• ~旅と日々の出会い~
SNSでシェアする

1話 義経は天にはばたけ、弁慶は大地に立ちつくす ― 松江生まれ、文武を会得した『弁慶』物語 ―

目次 
序 弁慶伝説のはじまり
壱 弁慶誕生の巻 三月三日桃の節句
弐 弁慶成長の巻 強い弁慶には訳がある
箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉)
  ①伝説に向かいし群像たち
  ②一瞬を駆け抜けた群像たち
参 弁慶凱旋の巻 義経の元を離れた訳は
箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉)
  ③『四都伝説』の意義 ―旅の心得―
四 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経北帰行の道)
五 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経飛翔伝説の道)
跋 弁慶、義経、静御前、永遠に

五 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(弁慶義経飛翔伝説の道)

岬で待つ

弁慶は、今日も昨日も一昨日も北海の岬に立ち、荒々しく波打つ紺碧の日本海を眺めています。明日も明後日も眺めているでしょう。
法衣には汗と埃だけでなく血糊や慟哭の涙も染み込み、ものの哀れをなしています。粗く繕った衣の裂け目に日本海の風が吹き込み、破損した法螺貝のごとき虚を響かせます。
戦や逃走に明け暮れた日々が全身に傷となり、顔や手に皺となり深く刻み込まれています。心も傷ついていることでしょう。固く閉ざされた唇、深皺に潰された瞼、ささくれ立った耳たぶ。そこにはあの精悍な弁慶を想像することはありません。しかし時折、しわがれた瞼の隙間に鋭利な眼光を走らせるのでした。

武蔵は、この岬になぜ来るのでしょうか。過ぎ去った年月の感傷にふけるためでしょうか。夢破れた懺悔でしょうか。それとも、水平線の遥か彼方から行くと約束した人を待っているのでしょうか。立ち尽くす弁慶からは何も窺い知ることはできません。
潮風がやむのを待って弁慶は振り向きます。今日も足元には笹の葉に包まれた魚介があります。近くに暮らす魚獲りで暮らす民が置いたのです。

弁慶の姿が今日はありません。義経の奇声もしません。海鳴りと弁慶を呼ぶ民の声がするだけです。それから何回目の凪が来ました。弁慶の姿を見るとはありません。待つことに疲れ、目立たぬ奥地へと去ったのでしょうか。あるいは新たな夢と目的を見出し、彼方の大陸へと旅立ったのでしょうか。

義経に関わる地

弁慶が暮らしていた萱の家に小動物が住みつきました。訪ね来る民もいなくなりました。再び戻ることのない旅路についたのでしょう。オホーツク海を渡りベーリング海峡へ、宗谷海峡渡り樺太へと、あるいは見果ての国へと旅立ったのでしょう。

浜茄子(はまなす)の赤い花が咲いています。花言葉は、「あなたの魅力にひかれます」。
もとより義経・弁慶の北行逃亡の路は、情念こそあれ、展望の曖昧な情況に流された行動でした。定めというには浄土のない旅路です。浜茄子の花言葉は、「楽しい旅」。

さて、すこし時間を遡りましょう。

永遠に。弁慶も天にはばたく 

衣川の戦いでの「弁慶の立往生」は有名な話です。強い弁慶といえども無数の矢を受けては抗し切れません。やがて薙刀を杖にして仁王立ちの姿勢で息絶えたのです。「弁慶の立往生」はここからはじまりました。義経は炎に包まれた衣川館のなかで妻と子供を殺害し自害します。
そこまでが歴史話です。ところが義経は、武蔵坊弁慶、鈴木重家や亀井重清たち10数人の家臣と遁走したのです。そこには藤原泰衡の演出がありました。

平泉から暫し真っすぐ北上し、江刺で太平洋側へと折れ、『遠野物語』の遠野を経由して三陸海岸に向かうのです。義経北行コース(義経飛翔伝説)は、平泉町、江刺市、遠野市、釜石市、宮古市、久慈市など三陸海岸を経て、青森県、北海道へと続きます。

地図をご覧ください。二つの仮説を立てます。

義経飛翔伝説の路

【仮説 ①】衣川館の偽装から北行遁走のシナリオを作成したのは誰か?

①頼朝への復讐から次のビジョンを描いた軍人・義経その人。
②生きる意味も希望も失った義経に代わって、理論派の弁慶が立案。
③逃亡を準備した藤原泰衡の策に乗った目的もない、偶然に委ねた根無し根の旅。

安宅の関以降、頼ることしかできぬ義経や、老いた他の家臣に変わり、知識と交渉力のある弁慶がイニシャチブも指導も握った。②を仮説とします。

【仮説 ②】義経北行遁走は計画的か、場当たり的だったか?

①三陸海岸への蛇行もすべて事前に計画したコース。
②情況や環境の変化でコースを修正しながら、最終目的地に向かった。
③頼朝追討軍に追われた場当たり的な逃亡。どこかで落人集落を築き余生を過ごす。

一貫性のないコースに見えますが、安宅の関以降、臨機応変な対応で活路を見出した弁慶の意思と統率力で目的地に向かったコース。②を仮説とします。

修験者として鍛錬し、山人との交渉力を有し、鉄のような意思をもつ弁慶だから牽引できたのです。弁慶の我慢強く辛抱強い意思は、幼年期に過ごした島根県松江にて形成されたのです(弁慶島の脱出や修行)。

北行伝説には四つのターニングポイントがあります。

①真っすぐ平たんな道を北上するのでなく、江刺から険しい北上山地を越えて三陸海岸へ向かうコース変更 (十三湊の情況変化か、人減らし?)。
②厳しいリアス式海岸の三陸北上 (京、鎌倉からの便りを待つ?)。
③十三湊への再びのコース変更 (北海道への旅たちを再度決意?)。
④直接大陸に渡るのではなく北海道への渡航 (弁慶が最後まで待ち続けたのは?)。

四つのターニングポイントを経て弁慶岬の弁慶の立ち姿があるのです。

ここからは『義経北行遁走伝説』ではなく、牽引する弁慶の立場になって『弁慶義経飛翔伝説』の視点で、古い音楽を交えてお話します。弁慶の人となりをお楽しみください。なお、写真は数十年前のものです。現在と変わっていることをご了解ください。

弁慶の日々
義経逃亡後の平泉・藤原泰衡の死と滅亡

その前に、「義経・炎の衣川館からの脱出」(1189年4月30日)を演出した藤原泰衡と奥州平泉の顛末に触れておきます。

頼朝の徹底した義経、藤原泰衡壊滅作戦が実行されます。
1189年1月、義経が京に戻る密書を持った比叡山の僧が捕まる(義経に決起の意思があったのか、それとも頼朝の偽作か)。

2、3、4月、頼朝、奥州追討の宣旨を院に要請。(密書は危機感を煽る偽造)
4月、頼朝の要請に押され、院にて泰衡追討の検討。
4月30日、泰衡、頼朝の圧力に負け、数百の兵で義経の衣川館を襲撃。義経自害の演出。
6月13日、泰衡、義経の首を鎌倉に送り、恭順の意を表す。しかし匿ったことは同罪と追討が発令。
6月26日、泰衡、弟の忠衡が義経を匿った張本人として殺害し、鎌倉に伝えるが叶わず。
7月19日、頼朝、自ら大軍を持って奥州追討。
8月11日、泰衡、阿津賀志山の戦いで頼朝軍に大敗。
8月21日、泰衡、平泉の館に火を放ち逃亡。
8月22日、頼朝、平泉に。
8月26日、泰衡、義経を匿ったのは父・秀衡であり自分を許してくれと書状を送る。しかし、頼朝は許さない。
9月3日、諦めた泰衡は北海道へ逃亡を図るが、比内郡贄柵(現秋田県大館市)で裏切った家臣の河田次郎によって殺害される。享年35歳。河田次郎も頼朝によって殺害される。

重要なポイントは、義経が炎の衣川館を脱出した4か月後、栄華を極めた藤原一族も滅びたことです。その情況変化は逐次、義経に伝わっていたのでしょう。

これからの『弁慶義経飛翔伝説』は、難所のコースを踏破する時間を推理しつつ、泰衡苦悩の4か月も合わせて想像しましょう。

ターニングポイント① 夜が明けたら(平泉から江刺へ)  

炎の衣川館を抜け出した弁慶義経の一行は、北上川に沿って北上します。北に向かう歌に、『北帰行』『北上夜曲』があります。どちらがよいかはそれぞれの好みでしょうが、弁慶の心を覗くには『北上夜曲』がよいでしょう。白百合、初恋、銀河、生きる・・・(後半へと続く謎かけ)。

江刺への北上は穏やかな道のりです。桜は満開か、それとも散り始めか、田植えにはまだ早く、一行の先には眩しいばかりの春の日差しと若葉が手招きします。
江刺の多聞寺には、義経の家臣・鈴木三郎重家の笈(おい)が奉納されています。老いた身には重く、これからの難所には邪魔だったのでしょう。鈴木三郎重家については、宮古で詳しくお話します。また、玉﨑神社などにも義経伝説が残っています。

ここまでの工程は二、三日程度です。鎌倉の督促に泰衡はすっとぼけています。
弁慶義経飛翔伝説全体から推測するに、第一次の目的地は津軽半島の根元の十三湊でしょう。ここは藤原氏が支配する宋貿易の拠点の港です。大陸にも、北海道にも、そして京都にも、島根にも、落ち延びるには便利な港です。それに道も平たんで、このまま進むのが定石です。ところが、険しい北上山地に変更しました。

なぜでしょうか。この先で、藤原泰衡を裏切った家臣が待ち伏せしているのでしょうか。それとも三陸海岸で待っていると誰かから連絡があったのでしょうか。弁慶一行は大きく方向転換をしました。地元の方や旅で行かれた方はお分かりでしょう。非常に険しい山々と大木が茂る秘境です。険しい峠の多い北上山地の獣道を、弁慶に導かれ進みます。
三陸海岸には、仲間の乗る船が、そこには鎌倉を追放された静御前が乗っているとでも知らせが届いたのでしょうか?

歴史話では、衣川館で義経の正妻郷御前と4歳の女の子も亡くなっています。義経が生き延びたということは二人も生き延びています。さて、妻と子供の二人はどうしたのでしょうか。大河ドラマにもなった高橋克彦『炎立つ』でも描かれた『阿部一族』の支配下でもあった江刺で、二人は預けられたのでしょうか。義経北行逃走に郷御前の名は出てきません。(余談ですが、森詠『七人の弁慶』では、弁慶の父は阿部一族です)
郷御前は、頼朝家臣・河越重頼の娘、重頼の母は頼朝の乳母です。頼朝の命で義経の正妻となります。1185年11月12日、重頼は頼朝によって誅殺されます(義経・頼朝対立の頃)。哀れ郷御前です。

若葉の茂るころ(江刺から遠野へ)  

険しい山々(たとえば葉山の辺り)の住田町を流れる五葉川の岩場には、弁慶がつけた1.5m程の足跡と、義経が手を掛けた松「判官手掛けの松」があります。(弁慶の身長は2メートル。デカ足です)

葉山
弁慶の足跡

住田に向かう姥石峠、さらに遠野に入る赤羽根峠は、険しい原生林の闇の峠です。また、遠野から三陸海岸の釜石へと抜ける笛吹峠も深き樹林と吹き曝しの尾根の要塞に似た峠です。弁慶に続く義経は、生への執着か、兄頼朝への憎悪か、あるいはやっと目覚めた権力への欲でしょうか。荒行に耐えた修験者・弁慶がリードする一行にとって、頼朝の追っ手以外は鬼や山姥、妖怪であっても仲間です。
遠野には、義経が風呂に入った風呂屋、愛馬が亡くなった駒形神社、弁慶がつくった続石などがあります。

ターニングポイント② 幻の船影(三陸海岸)

笛吹峠を越し釜石に入ると、海を見渡す山の上に法冠神社があります。逃げ行く義経の心模様を表すような神社です。ここから船影を探したのでしょう。

法冠神社
法冠神社

泰衡が義経の偽の首を鎌倉に送ったころでしょうか。泰衡奥州藤原家は、頼朝の和睦を期待する雰囲気に満ちていたことでしょう。

弁慶義経一行は釜石より三陸海岸に沿って北上します。今でこそ、舗装された道があり、トンネルで平たんな道のりですが、リアス式海岸の三陸海岸沿いの道は、激しくくねり険しい山と谷の連続です。なぜ漁船を使用しなかったのでしょうか。
熊野か鎌倉から来る船を待ちながら先を急いだのでしょうか。なかなか来ないバスに、次のバス停まで歩く気分です。頼りとする援軍の幻を求め、あるいは愛しい静御前の面影を抱き、弁慶義経の一行は北上します。次の港ではきっと会えるだろうと。

宮古と西新宿を繋ぐ神社

宮古には長く滞在したようです。沢山の伝説と遺跡が残っています。
横山八幡宮もその一つです。横山八幡宮に大般若心経百巻を奉納します。また、家臣の1人の鈴木三郎重家は、老齢のために近隣の近内(ちかない)という場所に残り宮守となりました。

横山八幡宮
横山八幡宮

鈴木家は、もともと紀州熊野で熊野神社の祭祀を世職としていました。義経の家臣となり奥州まで逃れることとなったのです。鈴木三郎重家の末孫が鈴木九郎で、応永年間(1394~1428年)、多摩郡中野郷(今の中野坂上の成願寺辺り)に流れ着きます。
荒れ地の武蔵野で馬を飼い生計を立てました。馬市(奥州特産の名馬を持ち帰ったのでしょう)で大金を得た鈴木九郎は、郷里熊野神社のおかげだと、十二社熊野神社を建立します(※)。 

※サイト『全国の出雲の神々』「新宿西口の激変を見守ってきた『十二社熊野神社』」をご覧ください。

鈴木三郎重家を残したのは老ではなく、援軍の船が来なかった詰腹かもしれません。弁慶義経一行は黙々と北上します。

旅路・女遊戸
ターニングポイント③ 久慈・浅虫から竜飛岬 津軽海峡冬景色

弁慶義経一行が北海道に渡った港が二つ推測されます。ひとつが十三湊、もうひとつが竜飛岬です。どちらもあるとしておきます。太平洋側から北海道に渡らなかった理由として、江戸時代の海鮮問屋の生涯を描いた司馬遼太郎の『菜の花の沖』の一読をお薦めします。太平洋側からは潮の流れで厳しい航路です。

冬の三陸も下北半島もしばれます。青函連絡船で北海道に渡っていた頃は、夏休みとなれば青森駅も函館駅もリックサックを担いだ若者であふれます。お盆の頃は、大きな荷物を手にした家族や若者でも溢れます。水上勉『飢餓海峡』も青函連絡船のことです。
三等船室の畳に寝転ぶと聞こえてきます、石川さゆりの『津軽海峡冬景色』が。下北半島と津軽半島を、寺山修司は頭に打ち下ろされる斧と表現しました。
旅する者には、乾燥した潮風も、半島の蒼さも、どことなく異国の風情に感じるのでした。夜行列車の中で食べ残したふやけた冷凍ミカンを食べる女の子、運よく駅で手にしたイカ飯に食らいつく男、斜に構えた一人旅の男たちはトリスを取り出すのです。

弁慶は、義経はなにを思い津軽海峡を渡ったのでしょうか。頼朝への怨念、それとも静御前への断ち切れぬ哀憐でしょうか。弁慶は何を考えたのでしょうか。新たな地・蝦夷での新体制でしょうか、それとも明日の食でしょうか、はたまた郷里島根でしょうか。

石川さゆりは、恋に決着をつけ北海道へと戻ります。それでも未練を残し、愛憎を掻きむしり、引き裂かれた傷口を庇い。

番屋で太宰治や幻の伝説を聞きながら頂くホタテ貝は最高です。車も通れない石段の国道339号線を上ると竜飛岬です。風の強い冬場では、身体ごと持ち去られるほどの強烈な風が吹き抜けます。柵のない崖の下は青函トンネル工事の看板のある津軽海峡。北海道の陰影をソ連船(ロシア)が横切ります。
「どさ」、先ほど番屋でホタテと一緒に酒をご馳走してくれた老漁師です。「ゆさ」。義経も自決を考えたのでしょうか。弁慶は義経の亡骸を粉々にしてから岸壁からの投身を考えたこともあったでしょうか。
「旅ですよ」
「へば、んだっきゃ」
赤いちゃんちゃんこを着た女の子が叫びます、「こちゃこいへ」
お爺さんと女の子と元来た国道を下ります。海鳴りだけが追いかけてきます。
旅の者には関わらないといいつつ関わってきます。誤解だと言っても付いてくる、東京に行くことが夢だと話す女の子。宿の雨戸を鬼が何度も何度も叩いて行く。

援軍にも、静御前にも会えなかった弁慶義経の一行(北海道には静御前の伝説があります)は、青森の浅虫を経由して十三湊に着きます。十三湊は奥州藤原家が宋との貿易に開いた港で、支配下の地域です。平泉に火を放った泰衡が北に向かうころでしょうか、あるいは家臣河田次郎に裏切られて殺された頃でしょうか。それとも弁慶義経たちが三陸海岸をゆっくり北上したため、鎌倉幕府体制で十三人衆の粛清が始まる頃でしょうか。

奥州平泉 藤原政権の大構想

やはり残る疑問は、なぜ、平泉衣川館から真っすぐ北上しなかったか。
東北を支配下に置く藤原政権時代、街道整備の大構想がありました。福島県白河の関から平泉を経由して十三湊までの道です。割と雪の少ないところです。
白河の関からは京都に繋がり、十三湊からは日本海経路で北海道だけでなく西廻り航路として京都や福岡、さらには大陸へと繋がります。
いち早く逃げ延びるために、なぜこの道を使用しなかったのでしょうか。繰り返しになりますが、三陸海岸で誰かを待っていたのでしょう。コース変更を指示した弁慶は誰を待ったのでしょうか。これが弁慶義経飛翔伝説の最大のポイントです。

赤ん坊の弁慶は働きに出かけた母を待てず、這って迎えに行きました。それが松江の枕木山の「越えた坂」です。小島に流された幼少の弁慶は知恵を絞り、小石を中海に積み重ねて脱出しました(弁慶島)。母思いの弁慶だから、自立心の強い弁慶だから、三陸海岸にこだわったのです。
義経ではなく、弁慶が待っていたのです。弁慶が必要としたのです。

弁慶島
ターニングポイント④ 北海道に残る弁慶、義経、静御前伝説

北海道にも弁慶、義経、静御前の伝説が残っています。三つを紹介しましょう。

・姫待峠 あなた変わりはないですか (北海道爾志郡乙部町)

乙部には、義経と静御前に係わる地名と逸話が残っています。乙部岳は義経の九郎半官から九郎岳と呼ばれています。後を追いかけて来る静御前を思いつつ越えた姫待峠(待ってやれよ、急ぎの旅でもないのに)。やっと着いた静御前も会えませんでした。静御前は川に映る自分の姿を見て身を投げました。この川を姫川と呼びます(追えよ)。

・義経神社 (北海道沙流郡平取町本町)

平取町の説明です。北海道探検の命を受けた近藤重蔵たちが、1799(寛政11)年に義経の御神体を祀ったのが義経神社の始まりといわれています。近くには記念館もあります。
(『山陰中央新報』の神英雄「蝦夷地を測る 津和野藩士堀田仁助」をご一読ください)

・弁慶像

北海道には、寿都郡寿都町政泊町と中川郡本別町東町の二か所に弁慶像があります。

何を見る、何を待つ弁慶 弁慶岬(寿都町) 岬めぐり

岬の付いた北海道の歌には、森繁久彌や加藤登紀子の『知床旅情』、吉田拓郎作曲で森進一が歌った『襟裳岬』がありますが、弁慶岬には山本コータローの『岬めぐり』が合うでしょう。二人で行くと約束した岬・・・。

弁慶は、毎日この岬の先端に立って海の遥か彼方を見つめていました。ここに暮らすアイヌの人たちは、この岬のことを「弁慶岬」と呼ぶようになりました。二つの理由があります。

観光案内によると、地元のアイヌの人たちは、この岬のことを「ポロ・エド」と呼んでいました。大きな鼻の形の岬の意味だそうです。岬の先端が裂けていて、そこを「ベルケイ」と呼んでいました。いつの日か変化し「ぺんけい」と言うようになったのです。

もう一つが、海の彼方を眺める弁慶の姿です。
常陸坊海尊が義経再挙の兵を募り向かったという情報を信じた弁慶が、この岬で待ち続けたのです。そんな弁慶の姿を見て、いつしか弁慶岬と呼ぶようになったのです。
現在、その姿を再現した銅像が建てられています。台座に「想望」の二文字が刻まれています。

岬だけではありません。長い弁慶義経飛翔の旅路自体が、後を追いかけて来る人を待つ旅路でした。だからこそ迂回し、寄り道し、辛抱強く待ち続けたのです。
弁慶が待っていたのは援軍でしょうか。それとも別な人でしょうか。
大胆な推測をし、仮説を立てます。
弁慶が待っていたのは、静御前です。義経の為に静御前を待ったのではありません。すでにリーダーとなった弁慶は、自分自身のために静御前を必要とし、待ったのです。
静御前に恋心を抱いた弁慶。よく言うのではないですか。子供の頃、意地悪する相手は好きな子だったと。静御前に辛くあったのは(歌舞伎『船弁慶』を参照)、「本当は好きだ」の裏返し。それに気づいた静御前だから、最後の舞を披露したのです。安宅の関で義経を殴ったのは、庇ったのもありますが、「好きな静御前を捨てやがって」の激情からです。

夫(男)を求めて和歌山県の田辺から島根に来た弁慶の母・弁吉。母弁吉を求めて坂道を這った赤ん坊の弁慶。腕白小僧は寺に預けられ修行の日々、やがて義経の家臣となって戦う日々。そんな弁慶に恋物語があっても不思議ではありません。
親の敵討ちに情熱を捧げた軍人義経も、目的を果たしたのちは頼朝に追討されることで生きる目的も覇気も削ぎ落していきます。それは軍人としての宿命かもしれません。しかし、弁慶は武術だけではなく、修行によって知識や政治判断力も身につけています。次の生きる目標も、何が今大切かを引き出す知恵もあります。

源平合戦に勝利して、島根へと里帰りした弁慶。皆から嫌われた暴力者の弁慶ではなく、修験者でも、修行僧でもない、平家を倒した英雄・弁慶です。民衆や高貴な人の弁慶を見る目も変わり、接し方も変ります。当然、おなご達の熱い眼差しも意識したことでしょう。時の人となった弁慶は島根に凱旋することで、男としての弁慶となったのです。
人は変わるのです。変われるからこそ経験を重ねつつ学習し、知識を学ぶのです。その変革こそが人を成長させるのです。弁慶は好かれ愛されることで変化したのです。

戻った京の堀川の屋敷にいた美しき静御前。後白河法皇を惑わせ、義経を惑わせ、そして頼朝さえまどわせた静御前に、男となった弁慶が惑わぬわけがありません。惑うのです。苦悶するのです。忠義か恋か。戦いか愛か。弁慶は徹底的に惑うのです。

政治バランスの感覚を持つ理論派である弁慶を義経のもとから遠ざけることで、義経を意のままに操った後白河法皇でした。島根から帰ってきた弁慶は、後白河法皇に操られる義経に愕然としたことでしょう。戦う才能しかない、女好きの義経。政治バランスも考えず頼朝との和解の道も閉ざした義経。それなのにまだ後白河法皇を信じる脇の甘い義経。
戦には、戦う意味(理念)や忠義(自己実現)が必須です。しかし、それだけでは誰も命と引き換えに見方をしません。リターンが必須です。地位も大切ですが、それは権力者となる明確な政治的な目的があってのこと。この時代大切なのは、家臣や領地の民を食わせる領土です。ところが家臣に配る領地ももたぬ義経です。大義も領地もない義経に勝ち目はありません。

義経に忠義を誓った弁慶は義経との運命共同体としても、果たすべき役割がないのです。
弁慶は惑うのです。戦う目標や大義をなくした義経になお従うモチベーションをどうやって維持するか。義経になぜ忠義を尽くすか。味方のいない義経をなぜ守るか。
そこに現れたのが静御前でした。弁慶は一目惚れしたのです。里帰りした島根で、戦う以外の生きる目的を知った弁慶に芽吹いたのです。静御前への横恋慕。義経を守ることで静御前を守る。これからの生きる目的だけでなく、弁慶独自の静御前の愛し方を見出したのです。人間弁慶の仮説の始まりです。

弁慶伝説は、次回、最終回となる『あの素晴らしい愛をもう一度』に進みます。命かけて義経を守ったのは、恋した静御前のため。
乱暴者だった弁慶が仏門に入ったのは、食うため、生きるためであったかもしれません。しかし修行の中で生きることの意義を教えられたのです。老子の教えです。弁慶は悟りました。己の為ではなく、誰かのために身をささげるかを。だからこそ、金のためにはこれからも名刀を作ると言った叔父を殺害したのです。京の五条の橋で、義のない武士から刀を取上げたのです。

そんな弁慶は里帰りした島根で再び儒教を学ぶのです。一度は義経のふがいなさに絶望したのですが、静御前に恋することで弁慶は「老子」の『仁』を実行します。
「孝悌、克己、恕、忠、信」。その教えのきっかけは、父であり、天空より舞い降りた山伏。そして島根のお寺に京のお寺。

さて、弁慶義経飛翔伝説は、弁慶誕生の原点に回帰することで、島根県松江市生まれの弁慶伝説の意味を問い直します。その核が『仁』であり、その表象としての心情が静御前への恋心です。当サイトでは、人間弁慶の姿こそが弁慶伝説の結論です。

枕木山

※掲載写真について
「弁慶島」「枕木山」は、鳥谷芳雄氏より提供して頂きました。著作権は鳥谷芳雄氏に帰属します。

→「歴史と人物」に戻る


PR

小泉八雲「生霊」
小泉八雲「雪女」
小泉八雲「雉子のはなし」

PR