべます。
痩せ衰えた静御前、目を開けることもなく、吐息さえ切れる静御前。書かれた文に沿って煎じ薬をつくる弁慶です。
狼犬とともに穀物をもって現れる老人。伸びきった髪と髭だらけの顔からは表情も意思も窺うことが出来ません。大切に荷を置く仕草に、狼犬の頭をなでる姿に、老人の心根が伝わってはきます。静御前を運んできた者たちも同じ仲間でしょうか。弁慶の知るもっこの編み方とはいささか異なっています。どこから静御前を運んできたのでしょうか。
目を覚まさぬ静御前をかいがいしく看病する弁慶です。
匙(さじ)で煎じた薬草と粥を意識の戻らぬ静御前の口元へと運びます。これほどまでに近くで静御前をみたのは一度しかありません。別れの吉野山のことでした。義経に付いていくと乞う静御前を叱り飛ばしたときです。なんと酷いことをしたことでしょうか。
汚れを落とした黒髪に微かな艶が戻ってきます。固く目を閉じ、汚れた衣を剥ぎ取り、身体を拭き、義経から渡された新しい衣をつけました。肌からは、懐かしい都の香りがしてきました。静御前は、生きようとしているのです。
蝦夷のあの岬に流れ着き、ひたすら「待つ」ことを目的に日々を過ごしてきた弁慶に、新たな目的ができました。静御前が目を覚ますのを「待つ」日々です。不安も過ります。静御前は弁慶を許してくれるのかと。なによりも義経をひとり大陸へと送った不甲斐なさを責められるのではないと、怯えつつも待つのです。待つということ自体には、不安と後悔などなく喜びしかありません。
どんな力が働いたのでしょうか。義経の背後についた途方もない権力者とは誰なのでしょうか。戦うために生まれた義経は、新しい兵力と敵を知り、凛々しき姿で颯爽と駆け巡っていることでしょう。義経の天性であり、運命でもあります。待つ中で再び燃え上がる心を失くした弁慶は、ある意味で要なしえぬ存在となったのでしょう。
外の熊笹が不自然に音を立てました。狼犬の男が来た知らせです。
男に連れられ沢に下り、少し上ると湯気が立ち込めている一角がありました。温泉です。静御前が回復したら連れて行けと言っているのでしょう。頷く弁慶に文が渡されました。
懐かしい義経の字で、函館のとある商人宿を訪ねろと記してあります。義経の逃亡を手助けした弁慶でしたが、義経が、弁慶の逃亡を助けようとしているのです。
弁慶と静御前は出雲へと向う廻船から北海道の陸地を見送ります。
狼犬の男が去った夜、静御前は目を覚ましました。弁慶しかいないことに驚くことなく、すでに事情は知っているのか義経に触れることなく礼を述べるのでした。安宅の関で義経に詫びたように弁慶は辛く当たり、苦しい思いをさせたことを涙とともに詫びるのです。静御前は慈悲に満ちた眼差しを注ぐのでした。
辛いことよりも、いつか真心に触れることが出来る希望に生きてきましたと微笑む静御前です。弁慶からの文に、災いに襲われると突然現れる方に助けられたと微笑み、弁慶が待っていてくれることが励みでしたと見つめるのでした。
義経の代わりに静御前に従い守り抜くと口にした弁慶に、静御前は優しく首を振るのです。
「この人生を大切に過ごしましょう」
弁慶には「この人生」が分かりかねます。定めに生かされ、教えに活かされてきた我が人生が、今、自らの意思で生きよと運命から突き放したようです。
「この人生が、分かりません」
「待っていてくれたのではないのですか。それがこれからの人生です」
「待つ?」
「思い続けるということです」
静御前は呟くように話します。「思い続ければ、希望の未来と相手の良さが見えてきます。待つことで学ぶのです」
赤ん坊の時、働きに出かけた母弁吉の帰りが待てず坂道を這った姿を思い出します。小島を脱出しようと石を運んだ日々、義経の為にと修験者たちと策をめくらした日々。弁慶は日々を反芻します。「待つ」とは。衣川館の戦いを演じて逃亡の日々がはじまったとき、次の御大将を生むべきは静御前と計画し、待ち続けました。
ところがいつの日か、静御前への思いが募ることで弁慶の心にこれまでの「待つ」とは異なる不思議な感情が生まれました。待ち続ける喜びです。
夫を求めて安来に来た母弁吉が、父との出会いを持ちました。父は、島を脱出する弁慶を見守り続け待ちました。弁慶が待ったのも同じ境地であることを理解したのでした。
「待つ」。弁慶は静御前その人を待っていたのが、これからの日々であることに思えてきました。
静御前は幾分顔を赤らめ「待っている人がいたから、私は生きようとしたのです」。
それが義経でなく弁慶自身であることを静御前は告げることなく身を任すのでした。
「静殿、あれが国引きで生まれた地です」
二人の前に出雲の國が開けています。
弁慶と静御前がその後どうなったのか、出雲の国に上陸したのか定かではありません。
ただ奥出雲の山奥には、源氏の落人伝説が戦後までありました。
ここで弁慶の話は終わりとします。
さて、壮大な仮説の幕が下りる時に成りました。そのご義経は成吉思汗となったとの伝説もあります。
島根に訪れの折には、東北へと逃亡した義経、弁慶、静御前を思い出してください。
文中でもお話ししましたように、「弁慶誕生伝説」は「弁慶義経北行飛翔伝説」と対になった伝説です。北海道へと渡るうちに静御前の存在の意味に気づき、義経との仁義の別れを通して存在の意味、「待つ」ことの大切さを学んだのです。
晩年の弁慶・義経・静御前ことを想像することで、弁慶誕生のドラマをより深く感じ取ることが出来るでしょう。
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