• ~旅と日々の出会い~
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1話 義経は天にはばたけ、弁慶は大地に立ちつくす ― 松江生まれ、文武を会得した『弁慶』物語 ―

目次 
序 弁慶伝説のはじまり
壱 弁慶誕生の巻 三月三日桃の節句
弐 弁慶成長の巻 強い弁慶には訳がある
箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉)
  ①伝説に向かいし群像たち
  ②一瞬を駆け抜けた群像たち
参 弁慶凱旋の巻 義経の元を離れた訳は
箸休み 弁慶・義経・静御前の『四都伝説』(松江・京都・鎌倉・平泉)
  ③『四都伝説』の意義 ―旅の心得―
四 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経北帰行の道)
五 弁慶、義経、静御前、北帰行の旅路(義経飛翔伝説の道)
跋 弁慶、義経、静御前、永遠に

参 弁慶凱旋の巻 義経の元を離れた訳は

叔父の打った名刀を持ち京に上った弁慶は、五条の橋で牛若丸(源義経)に出会います。幾多の戦いと艱難辛苦の末、義経の家臣として壇ノ浦にて平家を滅ぼしました。
褒美でしょうか、弁慶は義経の命で鰐淵寺(島根県出雲市)などへ里帰りをします。これからが島根の「弁慶伝説」の後半となります。

弁慶伝説

さて、鰐淵寺(がくえんじ)に身を寄せた弁慶は、師の使いで鳥取県の大山寺へ出かけます。およそ百キロの道のりです。大山寺は標高868メートルのところにある、山岳信仰に帰依する修行道場として栄えました。

大山

住職が「一夜のうちにこの釣鐘を持ち帰ることができたなら差し上げよう」と言ったのです。弁慶は、釣鐘を担ぎ棒の後ろへ吊るし、前には提灯を下げ、鰐淵寺まで一夜のうちに持ち帰ったと伝えられています。このことから、釣り合わないことを「提灯に釣鐘」というようになったという話もあります。また銅鐘は国の重要文化財に指定され、現在は古代出雲歴史博物館(出雲大社の右)に寄託されています。

怪力だけでなく、思慮深く献身的な人物となったのです。暴力をふるい村人に嫌われた幼少の弁慶とは真逆です。これと同じ話が出雲神話の素戔嗚尊(スサノヲ)です。母の国に行きたいと言って父神イザナギを怒らせ、高天ヶ原では暴力をふるいアマテラスに放逐されたスサノヲでした。ところが出雲地・奥出雲の船通山(せんつうざん)の麓に降臨するとヤマタノオロチを退治し、妻(クシナダヒメ)を愛し、日本最初の和歌を詠う、勇敢で、知的な愛妻家になったのです。※

※ 当サイト『出雲神話と神々』をご一読ください。

船通山

・弁慶釣鐘伝説のお祭りがあります。

10月の最終日曜日、「武蔵坊弁慶まつり」が鰐淵寺で開催されます。一夜で持ち帰った逸話にそった行列です。鐘を背負った弁慶役を先頭に、参道を同じような姿をした僧兵たちが従い、稚児さんや豆剣士たちが続きます。時代絵巻のような行列です。

弁慶だけでなく、義経や静御前も想像しながら見ると、時代という儚さも感じます。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」です。

なお、弁慶は18歳の時に鰐淵寺に修行僧として入山し、藩州書写山に仏教を学び比叡山延暦寺に向かったという説もあります。

・鰐淵寺について少し説明します。

594年(推古2年)、信濃国の智春上人(ちしゅんしょうにん)が祈願成就のお礼に建立した勅願寺として伝えられています。推古天皇の眼の病を治すために、『浮浪の滝』に祈ると平癒されました。


「鰐淵寺(がくえんじ)という名前は、智春上人が浮浪の滝のほとりで修行をしている時に、誤って仏器を滝壺に落としてしまったところ、鰐(わにざめ)がエラに引っ掛けて奉げたことから“浮浪山鰐淵寺”と称するようになったということです」(出雲観光協会公式ホームページ『出雲観光ガイド』より)

鰐淵寺

・壇ノ浦が終わったいつ頃に、弁慶は帰ってきたのでしょうか? 

いくつか推理して仮説を立ててみましょう。皆様も一緒に考えましょう。
その前に少し義経との出会いと源平合戦について触れておきます。

義経物語 (宇治川の戦いから都落ちまで)

1185年4月25日、一の谷の戦い、屋島の戦いと続いた治承・寿永の乱も壇ノ浦(現在の山口県下関市)の戦いにて「おごれる」平家も源氏に敗れ、平家は滅亡します。ここから源頼朝(と北条家)による武士政治が始まります。それは義経の排除・逃亡の歴史の始まりでもあります。が、暫くは輝かしい武将・義経伝説を追うことにします。

序 牛若丸、黄金の奥都平泉(藤原秀衡)をめざす

『吾妻鏡』や『義経紀』でも弁慶との絡みはほとんどありません。また、義経についても、平泉に至る過程はほとんどが謎です。
源義朝と常盤御前の子でしたが、赤子ゆえに平清盛に許され、殺害されることなく鞍馬寺で生き延びた義経です(頼朝も死罪から島流し)。
血筋こそ源家の本流ですが、頼るべき家臣も領地もない天涯孤独の義経です。無力な幼少の義経が、どのような経緯と人脈で東北の平泉まで行き(逃亡?人身売買?)、藤原秀衡に取り入ったか、謎です。ドラマや小説では弁慶が同行しています。

・1180年(治承4年)8月17日

北条家や東国武士の後押しで源頼朝が挙兵すると、わずかな家臣(藤原秀衡の家臣)とともに駆けつけた義経でした。自前の軍事力も領地もない、血筋という象徴としての「源」兄弟の出会いです。

  • 1184年1月20日 討つべし木曽義仲、激流を越え宇治川の戦い

京の都から平家を西国に放逐した木曽義仲(1183年7月)ですが、平家は幼い安徳天皇と三種の神器を持ち去りました。屋島で体制を立て直した平家は義仲の追撃を撃破し、強固な海軍とともに戦闘態勢を築きます。後白河法皇は、三種の神器がないまま新たに後鳥羽天皇を立てます。この後鳥羽天皇は後に隠岐の島に流されます。

義仲は京にとどまり支配し、自己防衛から後白河法皇を監禁しました。
鎌倉の源頼朝は、弟にあたる源範頼を大将とし、義経を別行動隊とした大軍を京へ送ります。勝敗は、義経率いる僅かな隊が宇治川を突破することで勝敗を決し、木曽義仲は逃亡先の粟津で自決します。

頼朝から義経の監視役として同行した梶原景季が、頼朝から授かった名馬が『池月』です。島根県邑智郡の「池月酒造」にも、この名馬からの酒『池月』があります。※

 ※池月酒造については、当サイト『食と酒』「源頼朝の名馬、池に映る月影のごとし」をご覧ください。

  

  • 1184年2月7日 討つべし平家、絶壁の逆落とし「一の谷の戦い」 ※

頼朝は後白河法皇から、平家追討の命を受けます。再び源範頼を大将とし、平家が待つ西国へと向かうのでした。ここでも義経は、頼朝の家臣の軍配に従わず、従来の戦い方では考えられない奇襲作戦をとるのでした。自ら先頭に立ち、急な崖をわずかな戦力で下り(鵯越・ひよどりごえ)、平家の手薄な背後から攻めたのです。

平家は驚き、海洋に浮かぶ船へと逃げます。本来ならば踏みとどまって立て直すことも十分考えられます。ところが従来の正規軍同士が正面で名乗りを上げて戦をする方法ではなく、ある意味卑怯な奇襲戦法でした。平家の武士もマインドを維持できなかったのでしょう。それに山側にいた幼い安徳天皇を囲む女性が慌てたのです。
少数のスピードある奇襲は、義経からすれば自分の軍隊をもたない知恵と戦略でした。ここに軍人としての義経が完成します。※

※ 幸若舞曲の『敦盛』の舞台です。

義経の戦いと成果は、鎌倉ではまったく喧伝されませんでした。ところが京都では大評判で義経の人気はどんどん上がります。失礼な表現ですが、義仲から謀略された京を解放した山猿・義経が、圧倒的優位な海軍平家に勝ったのです。それも京美人の常盤御前の子で、幼少時代は京に暮らしていたのです。ただの山猿ではありません。
後白河法皇の暗躍も多才を帯びてきます。頼朝対策に義経を使おうと画策します。もちろん頼朝も義経を家臣に据え置く策を講じます。政治家としての頼朝の戦略です。
義経に多少たりとも政治能力とバランス感覚があれば後の生き方も変わったでしょうが、敵討ち第一の軍人・義経は舞い上がりました。風見鶏のように家臣となった武士も同じでした。

  • 1185年2月19日 平家の棟梁を放逐、荒波を越えた「屋島の戦い」

屋島に本陣を構える平家。三度、義経は無謀な奇襲作戦を取るのでした。
何が義経を追い立てたのでしょうか。弁慶は何を求めたのでしょうか。義経には安寧な社会を築くとか、新しい世の中にするとか、家臣のために財を成すなどまったくありません。ただただ「親の仇」「平家討つべし」「兄・頼朝に認められたし」の心情しかありません。その純粋さに弁慶は惚れたのでしょう。

嵐の中、四国に渡った義経は、屋島に根拠地を構えた平家の棟梁・平宗盛を背後から攻撃しました。平家は、安徳天皇と三種の神器とともに船へと逃げます。ここで有名な逸話が、那須与一の扇です。

  • 1185年3月24日 平家滅亡、史上初の総力海戦「壇ノ浦の戦い」

壇ノ浦の戦いの勝敗を決したのは関門海峡の潮の流れの変化と、ドラマで紹介されています。実際は潮の流れではなく、戦術の立て方にあったようです。

義経軍は海上から、陸上からは範頼軍が平家の船に弓を射ます。目標は鎧を身につけた武将ではなく、防御装備の貧弱な水手・梶取たちでした。従来は非戦闘員への攻撃は卑怯なことと控えていました。この結果、平家の船は身動きが取れなくなり波にのまれ大敗します。平家不利と見た諸将の多くが寝返りました。その頃の主君との関係はこの程度の関係でした。その後、組織化が重視されます。

『吾妻鏡』によると、二位尼(清盛の妻)は宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水、建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げました。多くは救助されます。
教盛も経盛も資盛たちも入水します。ところが総帥宗盛と嫡男の清宗は泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられます。

三種の神器のうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉は回収できましたが、草薙の剣は回収できませんでした。後白河法皇は失望し、頼朝は激怒します。その意味を義経は理解できなかったのです。それは政治としての戦の意味ともいえます。

・義経戦略

  1. スピードある奇襲戦 (従来の戦い方、考え方、価値観を壊した ⇒ だから勝てた)。
  2. 大将自らが先陣をとる (大将が先陣を切ると家臣は続くしかない。とくに手柄の欲しい野心武士や物欲の野武士、そして忠実な家臣) 。
  3. 戦に現場にいるものはサポートでも戦闘員とみなす (戦という考え方を変えた。公家さえも標的となった)

これとそっくりな性格と戦法をとるのが織田信長です。自ら先頭に立ち、スピードある攻撃。そして非戦闘員であっても戦であれば戦闘員とみなす(比叡山の焼き討ち)。『敦盛』を好んだのも義経の歴史を学んだかもしれません。

・頼朝からみた義経の失態

  1. 後白河法皇から官位を授かった。 (誰がお前の棟梁だ。頼朝の公家政治を壊し武家政治を創りあげる構想の否定)
  2. 三種の神器すべてを回収しなかった。(戦後処理の重要性に気づかない)
  3. 派手な先陣をとり、頼朝直下の東国武士の家臣をないがしろにした。(家臣のモチベーションと忠誠心づくり)

頼朝にとって義経は家臣のひとりに過ぎない(義経の認識は兄弟。同等として認識。父を殺された兄弟愛)。その家臣が自分の意のままに動かない。動かない理由は、優れた軍人義経ゆえの政治センスのなさでした。ただ、このセンスのなさが頼朝政権を実現させたのも皮肉なものです。

  • 1185年4月24日 義経、都への凱旋

義経は、建礼門院と守貞親王それに宗盛・清宗父子など捕虜を連れて京に凱旋します。後白河法皇は、義経とその配下の御家人たちを任官しました。頼朝は激怒、任官した者たちの東国への帰還を禁じました。(後白河法皇の家臣になる証しであり、頼朝政権への謀反)

ここに政治家としての頼朝、軍人としての義経の確執が生まれます。頼朝には、東国武士を核とした頼朝を頂点とした武士政治体制という明確なビジョンがありました。主従関係を結ぶのは頼朝であり、官位を与えるのは頼朝です。ところが義経は後白河法皇から官位を受けたのです。たとえ無自覚であったとしても頼朝から見れば、武士社会構築の否定となります。「お前は誰の家臣だ」ということです。

ここが後白河法皇の権謀術数が激しなります。策略家の所以です。義経など赤子の手を取るほどに簡単なことだったのでしょう。残念なのは、義経はそれに気づかないほど政治センスがなく、敵討ちするだけの純粋な青年だということです。

  • 1185年5月7日、義経、頼朝との確執の拡大

1185年5月7日、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かいます。しかし腰越で止められました。宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面します。

1185年5月24日、義経は腰越状を書いて頼朝へ許しを乞いますが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまいます。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首されました。

1185年6月、都に戻る

1185年8月16日 伊予守仕官、検非違使・左衛門少尉を兼務。これで反頼朝が明確となります。完全に公家政治の軍事道具としての武士に義経はなったのです。

1185年10月16日 後白河法皇に頼朝追討の宣旨を要請

1185年10月17日 頼朝が放った土佐坊昌俊に襲撃される

1185年10月18日 頼朝追討の宣旨が下される

1185年11月3日 都落ち、西国へ。義経は朝敵となり、頼朝からも後白河法皇からも攻撃される立場になったのです。哀れ義経です。

弁慶は島根に里帰りしたのはいつ?

【大胆仮説①・里帰りの時期】

壇ノ浦に大勝利をして京に凱旋するも頼朝の逆鱗に触れ(後白河法皇から官位を受けた)、詫びに鎌倉に向かったのが1185年5月7日。しかし、頼朝は面談を拒否、腰越状を書いて頼朝に詫びるが叶わず(弁慶が出向く)。1185年6月の中旬京に帰りつきます。

1185年10月17日 京の堀川の館を、頼朝の放った土佐坊昌俊が襲撃。弁慶たちが迎撃します。

弁慶が島根に里帰りしたのは。

鎌倉から義経に同行して京都に帰りついた1185年6月中旬から、土佐坊昌俊に襲撃され弁慶も戦った10月17日まで(その前に京に帰って来ています)の4か月間。唯一義経のもとを弁慶が長期に離れることができ期間です。

【大胆仮説②・後白河法皇の陰謀】

重要なポイントは、「1185年8月16日 伊予守仕官、検非違使・左衛門少尉を兼務」です。
再三再四、義経を政治センスのない優れた軍人として評価しました。政治バランスの欠けた義経だから、そして頼朝の描く武家政治のビジョンが理解できないからこそ、後白河法皇にとって義経は源平合戦の戦後処理として使い勝手がよかったのです。

平家の娘が嫁に差し出され、数多の公家が娘を差し出し、後白河法皇も認めた静御前と暮らし、どっぷり公家の世界につかり、さられ後白河法皇がから官位を授けた。
頼朝の新しい世界=武士社会の体制づくりに向かうのでなく、従来の公家社会(武士は徴収の道具)へと義経は進むのでした。それは義経の意思ではなく、政治センスの欠けた無知ゆえの性です。さらには父の敵討ちの一念に純粋に戦い抜いた「若き戦闘者」の悩みでもあったのです。

頼朝をトップとした鎌倉幕府を構築するに頼朝にとって(北条家も同じ)、義経は邪魔になりした。義経を断つ絶好の機会でした。

しかし、ここに一人の邪魔な人物がいます。京の公家社会を知り尽くし、権謀術数の政治を見、かつ比叡山にて仏法を学び、中国の政治・歴史を学んだ弁慶でした。

後白河法皇たち反頼朝派は、義経を骨抜きにするために長期にわたり弁慶を遠ざけるこが必須でした。その合理的な名目が、義経の命による「弁慶里帰り」戦略でした。
伝えたのは義経でしょうが、戦略を練ったのは後白河法皇たちでしょう。

【大胆仮説③ 弁慶が島根にいたのは「夏」】

京に戻った1185年6月中旬から伊予守仕官、検非違使・左衛門少尉となる8月中旬。この二か月となります。なぜならば、この官位には弁慶は猛反対したはずです。頼朝に忠誠を尽くすことは、後白河法皇からの褒美を辞退することだと鎌倉詣での時に十分認識したはずです。

弁慶の不在の時に、後白河法皇は義経を伊予守仕官、検非違使・左衛門少尉にしたのです。政治センスのない義経は頼朝への腹立ちもあり配慮もなく受けたのでしょう。
弁慶は官位を授かった知らせに激怒し、京への街道を怒涛のごとく走り抜けぬことでしょう。しかし、「遅かりし由良之助」です。義経は後白河法皇のマリオネットとなったのです。あとははさみで糸を切られるだけの状態となりました。

弁慶里帰りの時期は、6月中旬から8月中旬の二か月間。

鰐淵寺のお祭りの装束、あるいき残された史料に記載される「季節感」はどうでしょうか。このあたりを考察すると、もっとリアリティー性を帯びてくるはずです。

弁慶伝説を訪ねての旅、鰐淵寺の旅は初夏から夏にかけてお訪ねください。

次回は、弁慶伝説の深みを探るため「義経・弁慶・静御前、北帰行の伝説」を紹介します。そのまえに「北帰行の伝説」を訪ねる「旅」を楽しくするために民俗学の旅についてお話します(箸休み)。

つづく

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