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十二回 時代の先端を走る新宿の昼と夜を見てきた「花園神社」

新宿・花園神社

花園神社は、JR新宿駅の東口を出て7分ほどのファッションと娯楽、歓楽の街・歌舞伎町の一角にあります。新宿で飲む方なら一度は通ったと思います。また年末の「酉の市」では大変混みあう話題の神社です。
コロナで寂しくなりましたが、コロナ前の酉の市の日は熊手を売る店に簡易の大型飲み屋、見世物小屋と賑やかでした。

熊手売りの店
見世物小屋
新宿という街

花園神社の話の前に、世界の「新宿」でもあるこの街にすこし触れましょう。

新宿のはじまりは、1698年頃(江戸時代初期)、信州高遠藩主内藤家の下屋敷として設けられた内藤新宿です。このあたりの詳細は、新宿の歴史でご確認ください。(紀伊国屋書店に新宿のコーナーがありますので、興味のある方はお訪ねください)

話は一挙に1945年、戦後間もなく新宿駅周辺に闇市が建ち並びました。ハーモニカ横丁ではカストリ焼酎が売られ、粗悪な紙に印刷されたエログロのカストリ雑誌とともにカストリ文化が生まれました。

混沌とした状況も、政府による闇市撲滅運動が始まると1950年頃までに闇市は姿を消しました。やがて小売店も次々と開店し、東口を中心に活気で満ちあふれました。カストリ雑誌も姿を消します。

1960年代、百貨店が進出し、現在の商業地としての町並みが生まれます。やがて飲食店とともに映画館や新宿コマ劇場などがオープンし賑わいました。コマにはダンスホールのある大型キャバレーもでき社交場としても繁盛します。
1964年に紀伊國屋ホールが開場し、アングラ演劇も盛んになりました。唐十郎が花園神社に紅テントを建て芝居をしたのも、1967年のことです。ジャズ喫茶や歌声喫茶などともに新宿は独自のサブカルチャー(あるいはカウンターカルチャー)の発信地となったのです。新宿PIT INN、ジャズ喫茶では木馬、ヴィレッジ・ゲート、喫茶店では風月堂、高野、TOPS、カトレアなどにも若者たちが集まりました。

ある日の通り
もうひとつの夜の街 

東京空襲で焼失した新宿の遊廓は、赤線として営業を再開します。また非公認の青線も点在し多くの女性たちがいました。戦前戦中戦後、家族が生きていくために働かざるをえなかった女性たちの悲しい歴史です。昭和33年売春防止法によってなくなります。
現在はその姿を変え、新たな価値創造と精神の開放の空間として残っています。

ゴールデン街

花園神社の裏側、うなぎの寝床のような細いカウンターだけの木造二階建ての建物が続く呑屋街が、「ゴールデン街」です。縦に6本、横に1本の計7本の通りで構成されています。

ゴールデン街の成り立ちは、1945(昭和20)年、新宿駅の東側にあった闇市が移転させられた先が現在のゴールデン街がある一帯です。ススキ野原のような空き地だったということです。その頃のゴールデン街は小説や当時のルポルタージュ文学や写真で知るだけです。

1970(昭和45)年代、カウンターカルチャーの波はゴールデン街も包み、作家や詩人、演劇人や編集者などが酒を飲みながら議論する街に変わりました。
80年代のバブル期には、地上げの荒波がゴールデン街まで押し寄せ、空き地はそんな残滓です。
今はおしゃれな店と古くからの店が調和し、外国人観光客の姿も多く見かけます。

花園神社   

花園神社の創建の由緒は不明ですが、徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在していたようです。内藤新宿が開かれて以来、新宿総鎮守として祀られてきました。
元は現在地よりも約250メートル南にありました。その地が朝倉筑後守の下屋敷となり、尾張藩下屋敷の現在の地に移りました。花が咲き乱れていた花園の跡であることから「花園稲荷神社」と伝えられています。
明治に「稲荷神社」となりましたが、1916年(大正5年)に「花園稲荷神社」に改称されました。
1965年(昭和40年)、現在の本殿に建て替えられ「花園神社」に改められました。

七五三
初詣
祀られている神様の父神は素戔嗚尊(スサノヲ)

「倉稲魂神」「日本武尊」「受持神」が祀られています。
倉稲魂神(うかのみたまのかみ)は、古事記では「宇迦之魂神」で、須佐之男命(スサノヲ)と神大市比売の子神です。日本書紀では「倉稲魂神」で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の子神です。穀物・食物の神で、現代は商売繁盛の神として祀られています。
父である須佐之男命(スサノヲ)は、高天ヶ原を追放されると、現在の奥出雲に降臨し、八岐大蛇を退治した神様です。助けたクシナダヒメ(櫛名田比売)と結ばれ、最初の妻とします。その六代目が出雲大社に祀られている大国主命です。神大市比売は二番目の妻です。
花園神社に祀られている倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と出雲の神と深い関りがあるのです。

須佐之男命(素戔嗚尊、スサノヲ)については、当サイトの『出雲神話と神々』の「二話高天原神話」、「三話ヤマタノオロチ退治伝説」、「四話最初の和歌」をご覧ください。
大国主命については、『出雲神話と神々』の「五話出雲国造り①」、「六話出雲國造り②」、「七話出雲国造り③」、「八話出雲國造り④」、「九話国譲り①」、「十話国譲り②」、「十一話出雲王国の滅亡」「十二話国譲り、その後」をご覧ください。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は、景行天皇の皇子です。熊襲征討や東国征討を行った「武神」です。

受持神(うけもちのかみ)は、保食神(うけもちのかみ)ともいいます。穀物や食物の神です。

系譜図
隣接する芸能浅間神社

芸能浅間神社(げいのうあさまじんじゃ)は、1928年(昭和3年)に花園神社境内に創祀され、1965年(昭和40年)、現在地に遷御されました。祭神は木花之佐久夜毘売です。敷地内に芸能人の奉納者の名前が多く並んでいます。藤圭子さんの「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑が隣にあります。余談ですが、ここから歩くこと15分の東新宿の西向天神社には藤圭子さんの「新宿の女」の碑があります。新宿の夜に愛された歌い手でした。(藤圭子は宇多田ヒカルの母)

「圭子の夢は夜ひらく」
「新宿の女」
新宿御苑

江戸時代は信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所です。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑として宮内省が管理し、戦後は一般に公開され現在に至っています。
約58ヘクタールの御苑内には、「日本庭園」「イギリス風景式庭園」「フランス式整形庭園」あり、四季折々の色合いをなしています。樹木の数は1万本を超え、日本さくら名所100選に選定されています。

秋の大木
レストラン「アカシア」

新宿には長い歴史を持つ沢山の飲食店があります。レストランの「アカシア」もそのひとつです。1963年に二幸(今の新宿アルタ)の裏手にオープンしました。看板メニューは、先代のおばあさんが作るロールキャベツシチューです。牛豚合挽き肉をキャベツで巻きチキンスープで煮た味に、青春時代、東京の文化を感じました。バイト代が入った日などの特別な「ハイカラ」めしでした。

レストラン「アカシア」
鯨専門店「樽一」

新宿区役所の向かいのビルの地下に「樽一」があります。

以前は東宝ビルの近くにありました。先代の出身地が宮城で、銘酒浦霞や三陸の海の幸、そして鯨料理を広めたいとの想いで創業されました。その志は今の店長にも受け継がれています。美味しい日本酒で鯨料理を頂くことが出来ます。(当サイト『自然の恵み』「食と酒」の「豊の秋」で先代を紹介)

入口
クジラ刺身
サントリーラウンジ「イーグル」

アルタの裏口の隣に「イーグル」に降りる階段があります。

昭和41年(1966)、オープン。店内は昭和がそのまま息づいています。飴色の階段とカウンター、アンティックな内装。雰囲気だけではありません。働く人のファッションや接客、そしてなによりも昭和の値段で頂けるウイスキーがあるのです。

ギムレット
クラブハウスサンドイッチ
花園神社
東京都新宿区新宿5-17-3
最寄り駅
JR・小田急線・京王線「新宿駅」東口 徒歩7分

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